2019年9月23日

底彦さんへ


最新の投稿拝見しました。

実はわたしも先程似たような内容の文章を書いたのですが、何故か投稿する気になれませんでした。

わたしには先が無いということ。つまり何度も繰り返し書いているように、「良くなれるのか?」「ずっとこのままなのか?」という不安・焦燥の無い代わりに、「良くなるということはあり得ない」という厳然たる事実。しかしそこに絶望はありません。「絶望」があるから「絶対によくなることはできない」のです。絶望は、現状の結果ではなく、原因なのです。
そんなこれまで570遍も書いてきたことをまた今日も繰り返すことに意味を見いだせなかったのです。

丁度そんな時に底彦さんの投稿を読んで、考えました。

いくつかお聞きしたいことがあります。もちろん今の底彦さんの状態は承知していますので、書くだけ書き残させてください。

もし差し支えなければ、気分のいい時にでも気軽に、率直にお答え頂けると幸いです。

1)底彦さんにとって、「治った」=(完治ではなくとも)と言えるのはどうなったときでしょうか?

2)底彦さんの生きる動機とはなんですか?

3)現在の治療にほぼ満足していますか?

4)底彦さんの苦しみの根源は何だと思いますか?

デイケアでも、クリニックでも、「治るという意味がわからない」と言っても、誰にも通じないのです。このもっとも大本のところで話が通じないのでは、そもそも治療とは何でしょうか?
「それはね。治ってみて初めて分かるものなんだよ」という話は、まったくふざけた話だと言えるのでしょうか?

木村敏のエッセイの中にリルケの「若き詩人への手紙」の一部が引用されていました。

以下書き写します。

「……あなたの心の中の、あらゆる未解決なものに対して忍耐をお持ちなさい。そして問題そのものを、閉ざされた部屋のように、非常に見慣れない言語が書かれた本のように、愛するようになってください。今は解答をお探しにならないでください。解答は、あなたがそれを体得することがお出来にならないでしょうから、今はあなたに与えられ得ないのです。大切なことは、あらゆることを体得する、ということです。あなたは今問題を「体得」しなさい。多分あなたは次第次第に、それとお気付きにならないで、遠い将来のある日、解答の中へ入り込んで、解答を体得なさるようになるでしょう。……」(下線、本書では傍点)
ー木村敏『形なきものの形』〈音楽・言葉・精神医学〉

「治るということがわからない」というわたしに対して、「それはあなたが治ってみて初めて分かることなんだよ」といわれて、リルケの言葉を読むと、なんだかキツネにつままれたようです。

けれどもこれを単に馬鹿げたアネクドートと一笑に附せないなにかがあります。











2 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    頂いた問いについて考えたのですが, まとまりのある答えがどうしても見つかりませんでした. 今書けることを綴ってみようと思います.

    > 1)底彦さんにとって、「治った」=(完治ではなくとも)と言えるのはどうなったときでしょうか?

    あまり先のことは考えられないのです. 今日と明日を繋ぐことで消耗し切ってしまうのです.

    私が一番最初に Takeo さんのブログを読んだときに出会った文章に

    > 平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか?

    というものがあります. この文章が好きですね. 事実として私の中には「治癒」を恐れ, 病に守られている自分のままでいたいという思いがずっとあるのです. 「病に守られている」というのは長く鬱状態にある者としての実感です. 精神を病むということは, ある種の救いではないかとすら思うことがあるのです.

    それでも苦しいものは苦しく, 時に堪え難い苦痛を伴うのは事実です.

    せめて苦痛無しに想像し思考することができるようには回復したい, と願っています. もっとも今ではこれは, とても難しく非現実的なことになってしまったようです.

    > 2)底彦さんの生きる動機とはなんですか?

    積極的な動機が欲しいです. 現在の私には自分を肯定できるものが何もないのです.
    今, 私が生きているのはなぜなのでしょう.

    > 3)現在の治療にほぼ満足していますか?

    私の今の状況や金銭的な事情からすれば, 現在の治療で満足しなければならないと思います.

    本格的にカウンセリングを受けてみようかと思ったこともあります (これまで受けたことがありません). しかしカウンセリングは高額です. カウンセラーとの相性の問題もあるとデイケアのメンバーからも聞いています.
    何より私は必要以上に他人と接触することをあまり望みません. カウンセリングも含めて, 精神医療が私の心に土足で上がってくるようなことが起こるのが非常に怖いのです. 医療が怖いというのはおかしなことですね.

    それと, おそらく事実はこちらのほうが本当のことに近いという気がするのですが, 私は現在試みている治療 ── 診察と薬, 認知療法, デイケア, 作業療法 ── でどうにも精一杯です. これ以上何か新しいことを試みる余裕も, 現在の治療を変える気力も今の私にはありません.

    > 4)底彦さんの苦しみの根源は何だと思いますか?

    性格と周囲の環境との摩擦に依る部分が大きいと思います.
    内向的で空想癖のある性格だった私が, 社会に適応すべく無理をしてしまったことが私の精神を壊した第一の要因ですね.
    不要なところに力を注ぎ過ぎました. あまりにも頑張り過ぎました. 性格の中心は変わらないのです.
    駄目なものをどう頑張ったところで駄目なのだということがわかったのは良かったです.

    私は内省的に想像の世界で生きていてよかった. 今は世界の何処に居ればいいのかわからなくなってしまいました.

    以上です. 簡単にまとめました.

    なお, 2) の生きる動機については, もう少し体調の良いときにあらためて考えてみたいと思います. と言うよりも, 私にとって長く考え続けてなお答えのわからない問いかけですね.

    P.S. Takeo さんが引用しているリルケの一節はいいですね. 心を打たれて何度も読み返しています.
    このリルケだけではありません. 私の心に引っ掛かったものだけでもシモーヌ・ヴェイユ, 石内都, 二階堂奥歯, プリーモ・レーヴィのような豊かな世界が Takeo さんの中にはあるというのは本当に素晴らしいことだと思います.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      コメント(お返事)をうれしく思います。

      >「病に守られている」というのは長く鬱状態にある者としての実感です. 精神を病むということは, ある種の救いではないかとすら思うことがあるのです.

      これは、上のわたしの文章を承けての感懐でしょう。底彦さんの中では、「治癒」イコール前線への復帰を意味するのでしょうか?なにか「中間地点」のような「緩衝地帯」のような場所を思ったことはありませんか?

      これは反論ではなく、わたしは「病に守られている」という感覚を持ったことがありません。
      今日、学校に馴染めない子供、学校に行くこと、居ることが苦痛である子供たちに、何が何でも学校へ連れ戻すという発想は薄まっているのではないかと思います。
      それは、極端な話ではなく、「命を奪われる恐れ」が現実に存在するからです。

      また今の社会は、わたしがまだ社会に何らかの形で参加していた時代と比べられないほど過酷になっているのではないでしょうか?
      しかし、命、或いは健康を秤の片方に乗せるようには、命と仕事を天秤にかけることは許されない、というよりも、オルタナティヴが存在しない。

      「過労死」「鬱病」「時間外の無償でのご奉公」「非正規の多さ」「低賃金」「使い捨て」・・・少なからぬ人たちにとって、上記の事柄が「他人事」ではない時代に、「病に守られている」と感じるのは、ごくごく自然な感情かもしれません。

      新聞によると、昨今話題の「煽り運転」も、その原因の多くは、ドライバーの恒常的なイライラした精神状態であると、カウンセラーは話しています。



      わたしが「病に守られている」という感覚が無いといったのは、底彦さんの気持ちを十分に理解した上で、それでも、たとえ、巨万の富があって、死ぬまで遊んで暮らせる=一切働かなくても、社会と関わり合いを持たなくてもいい。と言われても、わたしが今の社会に生きることの、ほとんど不可能であることを日々感じて生きているからです。

      わたしは、それこそ石内都が写真に収めたような時代で、カツカツの生活をする方を、現代社会で、億万長者として暮らすことよりも遥かに「乞い願う」のです。

      「金に不自由なく暮らす」ことと「何不自由なく暮らす」ことは、わたしの中ではまったく別のことなのです。

      2)の「生きる動機」についても、上の答えと繋がっています。今の時代に「生きるに値する」何があるのか?わたしにはわかりません。
      ですから当然「治癒」の意味、その根源が問い直されるのです。

      3)の「現在の治療にほぼ満足していますか?」というのは、もっと単純な質問のつもりでした。つまり治療者との相性のようなことをお聞きしたかっただけです。
      わたし自身、主治医の言ったちょっとしたことをいつまでも引きずるタイプなので厄介です。木村敏、また町沢静夫の本にも、この「こだわり」がもっとも顕著に表れるのが、「境界性人格障害」であるとされています。

      木村敏の『分裂病と他者』には、「あの時先生の言ったあの一言がどれだけわたしを傷つけたか先生はわかっているのか?」という患者(BPD)のことが書かれています。口ではっきり伝えたことはありませんが、このような感情は治療の現場で日常茶飯事です。ですからこれまで20人以上の精神科医を転々としているのです。

      > 医療が怖いというのはおかしなことですね.

      これは普通の、というか、よくある感情だと思います。特に心を病んだ人たちはみな「壊れ物」のようなものですから、「怖い」という感情はよくわかります。

      最後に4ですが、

      >私は内省的に想像の世界で生きていてよかった. 今は世界の何処に居ればいいのかわからなくなってしまいました.

      上で書かれているように、せめて、精神活動だけは、もう少し楽になれたらと思います。つまり本を読んだり、絵を描いたり、数学に取り組んだりということが、さほど苦痛なく、無理なく可能になれば。

      現在のそのような状態の中、2つものコメントを書いていただき感謝しています。

      そして「ここ」が、ほんの束の間でも、底彦さんにとって、ホッと息のつける場所になれればそれに勝る喜びはありません。

      あらためてありがとうございました。お疲れでしょう。穏やかな眠りが、束の間、底彦さんの苦痛を忘れさせてくれることを願います。

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