2022年3月31日

保身に腐心するウィル・スミスの堕落

日頃知的ぶっていても、高踏を気取ってみても、何かの折に、いま巷で話題になっている所謂「ゴシップ」・・・俗世間の出来事について何事かを語ろうとするときに、その人物に本当の教養が備わっているかどうかが分かるのだろう。 

のっけからこんなことを書いて自分の首を絞めているようなものだが、この手の話題について書くことに慣れていない。第一わたしは、人がどう見るかは知らないが、「知的」や「高踏」であることを以て自ら任じたこともないし、自分に相応の教養があるなどとも思っちゃいない。


さて、所謂「ゴシップ」だが、29日火曜日、30日水曜日の朝日新聞朝刊に、例の(といっていいのかな?)アメリカの黒人俳優、ウィル・スミス氏のアカデミー賞授賞式会場での、司会のコメディアンに対する「平手打ち事件」が報じられていた。

29日の新聞より引用する。

アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスさんが舞台に上がり、コメディアンのクリス・ロックさんの顔を平手打ちする一幕があった。米国ではテレビ中継が一時止まる騒ぎとなった。
 ロックさんは、ドキュメンタリー部門の受賞者を発表している最中に、スミスさんの妻を指して、「(丸刈りの女性兵士が登場する)G・I・ジェーンの続編も楽しみにしている」という発言をした。スミスさんの妻の短髪をジョークにしたとみられ、直後にスミスさんが客席から舞台へ上がり、ロックさんの顔をたたいた。スミスさんの妻は脱毛症であることを公表している。
 米国での放送はその直後に止ったが、スミスさんは席に戻った後も、放送禁止用語を使いながらロックさんに「妻の名前を口にするな」と怒鳴った。
 その後スミスさんは主演男優賞を受賞。スピーチで、「(自分が)悪口を言われても、自分が軽蔑されることに慣れなくては。愛情のための船のような存在になりたい。みなさんに謝罪したい」として、自分の行為を謝罪した。

本日(30日)付けの記事では、

暴力は全ての形において有毒で破壊的だ。私の行動は許容されるものではなく、言い訳もできない」。スミスさんは28日、「インスタグラム」にそう投稿した。ロックさんにも直接謝罪した。
授賞式ではロックさんが、脱毛症を公言しているスミスさんの妻ジェイダ・ビンケット・スミスさんの短髪についてのジョークとみられる発言をした。その直後、客席にいたスミスさんが舞台に上がり、ロックさんの顔を平手打ちした。
 アカデミー賞を運営する「映画芸術科学アカデミー」は28日に声明を出し、「アカデミーは昨晩のスミス氏の行動を非難する。正式な調査を始めている」と述べた。俳優らでつくる労働組合「米俳優組合(SAG-AFTRA)も、28日の声明で、スミスさんの行動は「受け容れられない」と批判。「この行動が適切に対処されるよう働きかけてゆく」とした。
(下線Takeo)

さて、私見を述べれば、ウィル・スミスの取った行動は、単純にいえば「正当防衛」ではないかと思うのだ。
この一件については、わたしは、上記の2つの新聞記事以外の情報を一切持たないが、ここにはウィル・スミスの「平手打ち」という「身体的な暴力」のみが喋々されていて、司会(?)の三流コメディアン、クリス・ロックという者の「言葉による暴力」については一切触れられてはいない。「禿頭(とくとう)症を嗤う」という極めて悪質な言葉の暴力に対し、スミスの「平手打ち」は比較にならないほどに「わるいこと」なのか。

またスミスの公式な謝罪についても、個人的には納得がいかない。

そもそもわたしは「暴力は全ての形において有毒で破壊的だ」という考え方に与しない。
ここにも何度も書いてきたように、わたしは時と場合によっては(例えば9.11のような)「自爆テロ」に共鳴するし、所謂「刺客による暗殺」を支持する者だ。

下から上に向けての、弱者から強者に向けての、被差別者から差別する者への暴力は「正当な怒りの行使である」というのがわたしの持論だ。


スミスの取った行動は正しかったと思っている。けれども、妻を嘲われたことに対して怒りを爆発させた行為を、その後の謝罪によって、自ら否定している。「自分は間違っていた」と。
これをわたしは「堕落」と呼ぶ。同時に自分の妻に対する裏切乃至背信行為であると。

今更言うまでもなく、事件後のスミスの一連の言動は、「大人としての」「名のあるハリウッド俳優としての」「オスカー受賞俳優としての」冷静な判断に基づいたものだ。
会場で、愛する妻を揶揄され、前後を忘れて壇上に駆け上り、愚昧なる司会者を「ぶん殴った」「生身の人間ウィル・スミス」ではない。

そもそも、彼のことは、顔と名前を知っていて、一本くらい作品を観たことがあるかもしれないが、特に関心のある俳優でもない。けれども、仮にわたしの敬愛する者が、今回のウィル・スミスの一連の行動のような「怒りという愛情の一形態に身を任せた真の人間」の姿から、「すべての暴力を憎む良識ある社会人」への変節を遂げるのを目の当たりにしたら、わたしは彼・彼女に愛想尽かしをするだろう。

わたしはウィル・スミスは「愛情」よりも、自己保身に走ったと受け取っている。




「やったのは彼らだが、そう仕向けたのは私たちだ」(9.11について)
ー ジャン・ボードリヤール

「多くの人は「何をやったか」だけをみて、「なぜやったのか?」をみようとしない」
ー『雨あがる』山本周五郎







2022年3月30日

見果てぬ夢・・・

Sunset (Brothers), 1830-1835, Caspar David Friedrich. German Romantic Painter (1774 - 1840)
 - Oil on Canvas -

*

ドイツロマン派を代表する画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの『落日』
同じ「ロマン主義」の画家でも、英国のターナーの夢幻的な趣、フランスのドラクロアの力強いパッションに比べて、極めて静謐な絵を多く残しています。


「人生は、それを分かち合う者がいなければ意味がない」

これはわたしがまだ20代後半の頃、テレビで観たアメリカのドラマの中で使われていた台詞です。当時から人生の孤独に呻吟していたわたしにとって、とても共感できるセリフでした。
この言葉を初めて聞いてから30年近く経った今でも、当時と同じ気持ちを抱いています。

けれどもわたしは、天涯孤独な人の人生を、「自分の人生の時」を共有できる誰かを持っている人の人生に比べて、無意味であるとも、無価値だとも思ってはいません。

断片的であっても、人生を分かち合える人がいれば・・・
これはあくまでも、孤独であることに疲弊した、独りであることを運命付けられた、わたしという人間の、極個人的な「理想」であり「見果てぬ夢」でもあるのです。








 

2022年3月23日

みんなおいで!

Kommt alle her!, Kontakt (Everyone Come Here!, Contact), 1970, Les Krims. born in 1943


おお、生まれながらに孤独であることを運命づけられた者よ

きみの声に耳を貸す者はいない

わたしはきみを抱き締める かたく




 

2022年3月20日

宛先のない手紙

生きるということはほんとうに、つらく、かなしいことですね。
そしてわたしには「生きる」ということがどういうことなのかすら、わかりません。

いったんは逃げ出したここにまた戻ってきたことは誤りだったのでしょうか?
けれどもわたしは立川では一歩も、文字通り一歩も外に出ることができませんでした。
もしわたしの「誤り」をいうのなら「生まれてきたこと」がそもそもの誤りでした。

では「誤りではない生」とは例えば誰のことを言うのでしょう?
それもわたしにはわかりません。
けれども生まれてきたことで誰かの人生を犠牲にしているのなら、その生はやはり「誤り」なのではないでしょうか?

どんなに周囲に迷惑を掛けても、当人が楽しく生きているのであれば、それはそれで生まれてきた意味はあるのでしょう。けれども、わたしは生きていることが少しもたのしくない。ただただ無為徒食の日々を、人に支えてもらって維持している。どこかおかしくはないでしょうか。

多くの人は何らかのかたちで「働いて」います。
「はたらくこと」これもわたしのわからないことのひとつです。
働いている人誰もが、歓びと生きがいを持って日々仕事に向かっているとは思えないのです。「こんな仕事いやだなあ」と思っている人もいるのだと思います。では何故彼ら・彼女らは、「嫌なこと」を止めないのでしょうか?
「生きていくため」?
何故「生きなければならない」ということが大前提として存在しているのか?わたしには昔から理解できませんでした。
「したくもないことをしてまで生きつづける意味」とはなんでしょう?
わたしがいまもなお生き続けているわけは、簡単には死ぬことができないからという間の抜けた理由でしかありません。
簡単に死ねないのは誰しも同じこと。けれども、それを行った人たちが大勢いる。
わたしは自らの意志の弱さを愧じるばかりです。


辺見庸は、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの「生は特権化された人々の権利に過ぎなくなる」という言葉に呼応して、現代を眺め、
「バトラーの言う通り、「生は特権化された人々の権利」になりさがってしまったのか。
と書いています。けれども、もとより「生とは特権化された人々のみの権利」なのではないのでしょうか?
わたしにしてみれば、既に20代の頃から感じていたことを、今更事々しく嘆いて見せる辺見庸の気持ちがわかりません。

わたしには「生を享受できる特権を持つ人」とは誰なのかを言うことができません。
ただわたしはその一人でないことだけは、確信を持っていうことができます。


わたしは「救い」を求めています。こころの底から「誰かわたしを救ってください!」と、声にならない叫びをあげています。けれども、誰が、どのようにわたしを救ってくれるのでしょう。
わたしのくるしみは、すべて「わたしがわたしであること」から来ているのではないでしょうか。
「わたしがわたしのままで」救われるということを考えた時に、「救い」はどうやら「生」の方角にはないように思えるのです。

「わたしアスパラガスが嫌いでよかった。だって、もし好きだったらたべなきゃならないでしょう。そんなのイヤだもの!」というジョークをふと思い出しました。
わかりにくければ「アスパラガス」を「現代社会」に置き換えてもいいでしょう。

精神科にかかる意味も分かりません。精神医療では、ひょっとしたら、大嫌いなアスパラガスを好きにさせてくれることもできるのかもしれません。(それとても相当の名医でなければ不可能なことですが。)しかしわたしは「アスパラガス」を好きになりたいとは思っていないのです。
なぜって、好きになったら食べなくちゃならないから。

そう考えてみると、「自分がありのままの自分でありながら苦痛なく生きられる」そのような人々こそが、「特権化された人たち」と言えはしないでしょうか?


わたしは救いを求めています。けれども、それはやはり「生」の方向には無いようにしか考えられないのです。だとすれば精神医療も、福祉もわたしの救いとは無関係ということになります。

ではこのくるしく、そして深い悲しみに満ちた人生からの救いは何処を捜せばいいのでしょうか・・・

書こうと思っていたことの半分も書くことができませんでした。
また書きます。

お読みくださりありがとうございました。

不一


追伸

目の状態がよくありません。今朝も鏡を見ると、両目がそれこそ文字通りウサギの目のように真っ赤に充血しています。これは今に始まったことではなく、昨年3月の右目緑内障の手術以降です。けれども、かかりつけの眼科医は、この充血の原因を「わからない」と言います。その医師はわたしの目を手術した御茶ノ水の眼科病院の出身ですが、わたしの右目を手術した当の理事長も、「(目)薬の副作用じゃないですか・・・」と曖昧な返答をするばかりです(でした)。
目の状態が悪化している。けれどもきちんと診察できる医師がいない。そのこともわたしの絶望と厭世観をいやまして深めるのです。








プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブ... 

Paris. 1951, Lutz Dille  
パリ 1951年 写真 リッツ・ディル


Percy Mayfield - Please Send Me Someone To Love (1950) 

プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブ 
パーシー・メイフィールド 1950年







ロバート・メープルソープ フラワーズ

 Poppy (1988)

Calla Lily (1987)

Calla Lily (1984)

Leaf (1987) 

Tulip (1985)

Flowers (1983) 

Poppy (Green)  (1988) 

Tulips (1982) 

Tulip (1984) 






 

2022年3月19日

狂人の疑問

 わたしは下の投稿が、これまでわたしの書いてきたすべての文章すべての言葉同様に「誤り」乃至「おかしい」ことを知っている。

けれども、「汝自身を否定すべからず」「汝自らを愛せ」という、誰しもが疑うことのない、国境を越えて遍く人類全体に行き渡っているかのように見える「戒律」は、いったいいかなる哲理から発したものであるのか、わたしにはわからないのだ。





2022年3月18日

誰にも分からない、或いは自傷行為について

 「おねがいだから止めて。 あなたを愛する人のために、止めて・・・」

この言葉は一見すると麗しい愛情(乃至友情)から発せられた言葉のように聞こえる。けれども、これはそのように相手に望む者の「エゴ」ではないだろうか?

かつてあるブログにリストカットやオーバードースについて書かれていた。わたしはそのブログの筆者である女性に愚かな質問を投げかけた。

「何故リストカットの「痕」を隠す必要があるのですか?これは何故入れ墨を隠す必要があるのかと同じレベルの質問だと思います。」

と、

彼女はこの愚かしい質問に真面目に、丁寧に答えてくれた。

「なぜリスカ痕を隠すのか」
正直なところ、隠さなくても受け入れられる世の中なら隠したくはないです。自分の生き抜いた証だと思っていますので、、、。
しかし、世間の目はタトゥーを見るのと同じです。痕のせいで仕事にも就けません。
だから隠すのです。

わたしは彼女を抱き締めてあげたかった。しかし彼女はわたしなどより、なによりも社会に抱きしめてもらいたかっただろう。 

◇ 

わたしは若い頃から、リストカットならぬ「言葉による自傷行為」を繰り返してきた。

このように書いたことがある

「ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。」


4年前の投稿から抜粋引用する。

「自分を否定しないこと、これこそが世界を変えるための第一歩です」
 ー 竹宮惠子

これは26歳の若く有能なライター・編集者のブログで紹介されていた本の帯に書かれていて、彼が「強く惹かれた」言葉だそうだ。

人は、誰かが彼(彼女)自身のことを悪くいうのを聞くのが不快らしい。
そしてもっと自分を認めること、受け容れること、自分を愛することを求める。
皮肉なことにわたしだけが、自分を愛せない自分を受容し、わたしだけが自分を受け容れることの出来ない自分を許している。


言葉による自傷行為を不快であると感じる人間は、同様に、身体に対する自傷行為に嫌悪感を示すのだろうか?もし、リストカットに、手首のケロイドに抵抗が無い人が、それでも、言葉による自傷行為だけは許容できないとすれば、それは如何なる理由に因るのだろうか?

わたしは、生きて在ることが苦しいのだ。わたしがわたしであることに時に耐えられなくなるのだ。そんなときに言葉で自分を傷つけること、罵倒すること、貶めることによって、微かなこころの安らぎを得ている。

I lock my door upon myself,
And bar them out; but who shall wall
Self from myself, most loathed of all ?

「私は私自身に扉を閉ざす
そして閂をおろす
けれども誰が私を守ってくれるだろう?
いちばんきらいな私自身から」

これはわたしの大好きな詩の一節。画家、ダンテ・ガブリエル・ロセッティーの妹、クリスティーナ・ロセッティーの書いた、「私は私自身に閂をおろす」

わたしは孤独という独居房の中で、「いちばんきらいなわたしじしん」と共に暮らしている。そんな状況にあって、誰が心穏やかでいることができるのか?

わたしは父を好きになることができない。
父を嫌うということはどういうことか?それは鏡に映った自分の顔に唾を吐きかけるのと同じだ。何故なら、父がいるからわたしが今存在しているのだから。
父を憎むということは、とりもなおさず、自分の存在の根源を憎むことに他ならない。

親は親、子は子という考え方は、わたしには受け容れることはできない。
「親殺しのパラドクス」をご存知だろう。タイムマシンで過去にさかのぼって、自分が生まれる前の父を殺すことができるか?というやつだ。もしできないとしたら、その理由は?いうまでもなく、親が存在しなければ「私」も存在していないからだ。

わたしの血の半分は父の血だ。人が決して「私自身」から逃れることができないように、わたしもまた「父の血」から永遠に逃れることはできない。

自分が、どうしても好きになれない者の血と肉と骨と皮によって出来ていること。
それがわたしが自分自身を愛せない大きな理由だが、その他にも、単純に、愛され、肯定された経験がないということも当然ながら大きな要因だ。


「愛されざる者」が悲しみのあまり自分を罵ることは罪なりや?

「あなたは決して「愛されざる者」などではない!」という言葉が、コ・ト・バが、いったいいかなる慰めになるのだろう?
確かにそのように声をかけてくれる者にとって、「わたし」は「愛され得る者」に映るのかもしれないし、現に愛してくれているのかもしれない。
けれども、そのことによってわたしの言葉による自傷行為はおさまるとは思えない。

要は、「自分を愛せないわたし」を、そのまま受け容れることができるかどうかなのだ。

自分を「人間の屑だ」というような人間にはとてもついてゆけないというのであればそれも致し方のないことだ。

何故人を、醜いままに愛せないのか?

何故あるがままの相手を愛することができないのか?

「自分はきみを屑なんかじゃないと思っているから」仮にそうだとしても、何故彼・彼女に、わたしに「自分は人間の屑だ」という自由を許容し得ないのか?
その狭量はどこから来るのか?
「自分をどう思おうとあなたの勝手だが、それを言葉にして皆に見える場所で言わないでほしい。」-それは何故?

わたしは已むに已まれずに言葉によって自分を傷つけている。
生きて在ることは苦しいから。かなしいから。

けれども、それを不快に思うことを止めさせることはわたしにはできないし、そうしたいとも思わない。

最後にもう一度繰り返す。

カミソリで自分の身体を傷つけること、毀傷することは許容できても、言葉によって、自分の心を傷つけることには何故そのように不寛容なのか?

自己を肯定できる者も、自分を否定する者、自己を譴責する者、自分を愛せない者のいのちも、おなじひとしいいのちだという考えは間違っているのだろうか?



「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識である」

ー ジャン=ジャック・ルソー 『人間不平等起源論』より

 





 

2022年3月17日

優等生の障害者 落ちこぼれの障害者

底彦さんとのやり取りを通じて改めて感じたのは、世の中の健常者と同じように、精神障害を持つ者にも「優等生的」な障害者と、とても手に負えない「おちこぼれ」の障害者がいるということ。
無論この述懐は、何ら底彦さんに対する揶揄でも皮肉でもない。

母は底彦さんの

ただ, 自分の小さな「生」を自分で受け入れたいという望みがあるだけです.」という気持ちがよくわかるといい、底彦さんのコメントに対するわたしの返信を読んで、「ウーン・・・」と呻っていた。

Takeo さんが自らの生を, 少なくとも私が最も望んでいない最悪の形で閉じる日が来ることを恐れています.」


底彦さんのこの言葉には、うそいつわりなく、こころからありがたいと思う。けれども、底彦さんが最も望んでいない形での「生の終わり」こそ、わたしの最も望んでいるものであることも、事実なのだ。



3月16日付けの朝日新聞朝刊「声」欄に興味深い記事が掲載されていた。

これは2月7日に13歳の中学生が投稿した「死に対する恐れ」についての投稿への読者の反応、意見をまとめたもので、既に最初の投稿が掲載された時点で、母から、中学生の死生観についての投稿が新聞に載せられていたということを聞き、それは是非読んでみたいと思っていて、そのままになっていたものだ。

紙面には大きめの活字で、「どう思いますか」という見出し(?)があり、その下に、

死を思うことは 恐ろしいけれど 2月7日=要旨
中学生 吉川結芽(ゆめ)(大阪府13)

死んだらどうなるんだろう。私はよく、考える。
天国や地獄が本当にあって、そこで存在し続けるなら、そう願いたい。
けれども、私の、意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら....。
私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。
まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。
この恐怖からどう逃げたらいいんだろう。
大人になったら怖くなくなるのだろうか。
死は生き物すべての宿命だと改めて思う。
生きるということは死に近づいてゆくこと。
恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使いたいとも思う。死ぬ時、私は充分頑張ったという人生にしたい。
そのために、私はどうしたらいい?答えを見つけるべく、生きて行こうと思う。




この投稿に対して、6人の読者プラス詩人の谷川俊太郎が意見を寄せている。

正直に言って、印象に残るような、わたしの心の針が動くような投稿(言葉)はひとつも見つけることはできなかった。寧ろ違和感ばかりが残った。


「私も今ある命を大切に生きて行こうと思います」(27歳女性)

私は死ぬことも生きることもそれほど大きく変わるものではなく、区別なくつながっていると感じたのです。自分がやりたいこと、今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいいと。
怖がらずに、今をありのままに、あるがままに一生懸命に歩き進むことが大事なのだと思います」(69歳男性)

「生は死の延長線上に在るのだから、身構える必要はないということ。普段通りの時の流れから、ふっと消えてゆくのが死なのだろう。であれば、今なぜ生かされているのかを見つめ、自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」(60歳男性)

死について考えることはいかに生きるかの原点のような気がします。死を見つめてこそ生も充実するかと。本を読み、友と交わり、学び、旅をして、遊んで ──。経験を積む中で、きっとあなたはこの世の深さや広さ、複雑さを知るでしょう。(中略)
人生を理解するには生き尽す必要がある。それが私の正直な心境です。」(76歳男性)


おちこぼれの障害者としては、先ず第一に、13歳の中学生のいう、

「この命を何かのため、だれかのために使いたいとも思う。死ぬ時、私は充分頑張ったという人生にしたい。
そのために、私はどうしたらいい?答えを見つけるべく、生きて行こうと思う。」

という言葉に何の感慨も持つことができない。

「どう思いますか」と訊かれて、意見を寄せている人たちの言葉も、わたしにはまるでピンと来ない。

「自分がやりたいこと、今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいいと。
怖がらずに、今をありのままに、あるがままに一生懸命に歩き進むことが大事なのだと思います」
・・・などという言葉は、まるで遠い異国の文化風習のことを言っているように聞こえる。

「今なぜ生かされているのかを見つめ、自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」

これもわからない。

「人生を理解するには生き尽す必要がある。」

そうだろうか・・・


ひとことで言ってわからないことだらけなのだ。

「今日やるべきことを懸命にやっていたらそれでいい」

「自分が今日やるべきこと」とは何であるのか、それはどのようにして知り得るのだろうか?

「自分の役割や使命を全うすることに力を注ぎたい。」

同じく、「自分の役割や使命」とはどのようにして知ることができるのか?


わたしはこれまで上記のような言葉の数々を、本で読んだことも、映画の中のセリフとしても聞いたことがない。

時々読むブログに、わたしのこころに深く沁みわたったことばが記されていた。
もう何年も前の投稿だが、いまだにわたしのこころに深く刻まれている。

曰く

失敗した

生まれてきて



ー追記ー

「どう思いますか」
(東京都 Takeo 58歳 おちこぼれ)

かつて殉教者と呼ばれる人たちは、異端審問に臨んで、「考えを改めるなら放免してやる。さもなければ処刑する」と言われて、自分の信ずるところに殉じました。
自分一身の生存よりも大事なものがあるとき、人は死の恐怖を忘れるのでしょう。
 いまそこにある現実世界の、「ありのまま」「あるがままの姿」に、どうしてもあなたの感受性が、美意識が抵抗した時に、自己の美意識に殉ずることも、また、死に拮抗し得る力となるであろうと考えます。
 大切なのは、「いのち」そのものや「生命の持続」ではなく、「あなたという個人」が、「あなた自身でいられるかどうか」なのではないかと思います。
自分と離れたところに「あなたがやらなければならないこと」も「やるべきこと」もなければ、「あなたの使命」も「役割」もありません。
 あなたがやらなければならないことや、あなたの役割は、他ならぬあなたが決めることであって、他の何人(なんぴと)もそれをあなたに強制強要することはできません。
何故なら、わたしやあなたがこの世界に、この国に、この時代に生まれてきたことには、なんの必然性もないのですから。
 善き生があり、その結果善き死があるという因果関係も然りで、生と死の連続性にわたしは懐疑的です。善き生を送りながら、悲惨な最期を迎えた人たちは数多存在します。
 ある哲学者は、「自殺という逃げ道がなければ私はとうに自殺していただろう」と言っています。(エミール・シオラン)
 苦しければ「非常口」があるということを覚えておいてください。
 「人生を理解するには生き尽す必要がある」という考えは、その根拠が不明です。「生き尽す」ということは、死がわたしたちを連れ去るまで生を放棄しないという意味なのでしょう。しかし先に述べたように、大事なことは「生命の持続」ではなく、「あなたがあなたであり」「わたしがわたしであること」だというのがわたしの信ずるところです。生き延びることはしばしば、「変節」すなわち、自分を変えても時代に合わせるということを意味します。それをわたしは「生き切った」とは表現し得ないのです。


 







2022年3月16日

およそ


達成された自死こそ勝利である。




底彦さんのコメントに対する返答(のようなもの)

昨日の投稿「人外として想うこと」に対して、日記の一部を引用させていただいた底彦さんからメッセージを頂いた。

先ず、底彦さんをはじめ、拙文を読んで下さった方にお伝えしなければならないのは、この「人外(にんがい)として想うこと」という投稿は、本来、あくまでも極私的な感懐を綴ったものであったのが、わたしの表現力の拙さから、人生の一般論になってしまったということ。

極めて特殊な個人の感情を、あたかも普遍性を持つかのように書かれれば、底彦さんならずとも、抵抗を感じる人がいるであろうことは容易に想像がつく。

以上のことについて、底彦さんはじめ、拙文を読んで下さった方に、お詫びを申し上げます。


上に書いたように、ひとことで言えば、これは今現在のわたし自身の偽らざる気持ちなのだ。
「生の倦怠」・・・などともったいぶった言い方はやめよう。ただただ生きて在ることに草臥れはてているのだ。


二月の十日、前日から東京地方に大雪警報が出されており、昨日までの晴天とは打って変わって、灰色の空から白いものが舞い落ちる日、わたしは一年と三カ月つづいた立川での生活を切り上げ、元の場所に戻って来た。耐えきれずに逃げ出した場所に舞い戻って来たのだ。状況は改善されていたか?「なにも・・・」結局立川の生活で、孤独に因る自律神経の乱れにより、眼圧の急激な上昇=緑内障の悪化を招き、もともと二十代前半から既に視野の半分以上が欠けていた右目の視野が更に狭まったという結果だけを持って、「我が家」に還って来た。
一年間のほぼ完全なる「引きこもり」生活によって、外出困難と対人恐怖はますます昂じ、引っ越しから一か月後、即ち今月十日に久し振りに外で会った友人と過ごした時間も、絶え間ない不安と緊張に終始した。

母以外の家族との不和からここから逃げ出したが、片目を潰して戻って来た。ついでに外出恐怖と対人恐怖も一緒に引き連れて・・・

尾籠な話で恐縮だが、来年卒寿(九十歳)を迎える父とは、毎晩競うようにトイレに通う日々である。共に一晩に六回はトイレで用を足す。

わたしは父の一挙手一投足が気に入らない。父と暮らしているといつ暴力沙汰になるかもしれないという懸念から、三年前、父を埼玉のケアハウスに入れた。けれども、そこでの待遇が良くないということと、父のいなくなった部屋に、毎日立川から通って来る弟が泊まる日が増えるようになって、それにも耐えられなくなり、いっそわたしが出て行った方が早いのではないかと判断し、わたしが弟のいた立川のURに移り住んだ。そして父も戻って来た。(ケアハウスから呼び返したのは、主に、コロナにより、一切の外出と、外部からの面会が禁止されたことによる。父を呼び戻そうと主張したのは他ならぬわたしである・・・)


立川での生活は静かであった。エレベーターなしの五階建ての五階の部屋で、ひとりで住むには十分な広さであった、大規模団地ではあるが、隣の棟との間隔も広く、不規則に並んでいるので、見晴らしは良かった。一歩も外に出ない生活であるならば、ほぼ、申し分なしと言ってよかった。けれども、その間ほぼ毎日、母がここから食事の世話に通って来てくれていた。以前書いたように、自炊生活はひと月ほどであっけなく挫折し、スーパーやコンビニで買ってきた出来あいの食事で味覚障害を起こした。

わたしは折々「人の世話にならなければ生きることのできない者の生きる権利」について云々するが、それも決して一般論には成り得ない。わたしはあまりにも特殊な人間である。

誰かの世話にならなければならない人間の生きる権利について語るときに、わたしのように、世話をする人間の負担が大きすぎる場合には、「誰しも生きる権利がある」などと「綺麗事」は言ってはいられない。再三述べるが、イタリアの哲学者クローチェのいう「何者かの犠牲の上に成り立つ生は許されるのか?」という問い掛けにわたしはいつも考え込んでしまう。

以上のような、人生に対する存在の芯からの疲労と、それを放棄してしまいたいという捨て鉢な気分が、昨日の文章を書かせた。
決して一般化できない特異な人間・・・ならぬ人外の正直な気持ちとして。

これ以上生きることにいったいどんな意味があるというのか?左目の具合も決して良くはないどころか、悪化している気もする、けれども、この辺りの眼科では緑内障をきちんと診られる眼科医はいない。昨年、悪くなった右目を手術した御茶ノ水の眼科病院に通うのを止めた理由は既に書いた。わたしの目は悪くなる一方なのだ。そして草の根を分けてでも名医を捜すというほど、わたしは最早生に執着を持ってはいない。


いまのわたしには底彦さんの言われる

無価値感は苦しいものです. 自分のしていることの全てに意味も価値も無いように思えてきます.
これは堪え難い苦しみです.」

という言葉の意味がわからない。
いや、「今のわたし」に限らない、わたしは昔から言葉による自傷行為を繰り返してきた。このように自分を「人外」(=人ニ非ズ)と呼ぶのも、決して、卑下の気持ちからなどではなく、その方がずっと気持ちが楽なのだ。

もとよりわたしの存在は無意味であり無価値である・・・と言いたいが、わたしの存在は母にとって有害である。わたしの生は母の人生の犠牲の上に成り立っている。そのような自分をどうして赦すことができようか。
わたしは自ら自分を鞭打つのだ。生まれてきたことに対して。

「生誕の災厄」とは、障害のある子を持つ親の言葉であるはずだ・・・・



[関連投稿]

生きるに値せず…」「ことば」「生まれてきたことの罪

2022年3月15日

人外として想うこと

図書館に再びシオランの『生誕の災厄』をリクエストした。いうまでもなく、昨年の新装版ではなく、馴染みの1976年版である。

今日底彦さんのブログを読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。

「苦しい. 自分が生きていることに価値が無いように思えてくる.」

次のような記述もある

「シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』から「真空と補償作用」の節.まるで今の自分の苦しみと, それに伴う醜い感情のことを言い当てられているようで読んでいて引き込まれた.
”それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。
重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。”」

シモーヌ・ヴェイユはショーペンハウエルやエミール・シオランのような厭世観を徹底的に嫌悪した。底彦さんがヴェイユに救いを求めているとき、わたしは、彼女が嫌い抜いた同時代のフランスの思想家の本を、またもや手に取ろうとしている。

無論人間存在として、シモーヌ・ヴェイユの生き方が、シオランやショーペンハウエルのそれよりも遥かに崇高で気高いことは言を俟たない。
人間としてのショーペンハウエルやエミール・シオラン、或いはフェルナンド・ペソアを、わたしはどうしても好きになれない。けれども同時に、わたしには「生」を肯定することができない・・・


「自分が生きていることに価値が無いように思えてくる.」

底彦さんのこの言葉を読んで感じたことは、そもそもわれわれ人間、更にはこの地球上のすべての生命に「生きる価値」などというものははじめからないのではないかという想いだった。
人間は「生という地獄」と「死という地獄」の間をただおろおろと、まごまごと辿り、消えてゆくだけの、憐れな、悲しい被造物なのではないか。

いわゆる芸術や文化・・・「美」というものさえ、「生」と「死」、このふたつの地獄めぐりのただ中で、どのような力を持ち得るのか、わたしにはわからない。哲学も、文学も、芸術も、なにもかもが所詮は「生という地獄」のなかでは、塵芥(ちりあくた)の如き微々たる存在以外の何ものでもないのではないか。

にんげんの生にも死にも、そもそも「価値」などというものはありはしないのではないだろうか。

人間存在とは、ただ、「生」と「死」の二つの地獄の間にわたされた一本の綱の上を、こちらからあちらへと否も応もなく歩いて、再び闇の中に消えてゆくだけの憐れな存在ではないのか。
その「生」から「死」までの道のりの途中で、虚空に身を躍らせて、その悲しいダンスを終わらせ得た者たちは幸いである。

全ての人間は、遍く、「生」の「犠牲者」なのではないのだろうか?

如何にシモーヌ・ヴェイユを慕い、人間シオランを嫌おうとも、「生まれてきたことが敗北なのだ」という言葉には、有無を言わさぬ絶対的な説得力がありはしないか。


ド・ゴールが「結局は死が勝利するのだ」と嘆息した時に、時の文化相(ヌーヴェル・ヴァーグ一派ーフランソワ・トリュフォー、ゴダールなどと敵対していたが)アンドレ・マルローは、「ですが閣下、死が「ただちに」勝利するわけではありません」と応えたという。

マルローは「死」という「終わり」"FIN" の前に「生」という期間があると考えていたのだろうか。生と死は、それぞれが単体として存在しているのではない。「生という季節」があり、また別に「死という終幕」があるのではない。「生の裡に死があり 死の裡に生がある」── 生という歓楽のダンスがあり、それが終わり、死というものが訪れるのではない。われわれは「生誕」と共に「死の舞踏」を踊らされている。

「最後には死が勝つ」これに勝る眞實があるだろうか?
で、ある以上、
極論すれば、「全ての生は敗戦処理である」ということはできないだろうか・・・
(況やわたしのような精神・情緒障害者の生に於いてをや・・・
ましてそのような者の親兄弟においてをや・・・)









2022年3月13日

「お友達になれない?」フランク・シナトラ

IN BED 


*


I took each word she said as gospel truth
The way a silly little child would
I can't excuse it on the grounds of youth
I was no babe in the wild, wild wood
She didn't mean it, I should have seen it
But now it's too late

I thought I'd found the girl of my dreams
Now it seems this is how the story ends
She's gonna turn me down and say
"Can't we be friends?"

I thought for once it couldn't go wrong
Not for long I can see the way this ends
She's gonna turn me down and say
"Can't we be friends?"

Why should I care though she gave me the air?
Why should I cry, heave a sigh and wonder why?
And wonder why

I thought I'd found the gal I could trust
What a bust, this is how the story ends
She's gonna turn me down and say

" Can't we be just friends? "

*


Can't We Be friends?  Frank Sinatra 



グラフィック・アート ー Deep Blue Sky / Light Blue Sky 2, 2007, Lawrence Weiner(ローレンス・ウェイナー)








戦争とは・・・

 「戦争は政治の継続である」この点からいえば、戦争は政治であり戦争そのものが政治的性格をもった行動であり、古来、政治性をもたない戦争は存在しなかった・・・。

だが、戦争には戦争の特殊性があるという点からいえば、戦争はただちに政治一般に等しくはない。「戦争は別の手段による政治の継続である」。

政治が一定の段階にまで発展して、もはや今までどおりに前進できなくなる。そこで、政治の障害を一掃しようとして戦争が勃発する。

・・・障害が一掃され、政治の目的が達成されると戦争は終結する。障害が一掃されないあいだは、戦争は目的の完結のため、ひきつづきおこなわれなければならない。

・・・・したがって、政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治であるということができる。

「毛沢東語録」竹内実 訳 (1971年)より


*


Mao - Andy warhol 

*

“Politics is war without blood,
while war is politics with blood.”

Mao Tse-tung (1893 - 1976) 







2022年3月11日

追記

 わたしは至らない人間ですが、友人としての彼女を失いたくありません。

話の中で彼女が最近『愛の嵐』を観たという話題になりました。
わたしは観たことがありませんが、シャーロット・ランプリング主演の、ナチス時代を舞台にした映画であることくらいは知っていました。わたしはその原作が「リリアーナ・カヴァーニ」ではなかったかというと、彼女は「知らない」と。「リリアーナ・カヴァーニは原作じゃなくて監督だったかな?それとも、監督はファスビンダー???」そんなことを独り言ちている間、彼女はスマホを取り出して確認することをしませんでした。「えー知らない」「わからない」
一瞬にして答えが分かってしまうこの無味乾燥な時代に、「知らない」「わからない」と言える人。そいういう人とこそ、友達でありたいのです。
逆にいえば、わたしがぶつぶつ言っている間(ま)に、さっとスマホを取り出して答えを出してしまう人とは友達になりたいとは思わないのです。





宿痾 或いはちっぽけな自分

今日は過去に何度か食事をしたことのある友人と、2年ぶりに落ち合って話をしてきました。
母以外、医者以外の人と外で話をするのは2年前にその人と会って以来。
ここのところ(もう長い期間ですが)の心身の低迷不調ぶりや、相手が極めてセンスのいい女性であることなどから来る様々な不安や緊張に縛られて、もう会うのはよそうかとさえ考えました。それでも心は乱れ、「あれか・これか」の迷いは消えることなく、困じはてて底彦さんに率直な不安と緊張を伝えるメールを認めました。
鬱で体調の優れない中、底彦さんは、最大級の賛辞を以てわたしに自信を与えてくれました。
底彦さんの言葉に励まされて、今日、会う勇気が出て、先程帰ってきましたが、今は自分のちっぽけさに打ちのめされています。


「江戸っ子は、五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先だけでハラワタは無し」という言い方をします。この言葉こそ正にわたしにピッタリの言葉で、卑俗な言い方をすればわたしは「口の達者なバカ」なのです。

以前行った心理テストで、わたしの知能指数は、平均よりもかなり劣っていることが明らかになりました。そんな中で、言語能力だけが際立って高い。つまりこれこそが、「口先だけで脳みそは無し」であり、「口の達者なバカ」である何よりの証明と言えるでしょう。

「普通に見える。或いは並の人よりも優れて見えるということが、却ってTakeoさんの不幸かもしれません」というのが主治医の意見です。平たくいえば、「馬鹿なのに利口そうに見えてしまう」という「不幸な誤解」を招くということです・・・

豊かな知性を具えているように見えるけれども、その実中身は空っぽ。
今日の友人との会話の中でもそのことを改めて痛感しました。真の「知性」とは程遠いところにわたしはいます。

知性豊かな人間になって、底彦さんや、今日会った女性のような友だちを持つのにふさわしい人間になりたいと願います。けれどもこれは持って生まれた障害であり限界です。加えて、こんな風になりたいと理想を口にしながら、現実には勉強が嫌い、努力すること、頑張ることが大嫌いとなれば、所詮それなりの友人を持つなどということは夢のまた夢ということになります。

今になってわかる気がします、若い頃からわたしの抱えて来た胸の裡の空洞感が何に由来するのか。
現に空っぽだったからです。実際に「空洞」だったのです・・・

わたしはこのブログに一片の「嘘」も書いたことはありません。
しかし、確たる「知」の欠如の上に記された文章に、どのような眞實が宿るのでしょう。








2022年3月9日

女優




メキシコの画家ロベルト・モンテグロによる女優マルキーザ・ルイーズ・カサーティのポートレイト。

多くの画家たちの手になる彼女の肖像が残されています。


*

「容貌(ルックス)とはすなわち「態度」なのです」








 

2022年3月7日

障害者であるということは

 
ひたすらかなしいことですね





2022年3月6日

想い...

「率直に言って、私は私のいいところ(とされるもの)を犠牲にすることを厭いません。そもそも私が求める変化は、"スマホを代表とするような今の文化が好きになる"といったような相反する自分になる変化なので、今の私が犠牲になるのは必然と言えます。
共感し難いことだと思いますが私のような自分を愛せない者にとっては、自分という存在に苦しむ者にとっては、自分を失えることはむしろ幸福に近いことです。」


わたしはこの言葉に少しの違和感も感じなかった。「彼」乃至「彼女」の告白について何か書かなければ、少なくとも真剣に考えなければならないと思った。それほどまでにこの心情の吐露は、重い錨のように深く、わたしの胸の裡に沈んでいった。

けれどもわたしは疲れている。何故こんなに疲れているのか・・・

休みたい。身も心も。深い安らぎの中で眠りたい。

しかし現代社会の中で、身体の芯から、こころの芯から安らげる場所が、時間が、いったい何処にあるだろうか?

「生」という重い鎧を脱ぎ捨てぬままに・・・








2022年3月2日

病むことの意味

 再度確認しなければならない。

「健康」とは、あくまでも人間の生体と、その者を取り巻く様々な環境=外部の世界両者の調和にその基礎を置く。であるならば、目の前に座っている患者の心身の状態のみを改善しようと試みる精神医療の意味とは何か。

正直なところ、わたしにとって、精神科に通院することに何の意味があるのか皆目わからない。

一般に精神医療に於ける「回復」とは、河の汚染を放置したまま「患者」を「ドブ泥に適応させる」ことであると考える。

確かに「適応」することができれば、患者の主観にとって、そこは最早「ドブ泥」ではなくなっていると言えるだろう。

「少しでも楽に生きられるように」という精神科の謳い文句の意味が、「ドブ泥をドブ泥と思わなくなる」ということであれば、生体の精神を蝕む「社会の病」は、何時、如何にして治癒されるのだろう。

精神医療の発展によって、「回復者」が増加すれば、その分「社会の病理は深刻化しつづける」というパラドクスが成立しないだろうか・・・

われわれは「病む(病んでいる)ことの意味」を、その「意義」を「価値」を、もう一度熟慮しなければならないだろう。