2019年9月9日

暴風雨の夜に思うこと


外は激しい風雨が吹き荒れている。こんな夜はひとりの人はさぞ心細いだろう。

特にお年寄りなどは。

20年近く前の新聞の切り抜きから。当時55歳の女性看護師の投稿。



老健施設に勤めて5年。雨の多かった今年の夏、こんなことがあった。8月15日、沼津は大雨で、施設の周囲が冠水し孤立した状態になった。勤務が終わっても帰宅できず泊まることになり、毎晩不安がる100歳の女性の畳部屋で添い寝することにした。夜間見回りの時にはいつも注意しているお年寄りのひとりだ。
 おばあさんは眠りにつくまで、私の方を向いて、私の顔や頭をなで、「おかあさん、おかあさん」と言った・・・

やがておばあさんは、安心して眠りに就いたと書いてある。



シモーヌ・ヴェイユや神谷美恵子に教えられるまでもなく、より弱い者こそ尊く、気高い存在だと思っている。逆につよい者、力のある者、成功した者は何故かわたしの目には醜悪に映る。


人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。だがそれは考える葦である。
 (略)
だから我々の尊厳のすべては、考えることの中にある

ー パスカル『パンセ』断章 三四七 (前田陽一 由木 康 訳)


人間の尊さは「考えること」の中にあるのではない。
「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。」
もうそれだけで充分ではないか。「だがそれは・・・」以下はあらずもがな。
「おかあさん」とつぶやく老婆は、最早パスカルのいう「人間の根源的な尊厳」すら失っているだろう。
けれどもわたしは彼女の姿に、ルネサンスーバロック時代の画家たちの描いた「聖母子像」や「ピエタ」に勝る愛と哀しみの美を見る。
「聖母子」ー「聖母マリア」と「神の子キリスト」・・・すなわち選ばれし人たち。

繰り返すが、名も無き者であること、弱き者であること、そこに真の美は宿る。



わたしの気持ちはいつも揺れ動き、引き裂かれている。

名も無き者こそ最も尊く美しいものであるという美意識。

路傍の石の如く、限りなく(「天」ではなく)「地」に近く「無」に等しい存在への憧憬と拝跪。
同時に、人は何者かに愛されることによって初めて「何者か」になる。その「ノーバディ」から「サムバディ」への(上昇)志向、欲求。

何者でもない「無価値」と呼ばれる人たちへの愛情と、「何者でもない」「無価値」な自分への絶望、苛立ち・・・

不幸な人がいる(または不幸な人たちを生み出してゆく)社会への怒り。

幸せな人たちばかりの社会を想像したときのおぞましさ。

ホームレスの悲しみ、痛み、唾棄すべき政治の棄民志向。

ホームレスのいない「クリーンでハッピーな社会」への生理的な違和感。

「幸福」は何故かく見苦しく「不幸」はなにゆえ美しいのか・・・

それは所詮わたしが、この世界に属する者ではなく、外部から来た束の間の「旅行者」の眼差ししか持たぬ無責任な「ツーリスト」にひとしい存在だからなのだろうか・・・


みなさんのご無事をお祈りします。








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