ふたつさんと、先日ひょんなことから知り合いになったEさんからメッセージを頂きました。
不思議な偶然を感じています。
わたしがさびしさを噛み締めている時に、こうさんの「朝」という詩に出逢いました。
「まことに さびしい ときがあり」
そしてEさんが読んでくださったわたしの過去の投稿にはこう書かれていました。
とにかく先ず、わたしは自分が愚鈍で、バカで、無能で、生きている値打ちのない存在であるということを改めて確認しておく必要がある。
ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。
「サビシイデスネ・・・」と書こうとしたときに、こうさんの
「まことに さびしい ときがあり」という言葉に遭遇し、
言葉による自傷行為について、或いは自分を激しく罵る言葉を記そうとしたときに、
まさにわたしが書きたかった言葉がEさん経由で手に届いた。
そしてふたつさん独自のスタイルである、絵と、それに添えられた「詩のような題」から送ってくれた『かなしい ときは なきましょう』の中にある言葉、
みすてないから
だから いまだけ
だまされなさい
昨夜わたしは「人間への信頼について」書こうとしていた。
結局は上手く言葉にすることができなかった。
過日わたしは自分のアート・ブログに
1955年にアムステルダムで撮られたこの写真を使って、そのタイトルに
”Can I trust you ?" 「信じていいのか?」と書いた。
わたしは、彼らが、「なーんちゃって」といって一斉に手を放しても仕方がないと思っているところがある。
自分のいのちが、自分の存在が、羽毛のごとく軽いことを知っているからだ。
何故わたしは下でわたしを助けてくれる人たちを信じられないのか?
ひとつには、自分が無価値であると思っているから。自分が「救うに足る」存在だとどうしても思えないから。
ふたつさん、そしてEさん。
いまのわたしにはこれ以上深く物事を考えることができません。
お二人の気持ちに感謝します。
よかったらまた声を掛けてください。適切な言葉をお返しする頃はできないかもしれませんが。
ー追記ー
欧米では、手紙の結びにXOXOと書きますね。
わたしが残念に思うのは、この国に、HUG & KISS の文化がないことです。
アメリカの、カントリー&フォークシンガー、ルシンダ・ウィリアムスに”Are You All Right ?” という歌があります。
その歌詞の中に
Do you have someone to hug & kiss you?
Hug & kiss you
Hug & kiss you
Are you all right?
今、わたしが、I'm all right と言うためには
わたしを抱き締め、キスしてくれる存在が必要なのかもしれません。
アリガトウ・・・
[関連投稿]
ピーター・メイ / Peter May.
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