2020年10月2日

底彦さんへ、現状について その他雑感

 
Tumblrを初めて数年経ったころ、わたしは投稿で「生きていることの困難さ」について書きました。頻繁にではありませんが、1度だけではありませんでした。その時に、フランスとアメリカの、ともに30代くらい(?)の女性二人から叱られました。「軽々しく自殺を口にするな」というニュアンスではなく、「こっちは本気で心配するのだから!」ということだったと思います。アメリカの女性はわたしの記憶する限り、わたしの初めてのフォロワーだったと思います。
彼女たちは本気で腹を立てているようでした。ちょっとエキセントリックな感じのするフランスの女性は、現実に大切な人を自殺で喪った経験があるようで、わたしの嘆息が口先だけのように聞こえて腹が立ったのでしょう。今となっては記憶も曖昧ですが。

わたしはここでよく啄木の歌を引用します

死ぬことを持薬を飲むがごとくにも
我は思へり
こころ痛めば

エミール・シオランは、「自殺と言う逃げ道が無かったら、わたしはとうに自殺していただろう」と書いています。

「死ぬことを」思うだけではなく、口にせずにはいられなかったのです。

正直誰の反応も欲しくはありませんでした。わたしは二人の女性の思わぬ反応に戸惑いました。

「死んでしまいたい」「生きることを終わりにしたい」という感情を気軽に(?)言葉に、文字にできないというのは窮屈なものです。

ふたりの気持ちもまた真剣であったことも事実です。
ことほど左様に人間と言う生き物は複雑な世界で右往左往しています・・・

余談が長くなってしまいました・・・


Takeo さんがグループホームに入るという選択肢は無くなったのですね. それは日常の食事, 洗濯, 買い物といった作業が一人では行えないという Takeo さんの現在の状況によるのだと推察します.

どうもそういうことではないようです。母の話によると、週に1回でも2回でも、デイケア乃至作業所のような場所に通うことがグループ・ホーム入居の条件のようです。
とすればグループ・ホームとはあくまでも、自立のためのリハビリの場ということになります。仮に自立を目指していても、今現在引きこもりで、作業所にもデイケアにも行けない人はグループ・ホームには入れないということになります。


この世界では, 個人は自由に望む生き方を行うことができます. 私たちを取り巻く社会の中で何ものも成し遂げないとしても, 個人は自由です.
Takeo さんも日常生活において幾らかの労力を使うことによって, 精神的に自由な生活を手に入れることができるのです. 問題は Takeo さんがそのようないかなる労力にも意味を見出せないことかも知れません.

ここで底彦さんが言われている「自由」「精神的な自由」とはどのようなことを指すのでしょうか?

わたしがいま「自由」という言葉で思いつくのは、「自由に外に出られること」「自由に電車やバスに乗れること」「自由に街を歩けること」「自由に本が読めること」「自由に映画が観られること」「自由に会話ができること」・・・

わたしにとって自由であるとは、何らの手枷足枷も「格子なき牢獄」も存在しないことを意味します。
「自由であるとは」単に「可能性」ではなく「いま・この瞬間に欲することができること。それが可能であること」であるとわたしは捉えています。
わたしがいま仮に、何らかの労力と引き換えに、上記のどのような自由が獲得できるのでしょう。

問題は Takeo さんがそのようないかなる労力にも意味を見出せないことかも知れません.

そうではなく、何を代償にしても自由にはなれないという現実がわたしを絶望させているのです。


冒頭に紹介したTumblrでのエピソードは決して底彦さんへの当てつけでも何でもありません。

底彦さんは、「わたしとの対話を継続したい」と思ってくれているのなら、それを、そのままの気持ちをぶつけてくれていいのです。

けれどもわたしは自由ではないし、自由になることはあり得ないと考えています。

いかなる労力にも意味を見出せない

のは差し出した労力に何らの見返りも期待できないからです。

先の投稿で紹介した映画『海を飛ぶ夢』の主人公は、全身麻痺ではなく、首から下がマヒしている状態でした。ですから話すことはできるのです。しかしいずれにしても、彼のような人にとって、札束が何の意味を持つでしょうか?

クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』で試合中のアクシデントで同じように首から下が完全に動かせなくなった女性ボクサーは何故病院に見舞いに来たコーチ(イーストウッド)に「ワタシヲ コロシテ・・・」と涙を流したのでしょう?

共に「自由が奪われたから」ではないのでしょうか?

その辺りの気持ちは掌編「幻肢痛」で舌足らずで拙いながらも表わせたと感じています。

・・・わたしは底彦さんが間違った認識を持っているというつもりはありません。攻撃的な文章になってしまったことをお詫びします、どうか気になさらないでください。

そしてもし、わたしの言っていることが「違う」と思われるのなら、自信など無くても構わないので感じたことを聞かせてください。


わたしは底彦さんと「対話」をしているつもりです。しかし見解に相違がある時には、その都度「わたしはこう思う」と言うつもりです。

またわたしにはストレスのはけ口がないのでいつもイライラしています。

今のわたしには、母にだけは手を上げないと言い切る自信がないのです。
だから何としても今のうちに別れなければと思うのです。

『山月記』で別れの際に李徴が言いますね。よく覚えていませんが、虎になった李徴は次第に人間の意識に戻る時間が短くなってきている。今度会った時には、虎として旧友の君を襲うかもしれないからこれが今生の別れだと。

今はまだ、母に対して虎にはならないだけの自制心が残っていますが、それも次第に薄れつつあることを感じているのです。

わたしは「自死」を前提としてお話をしていません。そして底彦さんにはわたしに対して、「対話を続けるために=自分のために生きてくれ」と言い続けてもらいたいと思います。

今のわたしに必要なのは死の前の一時のRest in Peaceです。死ではないRest「休息」とPeace「平安」が、何処で、どのように得られるかはわかりませんが・・・


底彦さんの友情に改めて感謝します。

また同時に、先日のふたつさんのコメントに満足なお返事ができなかったことを気にしています。

おふたりに、そしてこれを読んでくださった方に。

ありがとうございました。


不悉









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