2019年9月1日

セプテンバー・ビート


頭ン中の「言葉」や「理屈」が沸騰して全部蒸発しちまった。
やかんの底は黒焦げだ。そこらじゅう焦げくさいにおいで充満している。
部屋中の空気を入れ替えなきゃならない。

おれはちょっと外に出てるよ。



今日はとにかくクールな写真と音楽で。

 Beatnik and Ex-con Poet Ray Bremser on the Fire Escape of Allen Ginsberg’s Apartment,
 East Village, New York City, 1959

写真はアメリカのビートニク詩人レイ・ブレムサー(?)ニューヨーク、イースト・ヴィレッジのアレン・ギンズバーグのアパートのファイアー・エスケイプ(避難梯子)で。撮影は1959年。



Flames In The Street - Baba Brooks Band

ビートニクと言えばジャズだけど、こちらは何故かジャマイカン・スカ。


ババ・ブルックス・バンドの「フレームス・イン・ザ・ストリート」


タンブラーに行ってきた。何故か絵が選べない。それに、フォロワーはぼくを写真の人
(写真を主にポストする人)と見ている気がした。今は絵でもなく、モノクロ写真でもなく、50年代~60年代のカラー写真に惹かれる。

今日はこことタンブラー、そして海外のアート・サイト以外まるで見ていない。気持ちが落ち着く。

ではみなさん、よい9月を。












4 件のコメント:

  1. こんにちは。

    どうやら、ぼくもコメントが入れられないときがあるようです。
    メールでも送りましたが、ほかの方たちはどういう状況なんでしょうか?

    とりあえず、試しに、このコメントを送って見ます。

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    1. こんばんは、ふたつさん。ふたつさんとJunkoさんには、メールで、底彦さんにはコメントで、基本的には同じ内容のメッセージ、(お報せとお詫び)を送りました。
      下に底彦さんからのコメントが届いていますが、メールの方にはふたつさん、Junkoさんからはなにもとどいていません。肝心なところで、ブロガーは非常に使いにくいですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

      以前Junkoさんにも言いましたが、書いたものは、どこかにコピーしておいて、反映されるまで待っていただければ新たに書き直しをする手間が省けると思います。

      また時間があるときにでも、こちらへでも、メールでも送っていただければと思います。

      ブロガー共々お詫びします。

      Takeo

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  2. こんにちは, Takeo さん, ふたつさん.

    お二人のコメントに対する返信とこの数日の Takeo さんの文章を読んでの感想です.

    私がこのブログともう一つの絵画のブログ Clock without hands を読み続けるのは, Takeo さんの文章や投稿される絵画・詩に惹かれているからです. 今回もビートニクの詩人を紹介されていますね. プリーモ・レーヴィや中上哲夫は初めて知りましたがいい詩だと思いました. また, 絵画のブログで紹介されていた Jack Vettriano という画家も初めて知りましたが好きな絵です.
    このような全体が不思議に静かで美しい空間を形成していて, この中に居続けるのは心地よいことなのです.

    Takeo さんの文章と共に, ここにコメントを寄せられる方々の文章からは, 自分が何処に居るのかという意思がかなり明確に感じられます. それは数多くの混乱した状況や時空間の中に, 自分自身が存在することのできる場所を見出だすもしくは作り出すという意思です.
    それは, 皆で一緒に平和的に仲良く, 同じことを言って同じ行動をして皆で安心して, などの小さな同調性の重なった先にある個への暴力への明確な拒絶の意思です. それは瓦礫に覆われた荒野の向こうに自らの向かう先を見て進む意思です.
    私は, ここに集まった皆さんがそれぞれに非常に解放された, 強くて自由な感覚と思考を持っていると感じています.

    -=-=-=-

    私自身は先のコメントで書いた「表の人格」によって, 間断無く自分自身を否定し続ける暴力に崩れてしまいそうな不安と恐怖の中にいます. ですから皆さんの自由性に羨望を抱いているのです. ここの空気はとても心地が良いのです.
    その空気を感じながら文章を書いたり絵を描いたり, たとえばこのブログにコメントを寄せる中で, どうにかして自分自身を見つけだしたいと願っているのです.

    ふたつさんは, 私が先日の文章の中で「表の人格」に否定された自己を探し求める試みの中で, 「ここにはふたつさんの言う「齟齬」は無いと思います」と書いたことについて, 「表の人格」が未だに生きているために私が齟齬を感じないのだと指摘しています. このふたつさんの文章は私には相応にきつい言葉でした.
    なぜならば, 現在の社会と自分の間には明らかに齟齬があるからです. その意味で「ここにはふたつさんの言う「齟齬」は無いと思います」と書いたのは嘘ということになります.
    けれども書きました. 本当は「表の人格」から解放されたとき, その過程で実際に現実社会の中にある全体性・暴力性を私自身が相対化・客観化して見ることができるようになってすべてうまく行っていることを望んだのです. もう少しはっきりと書けば「ここには・・・「齟齬」は無いと思います」という文章は私の悲鳴なのです. だから書いたのです.

    ふたつさんが書いているように, 私の中にできてしまった「表の人格」は忘れたり消すことはできそうにありません. 殺せるかどうかはわかりません. 仮に殺せたとしてそのときに「現在との齟齬」が生み出されることはあるでしょう. どのように進んでいくのがいいのか, 私には今の時点ではわからないのです. 「表の人格」にはどうしても抗うということははっきりしているのですが.

    当分は一つ確からしく感じられる, 自分自身の心の状態を文章に綴ったり絵に描いたりするという治癒行為だけを何とか続けていこうとしています. この行為によって, 今日の一日と明日の一日が辛うじて繋がる感触があります.

    -=-=-=-

    一方で Takeo さんの場合は私と異なり, 「治る」とは何かに懊悩し, 希望も無く絶え間の無い自己否定の苦悩の中にいるとご自身で書かれています. 文章からもその苦痛や混乱が伝えわってくるようです.

    けれども私は, Takeo さんのブログ全体に漂っている解放された何とも言えない自由な空気は, 「わたしがわたしであること」による自己否定や他者からの拒絶に苦しんでいる Takeo さんをも包み込んでいるような気がしています.

    以前の投稿「金曜の午後1時半。(大切なものは何か?)」の中でデイケアの T さんから「Takeo さんはとっても弱い人」という言葉を投げかけられた出来事を記した文章は, その場の空気の匂いすら感じられるほど極めて充実したものでした. このことは Takeo さんにとってその時間その場所が非常に大切な場であったことを裏付けていると思います.

    このような周囲からの客観的な視点を通じて「自分は弱い人間である」と表現した文章は, 私にはとても印象的でした.
    もしかしたら Takeo さんは自身の中の弱さが, 唯一否定できない自分の欠片であるという事実を確認してはいませんか? その弱さは, Takeo さん自身も了解していると思うのですが, Takeo さんに美しいものへの希求を与えている繊細さの源ですよね.

    訣別した以前の SNS の友人からの「Takeoさんの性格にはついていけないけど、アートのセンスは認めざるを得ない」という言葉は, 奇しくも Takeo さんの中にある美への意識の普遍性, Takeo さんが意図せずとも導かれてしまった実存を指し示してはいないでしょうか. 私は Takeo さんに尋ねてみたいのです. Takeo さんの弱さは, 「孤独と独特の認識の化け物」を成すものの小さいけれども大切な一部であり, それは Takeo さんを苦しめている自身への強く烈しい "No" を以てしてもどうにも否定しきれないものなのではないですか?

    絶えることの無い苦しみの中で, Takeo さんの弱さは Takeo さんを安息へと導きませんか? 私は, この場所にならば Takeo さんは疲れ果てて倒れてしまっても良いのではないかと思うのです.

    まとまりの無い文章になってしまってすみません.

    感じたことを書きました.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      先程コメントを書きこむ際に、ここ最近の底彦さんの投稿を読みましたが、今の状態でこのような長い文章を書くことはさぞお疲れになったでしょう。「必ずしもTakeoさんの為だけではない」と仰るかもしれませんが、深く感謝します。

      あらゆることに対する弱さ、脆さ、と繊細な美への感受性というものが、残念ながらわたしの中では分けることができないようです。
      また先に話したSNSの友達の言ったこと。そのことに「美へのセンス」ということに、わたしは無駄に謙遜を装うつもりはありません。何故ならわたし自身が彼女たちのセンスの良さに憧れていたからです。無論彼女たちは、底彦さんやドロローサ、オーファンとは正反対の、いわゆる正統派の「美しい絵」が好きでした。

      美に鋭敏であるということは、取りも直さず、醜にも敏感であるということです。
      それは言うまでもなくベルメールやモリニエ、つまりドロローサやオーファンの好むグロテスクな芸術のことではありません。

      わたしにとっての「醜」とは、先のコメントで、ふたつさんが指摘した、人間と自然との分離に他なりません。つまり「文化なき文明」といわれる時代です。

      底彦さんの問いかけに対して、すぐさま、そうですと言えるのかどうか、あやふやですが、弱さ、そして美への希求こそがわたしだと言えるでしょう。
      それゆえに、強さや醜さへの憎悪が人一倍激しいことも否めません。

      >絶えることの無い苦しみの中で, Takeo さんの弱さは Takeo さんを安息へと導きませんか?

      実感としてはそこまでは至っていないようです。それは何処まで行っても諸刃の剣で、滴った自らの血の中にしか美を見出すことができないからです。
      つまり自らの裡にある苦しみ、かなしみを通じてしか、美を認識することができないからです。

      >私は, この場所にならば Takeo さんは疲れ果てて倒れてしまっても良いのではないかと思うのです.

      底彦さんにそのように感じてもらえて光栄の一言です。

      わたしにとってこのブログとはどのような意味を持つのか、底彦さんたちに送ったメッセージを基に、もう少し考えてみようと思います。

      ただ、これは当たり前のことですが、わたしはわたしが書きたいこと、そして書けることを書くだけです。

      完全なお返事になっていませんが、わたしの気持ちはおいおい書いてゆくつもりです。

      改めて、いつもながらの誠実なメッセージをどうもありがとうございます。

      不悉







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