2020年6月3日

アートブログについて2


久し振りにJunkoさんからコメントを頂いたが、お返事を書く前にちょっと・・・

以前の投稿でJunkoさんから、わたしの感性(?)が理解されない・・・ということは、寧ろ「賛辞」だと言ってもらったことがある。しかしそれはあくまでも、このブログのわたしの発言に関してのことであって、アートブログの投稿についてではない。

この「ぼく自身・・・」については、そもそも「人気」など求めようがない。
ブログの紹介に「狂人の記した狂気の記録」であると明記してある。
世上「狂人」が溢れているとも思えない。

これは皮肉でも自嘲でも自棄でもなく、底彦さんはもうわたしのブログを読んではいないだろう。
第一に底彦さんご自身のブログに書かれているように、読むこと、考えることが困難な状態にあるということ、主治医から「食べて寝るだけの生活」を勧められているということもあるが、仮にその状態が比較的軽くなったとしても、わたし自身、もう底彦さんの心に届く何ものも書けないし、実際にここ数か月の投稿は、ほとんど単なる文字の羅列に過ぎない。

そして、過去の投稿を読み返してみて、かつてわたしは一度でも満足な投稿をしたことがあったのだろうかと怪しむ。



最近は底彦さんのブログも含め、日本語のサイトを全く見ない日が増えている。
一番多く訪れている底彦さんの更新が不定期だからだ。

たまに「猫額洞の日々」を覗く(文字通り覗くだけだが)と、相も変わらず、アベやトランプへの悪口ばかりという印象を受ける。

わたしは日本の行政というもの・・・それが保健所であろうと図書館であろうと、基本的に「日本人のやることすべて」に信を置いていないので、怒ること自体がとても無駄なことに思えてならない。したがって今年11月(?)だかにある都知事選にも無論(生きていればの話だが)行くつもりはない。わたしは宇都宮健二(名前は不正確かもしれないのであしからず)を支持していない。(わたしは彼が前回の都知事選で、「オリンピックは歓迎すべきことだが・・・」と言っていたことを忘れない)

猫額洞は「長生きをしたいとは思わないが、せめてアベが辞めるのを見届けたい」と。
けれども、安倍政権がなくなったからそれがいったいなんだというのか?
安倍政権を生み出し、大きく育てた日本という土壌はまるで変らない。名前の違うアベやアソウが次々とコクミンの無意識によって誕生するだけだ。

何故こうも「政治」と「国民」を分けて考えたいのか?
繰り返すが安倍政権は生まれるべくして生まれ、なるべくしてここまで成長したのだ。



底彦さんは、重いうつ病に苦しんでいるが、彼を「精神障害者」と言うことにどうしても抵抗がある。無論彼には「障害者年金」をもらう資格がある。けれども、やはり繰り返しになるが、底彦さんは、まったく狂ってはいない。重い心の病であることと、狂っていることとはまったく違う。だから、わたし=狂人の書いたものが理解できるはずがないのだ。

それは狂人であるわたしが、マトモの権化のような「猫額洞」の書くことにいちいち首をかしげざるを得ないということと同じこと。



アートブログに関しては、「全く」と言っていいほど人気がない。それが全然気にならないと言えばうそになるが、まあ所詮はわたしのセンスなのだから仕方がないとも思うし、同時に、観る人がいないのだからなんだって投稿できるという気楽さがあることも事実だ。
「離れていく心配」がもともとないというのは気楽でいい。
既に昨夜の投稿を見てもわかるように、好き勝手にやっている。これからもっと羽を伸ばすつもり。まだまだなまぬるいと思うし、アートにも、ポルノにも徹しきれないように、「狂気」に徹することも容易ではない・・・

しかし世の中にはわたしの「狂気」に応え得るアートが、まだあるのだ。
言葉では表し得ない狂気を。



フェイスブックで8万人近いフォロワーを持つドロローサでさえ、ブログでは800人ほどのフォロワーだ。100分の一である。

ブログからタンブラーに移っていった人を少なからず知っている。そしてまたタンブラーからSNS(主にインスタグラム(?))に移っていく人を知っている。
わたしは敢えて逆の道を行っている。



例によって、支離滅裂な文章になったが、最近感じていることは、憧れるひとがいるっていいなあということだ。ここにきて、タンブラーでも、そしてブログではもっと、素晴らしいブログに邂逅した。「見上げる存在」がいるっていいものだ。
「敵わないなあ」と感じさせてくれる人がいるのはいいものだ。

「見下せる者」がいる方がいい者もいるらしいが、わたしは、自分よりも(センスや発想や思索の深さに於いて)「下」という存在ばかりではやはり退屈で仕方がない。












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