2020年6月30日

蛇足ー人気ということ


今回、ブログに「閲覧数の多い投稿」-「全期間」と「過去7日間」という表示を新たに加えましたが、特に深い意味はありません。このガジェットのデフォルトの表記は「人気の投稿」英語では「Popular post」となっていますが、個人的には、「このような投稿が「人気」です」というつもりはさらさらありません。単に過去にこのような投稿がよく読まれているようです、その理由はわたしにはわかりませんし、関係のないことです ── といった感じでしかありません。実際に書いた本人が、なんでこのような投稿が読まれているのか見当もつかないというのが正直なところです。
書き手からすれば、もっといい投稿はいくらでもあるのに・・・というのが本音です。

Tumblrをやっていて屡々感じるのは、なんでこのポストのリアクションが3桁4桁なの?この絵のいったいどこがいいの?だったら、彼/彼女の、この14しか反応のない絵(写真)の方が遥かに優れているのに・・・と。

嘗てショーペンハウエルは吐き捨てるように言いました。「読者数と著作の質は反比例する」

「彼はどうしてこんなに人気があるの?」
「ばかだなあ。人気者だからさ!」
むかしからあるアネクドートです。「流行」「人気」というものの性質を巧みに言い表わしています。

「本」に限って言えば、誰の言葉であったか、「数年に一人の利用者しかないような本をどれだけ所蔵しているか、それが図書館の質を決める」── まったく同感です。

「ぼく自身或いは困難な存在」の本質は、所謂「閲覧数の少ない」投稿にこそ記されていると信じていながら、敢えて、蛇に脚を描いてみました・・・


私はだれもが口をそろえて正しいとすることを、たぶん、であるからこそ、いぶかしみ、はなはだしくは憎むという長年の悪い癖がある。誰もがゆるやかに認めざるをえない中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ詩や思想を、であるからこそ、私はまったく信じない。
— 辺見庸 『しのびよる破局 - 生体の悲鳴が聞こえるか』あとがき、より

今では辺見からも離れてしまったが・・・














2020年6月5日

「なんで外に出たがるのか」

数日前の新聞をたまたまめくっていたら、中島義道の寄稿が掲載されていた。

辺見庸の文章を読みなれたわたしにとって、中島義道という変わり者のペシミストの言葉はいかにも軽く感じられた。ただし新聞に掲載されているということもあるのだろうが、極めて平易な言葉で書かれているのはいい。難解な語彙を多用するのが辺見の特徴だが、それ以外の、例えば「文学者」とか「哲学者」と呼ばれる者たちの語り、書く難解さは、臭くていけない。

中にこのようなことが書かれていた。

私の周囲には、引きこもりの若者や、一刻も早く死にたい女性や、逆に死ぬのが怖くてたまらない青年が群れ集まっているが、そんな彼らは、このコロナ時代、まるで異なった見方をしている。メールで、長く引きこもっているある青年に、「たぶん、最近きみ元気になったんじゃないの?」と聞いてみると、「ええ、不思議なことに元気が出てきました」との返事。そしてその後が傑作である。「先生、みんな、なんで外に出たがるのか不思議です」。こういう人間もいるのだ。しかも、かなりの数。

わたしは所謂「引きこもり」だが、出られるものなら外に出たいと願う。けれどもそれは所詮できない相談だ。わたしには「みんななんで外に出たがるのか不思議です」という感覚がわからない。そして「彼」が「元気になった」のは、外に出ないのが自分だけじゃなくなったからだろう。わたしは仮に「引きこもり」が礼賛されるようになっても、可能ならば外に出たい。外に出ることが不思議に思われる世界であっても。

「引きこもり」と呼ばれるのが、「いずれは就労に」と望んでいる者たちと、みなが同じように出(られ)なくなると「俄かに元気になる」ひとたちのようなものばかりであるなら、わたしはここでもまた「異端」であり「外道」である。



わたしはこの時代にどうしても馴染むことができない。
酒が止められない人間、酒浸りの人間は、その弱さゆえに人間臭い・・・というよりも「人間」そのものであるけれども、ネット配信で映画を観る者たちは、電子書籍を本と勘違いしているもの同様に、所詮わたしには縁なき人々である。なぜならわたしには、彼ら/彼女らを「人間」として認識する能力をもたないから・・・



尚、底彦さんが、「ネット配信で」、『精神0』を見たことをブログに書かれていたが、『精神』は既にご覧になったのだろうか?母は映画館でみている。


以前『精神』について書いた感想文をここに再掲しておく。
参考までに・・・





想田和弘監督の『精神』という映画を観た。2009年に公開・上映されたドキュメンタリー(?)で、岡山県の、ある診療所に通う精神病患者と、老医師やスタッフの日常を描いた作品だ。

その診療所は古い民家を改造してつくられていて、診察する場所と患者たちの所謂「たまり場」のようなスペースが同じ敷地内にある。そこに通う人たちの多くは、自分で働くことの出来ない人たちで、抱えている病気同様に、経済的な問題にも常に直面している。医師やスタッフたちは、そのような問題についても患者と共に取り組んでいて、ある意味治療上での人間関係にとても恵まれた環境だと言える。

重い精神疾患をもつ人たちを、わたしもいくつかの精神科病院で見たことがある。外側から見ているだけでは、彼ら・彼女らは、待合室のソファにぐったりと横たわっていたり、無表情に一点を見つめている・・・或いは何もその視界には入っていない、という風にしか見えず、彼らの話しを聞くことなしに、その内面をうかがい知ることは困難だ。

映画に出演した患者さんたちは、医師の前できちんと語り、またカメラに向かって自分の状態や現在に至るまでの経緯・経過をとてもわかりやすく話す。
薬の影響なのか、呂律がうまく回らない人でも、話す内容は知的で整然としている。
中の一人は「自分たちはマイノリティだから・・・」と言っていたが、
「マイノリティとは考える人たちである」というミシェル・フーコーの言葉が頭の中に蘇る。

彼らの話を聞き、その話し方、表情を見ていると、最近よく言われている「生き辛さ」という言葉とは違った印象を受ける。言い方を換えれば「生きづらい」などという生易しい言葉では表現できない世界に彼らは生きているように思える。
そしてこの映画に出演している、所謂精神病患者たちを見ていると、今更ながら自分は「彼ら」の「側」の存在であることを感じさせられる。無論その苦しみ、悩みの質・量に於いて、わたしなどは及びもつかないが、「生きる」ということ、自らの「生」の在り方というものに絶えず真正面から対峙しなくてはならないという点、そしてそれ故必然的に、常に「死」というものに向き合っていなければならないという点に於いて・・・



ここから歩いて5分くらいのところに公園がある。比較的大きな公園で、緑も多く、春にはここに花見客が集まってくる。
今のわたしが歩いてゆけば5分では行きつかないかもしれないが、そんな公園に行ってからだを動かせばいいだろうとは思うけれど、何故か行く気になれない。

何をしても楽しくない、虚しい。

『精神』の中で、比較的若い女性の患者が、「死ねば楽になるといつも思っている。実際に自分の友達、親友がどんどん自殺した。みんな楽になったのかな?と思っている・・・」と語っていた。

わたしは彼女たちのように自殺を試みるだけの覚悟も勇気も、生への熱意もない。ただ、楽に死ねるのなら、もう生きることを止めたいといつも思う。

わたしにとって、精神や知的障害を持った人がこの世に存在することは救いなのだ。
人が生きるということに付随する「悩むこと」という意味を、具体的な姿にしたのが彼らの存在のように思えるのだ。
誤解を恐れずに言うなら、彼らは彼らの病、障害によって価値がある、と。

『狂気とは、もうこれ以上進行することのない心痛である』という言葉がある。
しかし彼らは生きることもままならず、死ぬることもままならず、完全なる狂気に帰還することもできないまま、それぞれの闇の中に生きている。

そしてわたしも、また・・・などと言ったら、誰かの嘲い声が聞こえてきそうだ・・・

2017年8月15日














2020年6月3日

追記


アートに於いても、言葉にしても、わたしは最早自分の内なる「狂気」を的確に表現する能力すら喪ってしまったようだ。

今、強く「醜いもの」に惹かれるが、それはわたしが存在している世の中ー日本ー東京に満ち溢れているような「醜悪さ」ではない「美しさを伴った醜さ・・・」

醜いといっても「スマホ」はひたすらどこまでいっても醜いだけで全く絵にならないが、「ホームレス」や「乞食」「泥酔」は立派なアート足り得る。文芸足り得る。
今の社会がホームレスに事欠いているとも思えないが。

美に満ちた醜さとはどのようなものなのか・・・







アートブログについて2


久し振りにJunkoさんからコメントを頂いたが、お返事を書く前にちょっと・・・

以前の投稿でJunkoさんから、わたしの感性(?)が理解されない・・・ということは、寧ろ「賛辞」だと言ってもらったことがある。しかしそれはあくまでも、このブログのわたしの発言に関してのことであって、アートブログの投稿についてではない。

この「ぼく自身・・・」については、そもそも「人気」など求めようがない。
ブログの紹介に「狂人の記した狂気の記録」であると明記してある。
世上「狂人」が溢れているとも思えない。

これは皮肉でも自嘲でも自棄でもなく、底彦さんはもうわたしのブログを読んではいないだろう。
第一に底彦さんご自身のブログに書かれているように、読むこと、考えることが困難な状態にあるということ、主治医から「食べて寝るだけの生活」を勧められているということもあるが、仮にその状態が比較的軽くなったとしても、わたし自身、もう底彦さんの心に届く何ものも書けないし、実際にここ数か月の投稿は、ほとんど単なる文字の羅列に過ぎない。

そして、過去の投稿を読み返してみて、かつてわたしは一度でも満足な投稿をしたことがあったのだろうかと怪しむ。



最近は底彦さんのブログも含め、日本語のサイトを全く見ない日が増えている。
一番多く訪れている底彦さんの更新が不定期だからだ。

たまに「猫額洞の日々」を覗く(文字通り覗くだけだが)と、相も変わらず、アベやトランプへの悪口ばかりという印象を受ける。

わたしは日本の行政というもの・・・それが保健所であろうと図書館であろうと、基本的に「日本人のやることすべて」に信を置いていないので、怒ること自体がとても無駄なことに思えてならない。したがって今年11月(?)だかにある都知事選にも無論(生きていればの話だが)行くつもりはない。わたしは宇都宮健二(名前は不正確かもしれないのであしからず)を支持していない。(わたしは彼が前回の都知事選で、「オリンピックは歓迎すべきことだが・・・」と言っていたことを忘れない)

猫額洞は「長生きをしたいとは思わないが、せめてアベが辞めるのを見届けたい」と。
けれども、安倍政権がなくなったからそれがいったいなんだというのか?
安倍政権を生み出し、大きく育てた日本という土壌はまるで変らない。名前の違うアベやアソウが次々とコクミンの無意識によって誕生するだけだ。

何故こうも「政治」と「国民」を分けて考えたいのか?
繰り返すが安倍政権は生まれるべくして生まれ、なるべくしてここまで成長したのだ。



底彦さんは、重いうつ病に苦しんでいるが、彼を「精神障害者」と言うことにどうしても抵抗がある。無論彼には「障害者年金」をもらう資格がある。けれども、やはり繰り返しになるが、底彦さんは、まったく狂ってはいない。重い心の病であることと、狂っていることとはまったく違う。だから、わたし=狂人の書いたものが理解できるはずがないのだ。

それは狂人であるわたしが、マトモの権化のような「猫額洞」の書くことにいちいち首をかしげざるを得ないということと同じこと。



アートブログに関しては、「全く」と言っていいほど人気がない。それが全然気にならないと言えばうそになるが、まあ所詮はわたしのセンスなのだから仕方がないとも思うし、同時に、観る人がいないのだからなんだって投稿できるという気楽さがあることも事実だ。
「離れていく心配」がもともとないというのは気楽でいい。
既に昨夜の投稿を見てもわかるように、好き勝手にやっている。これからもっと羽を伸ばすつもり。まだまだなまぬるいと思うし、アートにも、ポルノにも徹しきれないように、「狂気」に徹することも容易ではない・・・

しかし世の中にはわたしの「狂気」に応え得るアートが、まだあるのだ。
言葉では表し得ない狂気を。



フェイスブックで8万人近いフォロワーを持つドロローサでさえ、ブログでは800人ほどのフォロワーだ。100分の一である。

ブログからタンブラーに移っていった人を少なからず知っている。そしてまたタンブラーからSNS(主にインスタグラム(?))に移っていく人を知っている。
わたしは敢えて逆の道を行っている。



例によって、支離滅裂な文章になったが、最近感じていることは、憧れるひとがいるっていいなあということだ。ここにきて、タンブラーでも、そしてブログではもっと、素晴らしいブログに邂逅した。「見上げる存在」がいるっていいものだ。
「敵わないなあ」と感じさせてくれる人がいるのはいいものだ。

「見下せる者」がいる方がいい者もいるらしいが、わたしは、自分よりも(センスや発想や思索の深さに於いて)「下」という存在ばかりではやはり退屈で仕方がない。