2020年6月3日

追記


アートに於いても、言葉にしても、わたしは最早自分の内なる「狂気」を的確に表現する能力すら喪ってしまったようだ。

今、強く「醜いもの」に惹かれるが、それはわたしが存在している世の中ー日本ー東京に満ち溢れているような「醜悪さ」ではない「美しさを伴った醜さ・・・」

醜いといっても「スマホ」はひたすらどこまでいっても醜いだけで全く絵にならないが、「ホームレス」や「乞食」「泥酔」は立派なアート足り得る。文芸足り得る。
今の社会がホームレスに事欠いているとも思えないが。

美に満ちた醜さとはどのようなものなのか・・・







3 件のコメント:

  1. 実朝の歌, 太宰の言葉, それらが間違いだったとしてもあまり私には関係は無いと思います. 私の心に届くかどうかなので.
    それにしても実朝の歌は美しいと思います.

    私はこのような感性を持った一人, 実朝の歌が, 言葉として残ったことは何と素晴らしいことだと思うのです.
    これを知れたことは Takeo さんのおかげです. ありがとう.

    私の自分のことだけを言うならば. 私は自分がこの世界の中で存在したいと思っています. それゆえの苦しみはあるでしょう.
    存在とは何か? なぜ私はここにいるのか? 私の言葉は何なのか?
    ところが, 私が感じる Takeo さんの在り方は, 存在の否定, 問いかけの否定, 言葉の否定, そのものなのです.
    なぜですか?

    私は Takeo さんがあまりにも優しく繊細な心の持ち主だと知っていると思います.
    Taeko さんは生きる, 生にしがみつくというのは嫌ですか?

    私も生きるとか, そういうのは嫌です. でも考えたいことがあります.
    なぜ生きるのかということです.
    私はなぜこれほど自分が嫌いなのか. なぜそのことを言葉で追い詰めようとしているのか.
    そして, 自我とは何なのか.
    何のためにだらだらと生きているのかということです.

    それは自らの生きる意味を見つめたいがためではないのでしょうか.
    どんなに厭世的な人であっても, 自分が何なのかという問いには向かうのではないでしょうか.
    たとえば私は自分の自己嫌悪を見てみたいと思っています.
    Takeo さんは自らの不条理を見つめてみたいと思うのではないですか.

    Takeo さんの言葉は美しい. まるで詩のようです.
    そして私はそれを Takeo さんの生への意思だとも思うのです. 間違っていますか.

    少し余計なことを書いてしまったかも知れません.
    ごめんなさい.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      これを書いている時点で、底彦さんのブログの更新があったのか、まだ拝見してはいません。

      Junkoさんのコメントへの返信にも書きました。Junkoさんは、「今後私はますます孤立を深めていくでしょうね。でもかまいませんけど」と、文字通りではありませんが、そのように言われています。

      わたしはJunkoさんや、また瀬里香さんのように、「世界のみなしご」であること、「世界にたったひとり遺棄された者」であることに平気ではありません。これは「平気でいられる方がおかしい」という批判ではありません。わたしがJunkoさんや瀬里香さんに比べて、底彦さんのよく使っていた言葉を借りるならば、「弱すぎる」のです。

      >私は自分がこの世界の中で存在したいと思っています. それゆえの苦しみはあるでしょう.

      わたしにとって存在するが故の苦しみは、存在することを上回っています。
      苦悩・苦痛は、存在に付随するものではなく、今や存在そのものなのです。

      > 私が感じる Takeo さんの在り方は, 存在の否定, 問いかけの否定, 言葉の否定, そのものなのです.
      なぜですか?

      存在することの苦しみの中で、生きる意味を問うことに何の意味があるでしょう?

      先日、右に載せているふたつのブログに興味深い引用がありました。
      Fragments of Noirにはニーチェの言葉が。最近は母と競うように物忘れが激しくなっているので、曖昧ですが、確か「生きるということは苦痛に他ならない。そして生きるということは、その「苦痛」に意味を見出すことだ」と。わたしはあまり共感できませんでした。そして、エミール・シオランが言っていた「ニーチェの処女性のようなものへの嫌悪」という言葉が頭に浮かびました。すれっからしのシオランから見れば、ニーチェと言う人は「余りに純粋」に見えたのでしょう。もちろんいい意味ではありません。

      もうひとつはどこで見たのか忘れましたが、トルストイの言葉で、ニーチェのように「苦しみに意味を見出すことが生きるということ」などという、良くも悪くも文学青年のようなことは書いておらず、単純に「人生とは無意味である」と吐き捨てるように言っています。無論わたしはトルストイの言葉に共鳴します。
      この二人とも、途轍もなく苦しく、孤独な晩年を送ったのですが。

      いまのわたしにとって、すべてはトルストイの言葉のようにMeaninglessなのです。
      考えたいとか、突き詰めてみたいという欲求さえももう完全に揮発してしまいました。

      前にも書きましたが、わたしが生きているのは単純に、まったく単純に死ぬのが怖いからに他なりません。死ぬのが怖いといっても、射殺とか、ギロチン、斬首のようなものであるなら、おそらくは「進んで」死を選ぶでしょう。苦痛を感じない死であるなら、こちらから出向いていきたいと思います。

      それ以外に生きていることへの積極的な意思など皆無です。

      とはいえ、それがいまのわたしの現実であるとはいえ、底彦さんとの、Junkoさんとの対話を否定するつもりはありません。

      このことについても、何か感じることがあれば遠慮なく問いかけてください。

      追伸

      わたしはJunkoさんが送ってくれたビデオを全く少しの誇張もない今の現実の社会そのものだと思っています。少なくともわたしの目には外の世界は正にこのように見えているのだということを知るためにはいいかもしれません。

      不充分な返信になってしまいましたが、時間をかけても基本的な「気分・気持ち」がかわるわけではありません。不充分なまま送信します。

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    2. これは太宰の同じ小説で知ったのか、或いは彼の別の小説か、それとも、ここにも書いた「五合庵」という素晴らしいブログで知ったのか、昔からとても好きな実朝の歌があります。(例によって仮名遣いは不正確です)

      東海の磯もとどろに寄する波
      さけて砕けてわれて散るかも

      いまのわたしにはこの歌の方がしっくりくるのです・・・







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