2020年10月22日

「他者性」について、思いつくままに

 
最近は、先日何回かブログで紹介した、鹿児島のラグーナ出版の川畑さんとメールでやり取りをしている。今「他者性」と「狂気」というテーマで話しているが、川畑さんはご自身の体験から導き出された言葉を語り、わたしはアカデミックな知識も、もちろん医療・福祉の仕事に携わったこともないので、いつものように、自分の直感で言葉を発している。

アメリカのフォト・ジャーナリスト、W・ユージン・スミスの「水俣」の写真を何枚か見たことがある。全身が硬直したような息子とともに湯船に浸かる母親の姿を見ると、自分の持ち合わせの言葉が ── 晩春の風に花が散るように ── 言葉という言葉が自分の身体から剥離してゆく感覚を覚える。そして気付くのだ。「自分はことばをもたない」と。
同じようなことは、ジェイコブ・リース Jacob Riis (1849 - 1914) やルイス・W・ハイン Lewis Wickes Hine (1874 - 1940) の写真を前にした時にも言える。

それらの写真について、「言葉で」表現することが、そこに写されている人間の在り方を「冒瀆」するように思えてならない。


「他者性」乃至「他者」という言葉は余りにも多様で、重層的で、且相反する命題を包含しているので、とても一筋縄ではいかない。

「他者」と言う時「異質性」「異物」「理解不能」「隔たり」といった言葉たちがシノニムとして挙げられるだろう。けれども同時に、「わたし」という個人にとって、「母」「親」「恋人」「親友」と言った存在もまた、紛れもなく「他者」なのだ。

では「他者」のアントニム(対義語)とは何だろう?他者の対義語は他ならぬ「我」だろうか?


川畑さんとの対話の中で「他者性の極北」という言葉が出てきた時、以前ここに書いた言葉を思い出した。

「わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」

嘗て「暴風雨の夜に思うこと」で書いたように、わたしは、「言葉が通じない」ことを以て他者性の極北とは思わない(無論川畑さんも同じだ)

わたしはクマやシカなどの動物=非・人間(ヒトでない生き物)を「他者」という範疇には入れることができない。

川畑さんが引かれた(惹かれた)ヴィトゲンシュタインの言葉を借用する。

「中国人がしゃべるのをきくと、わたしたちはそれを、ガラガラゴロゴという、分節化されていないうがいの音かと思ってしまう。
中国語のわかる人がきけば、それは言語であることがわかるだろう。
おなじように、わたしはしばしば、人間のなかに人間の姿をみつけることはできない
(ヴィドゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1988)

それに対しわたしは、

この話を聴いてすぐに思い出したのが、ディオゲネスの逸話です。もちろんご存知と思いますが、白昼アテネの街をランタンをぶら下げたディオゲネスが歩き回っています、みなが面白がって、何をしてるんだと訊くと、「人間を捜している」と。

ことばを共有し得ない存在。確かにこれも「他者性の極北」と言えると思います。

一方で、ディオゲネスやヴィトゲンシュタインは、まったく普通の人中に混じりながら、自己と周囲の間に隔たりを、異質性を感じていた。

何故、彼らは、現実に言葉が通じ、場に応じた衣服を着ることができる者たちに「他者性」を感じたのでしょう?
ディオゲネスやヴィトゲンシュタインの「狂気」が、彼らに「ごく普通の人たち」に「他者」を想起させたのでしょうか?

わたしはそれを離人症だとか、分裂病の前駆症状と簡単に片づけてしまいたくはないのです。

ディオゲネスやヴィトゲンシュタイン、さらに「わたし」が「彼ら」と「共有できていないもの」とは何でしょうか?

これは今では死語になっている感のある「群衆の中の孤独」というものとはちょっと違うと思うのです。そのような詩的でロマンティックなものではなく、「彼ら」は「わたし」にとって「他者」でしかあり得ず、同時に「わたし」は「彼ら」にとって、同様に、「異質の他者」でしかありえないという強い疎外感です。

先程の言葉をもう一度繰り返す。

「わたしにとって熊が人間より優れている点は、ことばが通じないこと。
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」

一方で「ヒト」以外の「動・植物」そして「重度の知的乃至精神障害者」のような「ことばが通じない存在」を、「こちら側」の存在であると見做し、(逆から見れば、わたし自身が、「彼ら彼女らの側」(狂気の側)に属し)、一方で極めて知的な人間、殊に人並み以上に言葉を巧みに操る人間に、「他者性の極北」(乃至「究極の嫌悪」)を見る。

これはいったいどのような心性なのだろうか・・・

「他者という存在」については、マルティン・ブーバーのいう「ME - YOU - IT」という関係性が何かしらヒントを与えてくれるのではと思っている。

存在を、Youでもなく Sheでも Heでもない’IT’と見做す瞬間に、「他者性」が発現するのではないだろうか。

ここで繰り返し繰り返し述べている「言葉の不通性」についても考えてみたい。





 








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