ここ数日、東京は半袖の人も見かけるほどの気温が続いている。十月も末近いからなどと、季節で厚着をしていくと、ハンカチで汗を拭うことになる。
鹿児島の川畑さんも気温の変化で体調を崩されていたらしい。組織の代表だけに、今日は多少無理をして出勤されたのだろうか?川畑さんからのメールが届いていたが、返信は書かないでおく。返事を書かなければ、という負担(?)を多少でも減らしたい。
今日は用事で立川に行ってきた。月曜の午後。立川駅周辺はいつもと変わらぬ混雑ぶり。朝夕のラッシュも「いつもと」変わらないのだろうと想像する。
昨年の今頃と変わらないのは、皆がマスクをしているということだけ。
駅前の携帯ショップの近くで、目的の店は何処かときょろきょろしていたら、店から制服姿の若い女性店員が現れて、客が去った後、いつまでも、いつまでも、最敬礼をしていた。最敬礼とは身体を直角に曲げる姿勢で、最大限の敬意を表す姿勢だ。
それを見て感じたのは、さすが日本。さすがに若者。さすがにソフトバンクだな、ということ。その姿形の延長線上には当然ながら「全体主義」-ファシズムの影が見え隠れする。
改めて断るまでもなく、これは全く個人的な印象だが、いつまでも客の後ろ姿に最敬礼をしていた女性にわたしは微塵も客への敬意を見ることはできなかった。おそらく1時間前には別の男性が全く同じ姿勢で客を見送っていたのだろう。
わたしと川畑さんが「狂気」と「他者性」について話を始めたときに、真っ先に挙げられた「狂気」が、「無思考状態での服従」であった。
プリーモ・レーヴィがもっとも恐れた「モンスター」=「疑うことをしない多数」である。
また仮に、ちょっと考えにくいことだが、その店員が、自分の意思で、上司や会社(本部)の支持とはまったく無関係に、40秒近く最敬礼をしていたのだとすれば、「彼女」はわたしの理解を超えた「完全なる他者」である。
たとえば電話というものは基本的に、掛けた方が切ってから受けた方が切る。要件が終わってすぐ切られるのは不愉快だ。
一方いったい誰が、いつまでも自分の背後で最敬礼をされて平気で、平静な気持ちでいられるだろう?
「他者性」とは単なる相違をいうのではない。それは自分がどんなに想像力を働かせても、ついていけない他者性のことである。例えばわたしにとって『家畜人ヤプー』のようなスカトロマニアの気持ちは最大限の想像力を働かせても生理的な拒否反応以外なにものも見出すことはできない。無論スカトロジーという嗜好自体にいいも悪いもない。
いいわるいを言うのならば、「糞便を食したい」という嗜好よりも、「家畜になりたい」という思考/志向である。
わたしには折からの逆光の中、いつまでも最敬礼をする影が人間には見えなかった。
・・・家畜・・・
プリーモ・レーヴィを恐れさせた「家畜」は決して、決して「無害」ではないということを強調しておく。
ー追記ー
「群れ」ることによって思考が一元化される。それが「全体主義」である。一方、スカトロジーであれネクロフィリアであれ、それはあくまでも本来的にマイノリティーである。
そして「全体主義」が最も嫌うものが、「異質性」であり「例外的存在」である。つまり法則的に、また避けようもなくスカトロジーはファシズムの敵になる。故にわたしは好悪を超えて、常に少数派=異端の側に立っていたいと思う。何故なら「全体主義」を最大最悪の「狂気」であると見做す視点から見れば、必然的にその対極に位置する「極個別的嗜癖」は「非・狂気」ということになるからだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿