2020年6月5日

「なんで外に出たがるのか」

数日前の新聞をたまたまめくっていたら、中島義道の寄稿が掲載されていた。

辺見庸の文章を読みなれたわたしにとって、中島義道という変わり者のペシミストの言葉はいかにも軽く感じられた。ただし新聞に掲載されているということもあるのだろうが、極めて平易な言葉で書かれているのはいい。難解な語彙を多用するのが辺見の特徴だが、それ以外の、例えば「文学者」とか「哲学者」と呼ばれる者たちの語り、書く難解さは、臭くていけない。

中にこのようなことが書かれていた。

私の周囲には、引きこもりの若者や、一刻も早く死にたい女性や、逆に死ぬのが怖くてたまらない青年が群れ集まっているが、そんな彼らは、このコロナ時代、まるで異なった見方をしている。メールで、長く引きこもっているある青年に、「たぶん、最近きみ元気になったんじゃないの?」と聞いてみると、「ええ、不思議なことに元気が出てきました」との返事。そしてその後が傑作である。「先生、みんな、なんで外に出たがるのか不思議です」。こういう人間もいるのだ。しかも、かなりの数。

わたしは所謂「引きこもり」だが、出られるものなら外に出たいと願う。けれどもそれは所詮できない相談だ。わたしには「みんななんで外に出たがるのか不思議です」という感覚がわからない。そして「彼」が「元気になった」のは、外に出ないのが自分だけじゃなくなったからだろう。わたしは仮に「引きこもり」が礼賛されるようになっても、可能ならば外に出たい。外に出ることが不思議に思われる世界であっても。

「引きこもり」と呼ばれるのが、「いずれは就労に」と望んでいる者たちと、みなが同じように出(られ)なくなると「俄かに元気になる」ひとたちのようなものばかりであるなら、わたしはここでもまた「異端」であり「外道」である。



わたしはこの時代にどうしても馴染むことができない。
酒が止められない人間、酒浸りの人間は、その弱さゆえに人間臭い・・・というよりも「人間」そのものであるけれども、ネット配信で映画を観る者たちは、電子書籍を本と勘違いしているもの同様に、所詮わたしには縁なき人々である。なぜならわたしには、彼ら/彼女らを「人間」として認識する能力をもたないから・・・



尚、底彦さんが、「ネット配信で」、『精神0』を見たことをブログに書かれていたが、『精神』は既にご覧になったのだろうか?母は映画館でみている。


以前『精神』について書いた感想文をここに再掲しておく。
参考までに・・・





想田和弘監督の『精神』という映画を観た。2009年に公開・上映されたドキュメンタリー(?)で、岡山県の、ある診療所に通う精神病患者と、老医師やスタッフの日常を描いた作品だ。

その診療所は古い民家を改造してつくられていて、診察する場所と患者たちの所謂「たまり場」のようなスペースが同じ敷地内にある。そこに通う人たちの多くは、自分で働くことの出来ない人たちで、抱えている病気同様に、経済的な問題にも常に直面している。医師やスタッフたちは、そのような問題についても患者と共に取り組んでいて、ある意味治療上での人間関係にとても恵まれた環境だと言える。

重い精神疾患をもつ人たちを、わたしもいくつかの精神科病院で見たことがある。外側から見ているだけでは、彼ら・彼女らは、待合室のソファにぐったりと横たわっていたり、無表情に一点を見つめている・・・或いは何もその視界には入っていない、という風にしか見えず、彼らの話しを聞くことなしに、その内面をうかがい知ることは困難だ。

映画に出演した患者さんたちは、医師の前できちんと語り、またカメラに向かって自分の状態や現在に至るまでの経緯・経過をとてもわかりやすく話す。
薬の影響なのか、呂律がうまく回らない人でも、話す内容は知的で整然としている。
中の一人は「自分たちはマイノリティだから・・・」と言っていたが、
「マイノリティとは考える人たちである」というミシェル・フーコーの言葉が頭の中に蘇る。

彼らの話を聞き、その話し方、表情を見ていると、最近よく言われている「生き辛さ」という言葉とは違った印象を受ける。言い方を換えれば「生きづらい」などという生易しい言葉では表現できない世界に彼らは生きているように思える。
そしてこの映画に出演している、所謂精神病患者たちを見ていると、今更ながら自分は「彼ら」の「側」の存在であることを感じさせられる。無論その苦しみ、悩みの質・量に於いて、わたしなどは及びもつかないが、「生きる」ということ、自らの「生」の在り方というものに絶えず真正面から対峙しなくてはならないという点、そしてそれ故必然的に、常に「死」というものに向き合っていなければならないという点に於いて・・・



ここから歩いて5分くらいのところに公園がある。比較的大きな公園で、緑も多く、春にはここに花見客が集まってくる。
今のわたしが歩いてゆけば5分では行きつかないかもしれないが、そんな公園に行ってからだを動かせばいいだろうとは思うけれど、何故か行く気になれない。

何をしても楽しくない、虚しい。

『精神』の中で、比較的若い女性の患者が、「死ねば楽になるといつも思っている。実際に自分の友達、親友がどんどん自殺した。みんな楽になったのかな?と思っている・・・」と語っていた。

わたしは彼女たちのように自殺を試みるだけの覚悟も勇気も、生への熱意もない。ただ、楽に死ねるのなら、もう生きることを止めたいといつも思う。

わたしにとって、精神や知的障害を持った人がこの世に存在することは救いなのだ。
人が生きるということに付随する「悩むこと」という意味を、具体的な姿にしたのが彼らの存在のように思えるのだ。
誤解を恐れずに言うなら、彼らは彼らの病、障害によって価値がある、と。

『狂気とは、もうこれ以上進行することのない心痛である』という言葉がある。
しかし彼らは生きることもままならず、死ぬることもままならず、完全なる狂気に帰還することもできないまま、それぞれの闇の中に生きている。

そしてわたしも、また・・・などと言ったら、誰かの嘲い声が聞こえてきそうだ・・・

2017年8月15日














0 件のコメント:

コメントを投稿