黒い群れ
これほど馬鹿げた道を選ぶことなど、あり得るだろうか?
サン・マルティーノ通りにアリの巣がある
市電のレールから五十センチほどのところに、
そしてまさしくレールの上に
長くて黒い群れが列をほどき、
相手のアリと鼻面をこすり合わせて
おそらくその行き先や幸運のありかを探っている。
要するに、この風変わりで、勤勉で、執拗な
我らの愚かな姉妹は、
その町をわれらの都市の中に掘り、
我らがレールの上に自らのレールを敷き、
そこを何の疑いも持つこともなく、
疲れを知らずに、取るに足らぬ商売を追いかけて、
いささかも考えが及ばないのだ
わたしがこれについて書きたくないことを
この群れについて書きたくないことを、
いかなる黒い群れについても書きたくないことを。
(1980年8月13日)
『プリーモ・レーヴィ全詩集ー予期せぬ時に』竹山博英訳(2019年)
◇
「群れ」というだけで、蟻にさえ嫌悪感を示すプリーモの心情がわかる気がする。
群れていいのは子供たちと人間以外の生き物だけだ。それにしたところで、「はぐれ者」
「仲間はずれ」が、より愛おしいことは言うまでもない。
「群れ」というだけで、蟻にさえ嫌悪感を示すプリーモの心情がわかる気がする。
群れていいのは子供たちと人間以外の生き物だけだ。それにしたところで、「はぐれ者」
「仲間はずれ」が、より愛おしいことは言うまでもない。
こんにちは, Takeo さん.
返信削除印象的な詩ですね. 何度も読み返しています.
プリーモ・レーヴィの深い傷が表われていると感じられます.
私は「群れ」というものに恐ろしさを感じています. 過去の記憶を辿るのはつらいことですが, 今回は私と記憶の間を「詩」が媒介してくれることでそれほどの抵抗感が無く, 割と気楽に文章にすることができています.
様々な個人が群れを作ったときにできる全体的な雰囲気, 表面上の仲間意識, 必然的に発生する陰湿な暴力, といったものが私には恐ろしいのです.
必ずと言っていいほど, 群れ=「仲間」における強者 (私の経験上では, 肉体的精神的な暴力を背景として他者を支配・管理しようとする者のことが多いです) がなんらかの, 大抵は小さなどうということのないきっかけで群れの中に除け者を作ります. 群れは除け者を「仲間」うちにとどめたまま攻撃の対象とするのです. 強者の周囲にいる個々の「仲間」からの親しさ・善意を装った陰湿な言葉やさりげない無視, そして強者からの否定. 私は除け者になることが多かったので, そういった群れ ── 集団 ── の構造や群れを構成したときの個というものを嫌悪しています.
私は群れから逃げ出してきた者です. 群れから離れても, 長くその記憶の恐怖は無くなりません. 回復のための努力をしています.
一方で別の新しい群れに取り込まれるのではないかという恐怖も常にあります.
そういう恐怖が, この詩を読むことで束の間, 市電のレールの上の蟻の「長くて黒い群れ」という形に昇華されたようです.
いい詩だと思います.
-=-=-=-
詩によって救われたという石川九楊氏の言葉ですが, 私の心にも届きませんでした. Takeo さんが感じた違和感と同じものなのかどうかはわかりません.
> 美しいものなど何もなく、守るべきものなどひとつもない。おそれ、おののき、たじろぐ必要はない。生きるとは、ただ廃墟に石を積むだけのことに過ぎないと解釈した私は、私でも生きられる、私でも生きていてもいいという希望が湧いた。以来「荒地」の詩人たちをはじめ、次々と詩集を求め、聖書の如くに読み、精神の過激と逆説を知った。
若いときの石川九楊氏に訪れたこの閃きは本当だと思います. 氏は詩を通じて何かを見出だし生きる意思を持った. そのことに間違いは無いと感じます.
けれども「私でも生きられる」という一つの真実を見出だした氏が, まだ生まれたばかりで未成熟のその真実を, いきなり現代社会の広さにまで普遍化させて「少年 A」も「オウムの青年」も救えるかのように書けるというのがわかりません.
若かった氏が得た救済は, 氏をより深い内省へと導く入口になり得たのではなかったか. なぜそのさらなる思索を通り越して, 他者への自己啓発メッセージのような歪なものが現れてくるのか. 氏が「荒地」の詩人たちの言葉から得た真実から, 長い時間をかけて導かれた先がそのような場所だったと考えられます.
氏の文章には両方の側面からの評価が可能でしょうが, 私は否定する側に立ちます.
私は氏の文章の中に, 微かな周囲への管理・支配の意思と小さな暴力の萌芽を見ます. 考え過ぎかとも思いますが, おそらくそう間違ってはいないでしょう.
だから私の心は石川九楊氏の言葉を受け付けないのです.
-=-=-=-
最後にもう一つだけ.
> われわれの時代の
> 性病者、精神病者、夢遊病者
> 酒精中毒者、薬物中毒者
> 虞犯者、犯罪者、犯罪予定者
> 漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者
> 意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者
> フェティシスト、トランスヴェスティスト・・・
私もこのような者たちの一人です. 身を守るために息を潜めて隠れて生きています.
> こういった人たちが、「差別」されずに生きられる世の中に成ったら、ぼくは、うれしいですね。
私も嬉しいです. それは確かですね.
こんばんは、底彦さん。
削除詩のタイトルを書き忘れていました。「黒い群れ」というそのままのタイトルです。
最後に蛇足のように書き添えた文章は、プリーモ自身の他の詩にもありますが、人間以外の生物により親しみを感じているように見えることです。(とはいえ、そこに描かれているモグラやネズミは必ずしも愛らしいものとしては映し出されていませんが)
「群れ」「集団」は個々の人間によって構成されているのですが、プリーモの述懐によれば、恐ろしいのは、少数の、力を持った者ではなく、「疑うこと」「立ち止まることをしない」その他大勢だと。では何故それまで、「個」であった者が、何故、どのような心的回路を経て、「全体の一部」になるのか?そして「全体の一部」になれる者と、それと相容れない者とはそもそも何が違うのか?
わたしは幸い、底彦さんのような、その渦中にいた者にならずに済んだので、どうしても「外からの眼差し」しか持ちえません。とはいえ、現実に心に傷を負ったプリーモや底彦さんとは違うとはいえ、わたしの生きることの困難さは、外界ー世界ー人々の同質性、均質性、例外を認められない不寛容、数に支えられた正当性、「多数派正常の原則」と言ったものに因るのです。
わたしは常々、「誰にも似ていない自分」に苛まれていますが、同時に、何故皆こうも似通っているのだろうという、素朴な、それでいて、決して看過できない疑問をも持ち続けています。存在論のレベルでも、また生理的なレベルでも「皆と似ている」「皆と同じ」ということは、それは「最早わたしではない」ということを意味します。
「個」が直ちに「孤」を意味するのであれば、そのような社会であるなら、それを甘んじて受け入れるか、堪えられなければ立ち去るまでです。みなと同じであることは、わたしにとって決して「保身」を意味しません。
生まれ持った性分のせいか、或いはナントカ障害に拠るものかわかりませんが、わたしは皆と同じようにできなかった。「仕事」の領域でも、仕事以外の時間に於いても。
>別の新しい群れに取り込まれるのではないかという恐怖も常にあります.
そのことに関しては、あまり心配なさらずともいいように思うのです。
「群れ」ではない「仲間」が、仲間としての集まりがあるように思います。
無論それは所謂「企業」や「組織」といった利益追求の場ではないところに。
◇
石川九楊氏の論旨・論理に感じた違和感の正体はハッキリとはわかりません。ただ、それは底彦さんの考えに近いのかもしれません。「私はこれらの詩によって救われた」という現実は、あくまで氏個人の体験です。敢えてそれを一般化する意味が分かりません。その「逆説」は一度限りのものです。
「詩」と「私」との邂逅はあくまで個人的な体験であるはずです。石川氏が個人的に会得した「詩と眞實」を、それによって再生を得た「逆説」を・・・そもそも「詩的体験」を敷衍しようとするところに違和感を禁じ得ないのです。
詩に限らず、あらゆる「体験」は個的なものです。それをあくまでも「私の個人的な体験」として語るのではなく、なにか処世訓のようなものになってしまっている気がするのです。芸術とわたしのと関係は、あくまで個々の実存の対話であるはずです。
自己の体験の「相対性」が欠如してはいないか?そのように思います。
◇
中上哲夫が挙げた彼らは所謂「余計者」であり社会の「邪魔者」と考えられています。しかし異端邪説を排斥する世の中が、異形の者のいないフラットな、平板な世界が、息苦しさを生むという逆説もあるのです。
人間の世界は厄介です。常に矛盾を孕んでいます。両義的な人間世界で、如何にして生きてゆくか?その答えが見つかるほど人間は長くは生きません。
快刀乱麻を断つなどというのは眉に唾をつけておいた方がいいでしょう。
半身を泥濘の中に浸しながら、それでも美を見出して生きてゆくしかないのです。
こうすれば生き易くなるなどという答えは存在しないのだから。
コメントをありがとうございました。
まとまらない返信になってしまいましたが、ご容赦ください。
こんばんは。
返信削除石川さんと言う方について、お二人の、意見を拝見して、『確かにそうだな』とも思いましたが、ぼくは、もう少しだけ、石川さんと言う人に同情的です。
ぼくが勝手に想像したところでは、彼は、詩人たちの言葉に衝撃を受けて、それに触発されて、『詩人のように語りたい』と思ったのではないかと思いました。
ただ、彼は「詩人」ではなかったということじゃないかと思います。
だから、「言葉」が、厳選されていないし、そこに「美しい響き」や「美しいリズム」がないので、どうしても、「つっこみ」を入れたくなてしまうんではないかと思いました。
でも、「詩人ではない」ということは、責められるべきことでもないような気がして、ぼくは、やや同情的に成るというわけです。
(まぁ、お二人も責めてはいないと思いますけど)
おそらく、実際に彼の中で起きていたことは、「生きることの理由探し」だったのではないかと思います。
つまり、初めから「生きる」ということは決まっていて、その「理由」を探していたという印象がありますね。
そして、その「理由」を「詩人たちの言葉」の中に見出したんだと思います。
だから、スタートの時点で「本物の詩人たち」とは、かなり方向性が違っていたような気がするんですね。
「詩人たち」は「美」を求めていますよね。
その過程で「死」とも向き合うことに成りますし、当然「生」とも向き合うことに成るわけですが、彼の場合は、「生」に対しては生真面目な印象がありますが、「死」からは、少し逃げている印象を持ちました。
ただ、ぼくは、それを彼が正当化していないのであれば、批判する気にはなりません。
お二人の指摘されている「一般化」は、ほぼ「正当化」と似た性質のものだと思いますが、実は、彼は「一般化」しようとしたのではなく、「美しい言葉」を選択できなかっただけのようにも見えます。
たぶん、だから「詩人」には成れなかったんでしょうね。
それで、「オウム」とか「少年A」とかと言ってしまったのかもしれませんね。
それは、ちょっと、さみしいけど、概ね真面目な人のような気がしました。
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それから、「群れ」についてですが、ぼくは「群れ」や「社会」のような「集団」には、「集団の意思」があると思っています。
そして、その「集団の意思」は、往々にして「個人の意思」を無視することがあります。
一見すると「集団」は「個人」によって構成されているように見えますが、実は、「集団」に参加しているときの「人」と言うのは、すでに「個人」ではなく「集団の構成要素」としての「一つのパーツ=部品」に成っていて、そこに「個人の意思」はほとんど反映されないのだと、ぼくは考えています。
もしも、「個人の意思」を貫いた場合、その人は「集団」からは排除されます。
だから、一見すると「自分の意見」を言っているようでも、その「集団」から排除されずにいられる人というのは、必ず、自分の「部品としての位置」に沿った意見しか言っていないことが多く、そこに、本当の意味での「個人の意思」があるとは言えないのだと思います。
だから、実を言うと、「集団」の中に「強者」や「弱者」と言うチガイがあることや、「強者」の周りに「腰巾着」が集まることは、重要なことでもなくて、そういった「力関係の不均衡」が生み出す「集団の意思」が「個人」を抑圧し、支配してしまうことが、一番の問題であることの方が圧倒的に多いと思います。
「弱者」を認めるべきであるのと同じように「強者」もまた、認められるべきであるのは同じです。
それは、「腰巾着系」についてですらも同じです。
ただし、それは、それらが「個人」である場合に限っての話です。
しかし、現実には、「集団」の中では、「強者」は「強者と言う部品」であり、「弱者」は「弱者と言う部品」であり、「腰巾着」は「腰巾着と言う部品」なのです。
底彦さんは、大した理由は無く「除け者」が作り出されるとおっしゃっていますが、それは違うような気がしますよ。
ぼくは、その理由ははっきりしていると思っています。
それが、上に述べた、「個人の意思を貫くこと」です。
「個人」として、どんなに強い人でも排除されます。
(数の力に抵抗できる人は居ませんから)
これも、また、一見すると特に「個人の意思」を貫いているように見えない人であっても、心の底に、そういう「意思」を持っている人は、必ず見抜かれてしまいます。
「集団化した人間」は、常に「集団内のプレッシャー」を受けていますから、その抑圧によって、いつも過敏で、「個人」に対して過剰に警戒しています。
だから、すぐに見抜かれてしまうわけです。
そして、「あやしい」と思われた者は、自分たちの「集団的な行動」に参加して来るかどうかを試されて、そこで参加しないものが「除け者」に成るという仕組みです。
これを、もっとも端的に言うならば、「いじめに参加する者」は「集団の仲間」に成れますし、「いじめに参加しない者」は「除け者」に成ります。
ぼくは、そこの境界線はきっぱりしていると思います。
つまり、「集団になじんでいる人」と言うのは、「集団」に命じられれば、「いじめ」だろうが「戦争」だろうが、「不正」だろうが、なんだろうがほとんどのことを、ほとんど抵抗なくやってしまう人なのです。
そういうことが「出来ない人」こそが「除け者」に成る人です。
要するに、「人間」は、まだ、「人間ではない動物」だった頃の「群れる」と言う習性から脱し切れていないんだと思います。
それでいて、「人間以前の動物」に成りきることが出来る人もいませんから、中途半端なんですね。
「動物」には、それぞれ、その種に見合った「本質」があります。
「人間」にも、「人間」に見合った「本質」があります。
しかし、「人間の本質」が、もう「動物の本質」からは、かなり離れてしまっているのに、その「動物の習性」である「群れる」と言う行動習性を捨てられないために、「群れ」の中では、「人間的な人間=個人」よりも「動物的な人間=集団のパーツ化した人間」の方が、「強者」と成り、また、「集団の意思」に沿った行動パターンを取りやすいということに成ってしまうわけです。
ぼくは、「個人」が、こういった状況を脱出するためには、「芸術」に根拠を置いた生き方をしていくしかないと思っています。
そして、出来得る限り「社会」などの「集団」との接点を少なくして、「個人」との間の接点を増やしていく、ということに成るでしょう。
そういう意味での「個人」を見つけ出すには「芸術」に根拠を置いた生き方を選択していくしかないと思っていますよ。
最後に、付け加えると、
> われわれの時代の
> 性病者、精神病者、夢遊病者
> 酒精中毒者、薬物中毒者
> 虞犯者、犯罪者、犯罪予定者
> 漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者
> 意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者
> フェティシスト、トランスヴェスティスト・・・
こういった人たちの中にも、集団化できる人も居れば、出来ない人も居ます。
現在においては、本当に厳しい差別を受けているのは、上記の人たちと言うよりも、「最も普通の人」です。
ぼくは、底彦さんやTakeoさんのような人が、「除け者」に成ってしまうとすれば、むしろ「普通の人」だからだと思いますよ。
つまり、「個人」とは「一般的ではない普通の人」のことなのだと思います。
「一般的な人」とは、「みんなと同じことをする人」です。
「普通の人」とは、「自分の意思で行動する人」です。
だから、実を言うと、「普通の人」は、普通でありながら、一人一人がみな「違う人」なのだと思います。
そして、そのことを「集団」が恐れるので、排除されるということです。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除わたしが先ず石川九楊の言葉に反応したのは、彼の(その時点での)美意識とわたしのそれとが相容れざるものだったからです。「世界は廃墟である」「美しいものは何一つない」だからこそわたしのような者でも生きてゆける。それを読んで感じたのは、「わたしは美のないところには到底生きてゆくことはできない。」という反発でした。
>この時代が何もない廃墟であることに気付き、そこを生きる知恵を得ることができるのではないだろうか。
「なにもない時代を生き抜く知恵」何故そのようなものが必要なのでしょう?
これこそ正に底彦さんが指摘した「自己啓発本」と変わらないじゃないか。
>世界は廃墟、関係は拒絶、個は絶望から出発する以外になく、そこにのみ無限の希望があることを教えてくれた。
大学時代にこのことを徹底的に教えられ、自ら命を絶った女性がいます。高野悦子という女性です。そして彼女の遺した日記、『二十歳の原点』は学生時代から今に至るまでわたしの本棚に並んでいます。
彼女にとって、「世界は廃墟、関係は拒絶、個は絶望」とは、そこから出発する場所ではなく、そこで命を終える認識を齎したのです。とても「そこにのみ無限の希望があることを教えてくれた。」などという心境にはなれなかったのです。
わたしの目から見れば、石川氏も、また吉本隆明も、田村隆一も、詰まるところ「サバイバー」だったということです。
石川九楊氏がどのような人生観を持ち、どのような美意識を持とうと、それは氏個人の問題です。しかし、「生き難さを感じている人も、世界は廃墟であるという認識し、そこから生き残る知恵を得ることができる」云々・・・というような言い方をされると、美のない世界では生きられない人間の美意識を、期せずして排除していることになるのではないでしょうか?
これは彼の(この)散文が詩的ではないという問題ではないと思います。ある文章が詩的であるか否かは、使われている文字のうつくしさに依るのではなく、そこで何が語られているかだと思います。
>「詩人ではない」ということは、責められるべきことでもないような気がして、ぼくは、やや同情的に成るというわけです。
もちろん詩人でないことは責められることではありません。詩を一篇も書かない詩人は世の中にいくらでもいます。詩人であることはなんら特権的なことではありません。美しい心を持つ人は、誰でも詩人です。それが痴呆老人であっても。
オスカー・ワイルドが言ったように、「美と悲しみを知る者」はみな詩人です。
違いはそれで金を稼いでいるかどうかだけです。
「いまもしこの時代に、言葉を静かに受けとめるだけの真摯さと余裕が残っていれば、同じような生き難さに直面しているに違いない若者も、この時代が何もない廃墟であることに気付き、そこを生きる知恵を得ることができるのではないだろうか。」
この一般化、少なくともわたしが到底賛同しかねる「生き方」を処世訓にすること。
そこに何よりも反発するのです。
それはわたしの美意識が否定されたと感じるからではなく、自分の考え方が一般化され得ると考えること、(何も石川九楊に限らず)そのような立脚点に立つ者すべてに対する反発なのです。
◇
さて、今回は完全に石川氏への「批判」になってしまいましたが、「群れ」について。群れは群れとしての意思があるということには同感です。
>一見すると特に「個人の意思」を貫いているように見えない人であっても、心の底に、そういう「意思」を持っている人は、必ず見抜かれてしまいます。
「集団化した人間」は、常に「集団内のプレッシャー」を受けていますから、その抑圧によって、いつも過敏で、「個人」に対して過剰に警戒しています。
だから、すぐに見抜かれてしまうわけです。
わたしもそう思います。別に貫こうという確固とした意思があろうとなかろうと、「異質なものは排除」されます。
「群れ」と「個人」の関係については、ふたつさんの意見にほぼ異論はありません。
しかしそれにしても、どういうわけか、日本人て、とりわけ、集団への帰属意識というか帰属本能が際立って強く感じられます。ここまで「個人」というものが希薄な民族って、アジア諸国も含めて例を見ないんじゃないでしょうか。
そして同じ「群れ」でも、香港での反政府デモのような「群れ」に関しては「決して」と言っていいほど現れません。「デモ」も「ゼネスト」も、集団行動です。けれどもそれはみな、個々の意思と自分の信念に基づいた「100万人」であり「200万人」のはずです。日本に関して言えば、他の国で見られるような、個々の意思に基づいた「群れ」というものが存在しない。いや。オリンピックや戦争など、国威発揚のような「群れ」には積極的に参加しますが、反体制的な群れは決して出現しない。そして弱者は死ぬまで痛めつけますが、強者には極めて弱腰。
香港の市民のように「自分たちの権利のためには流血も辞さず」という心がありません。ほんとうに「いい群れ」というのがありませんね。
◇
>つまり、「個人」とは「一般的ではない普通の人」のことなのだと思います。
「一般的な人」とは、「みんなと同じことをする人」です。
「普通の人」とは、「自分の意思で行動する人」です。
だから、実を言うと、「普通の人」は、普通でありながら、一人一人がみな「違う人」なのだと思います。
これはとても面白い表現です。以前「普通」=「普遍」と言われてましたね。
一人一人がみな違うことが普通。まったくあたりまえなんですけどね。
ー追記ー
「群れ」に関しては、必ずしも、物理的に集まっている状態のみを指しません。
つまりインターネットなどでは、顔も知らず、名前も知らず、性別も知らず、住んでいるところもバラバラな人間たちが「群れ」を形成します。何やら滑稽でもあります。