2019年9月7日

石川九楊の「逆説」について


(下記投稿より続く)

石川九楊は「逆説」と繰り返す。世界は夙に美を失っており、そこは廃墟であり、価値のあるものはなにもない。だから、自分のような無価値なものでも生きられる、生きていてもいい、何故なら、私同様世界もまた無価値なのだから。そこに残されたのは「希望」だけだ。
価値ある世界にとって、無価値である自分の居場所はない。世界が美しければ、そこに花一輪添えることも出来ない自分の存在意味はない。世界が「ゼロ」乃至「マイナス」だからこそ、私も、そして、「生き難さ」を抱えている現代の若者たちも生きられるし、生きる希望を見出せるのではないか。

石川九楊はその「逆説」の中で、生きる意味を見出すことが出来た。

翻ってわたしの場合はどうだろう。確かに世界は昨日までのように美しくはない。
そして今、世界は廃墟と成りつつある。石川九楊にとって、その状態は、正に無である己の生の起点であった。けれども「昨日のようにはもはや美しくはない世界」は、わたしにとっては終点だ。若き日の石川氏同様、無である自分は、唯一「美」の存在によって支えられ、生かされていた。「自分は無であり、自己を取り巻く世界もまた無に等しい。故にわたしは生きてもいい」と考えた石川氏の考え方は、概念としては理解できても、彼と同じように感じることはできない。いや、そもそも概念としてさえ、わたしの理解を超えている。果たして人は美のない廃墟に生きられるものだろうか。

「ブレッド・アンド・ローズ」=「パンと薔薇」これなくして人は生きてゆけない。

もちろん、何が「パン」であり、何が「バラ」即ち「美」であるかは人それぞれだ。
わたしにとってのバラの花は、例えば、昨日載せた背中を丸めて小銭を数える老人の姿であり、ダイアン・アーバスがカメラに収めたような人々であり、「名もなく貧しく美しく」生きている人たちだ。

わたしはどこかで石川九楊の「逆説」の意味を取り違えているのだろうか?
石川九楊は、世界は廃墟であり、美は消え去ったと「思うこと」が必要だと言っているのか?現実に世界は廃墟ではなく、美しいものがあると「思ってしまえば」「無価値」である「私」はとても生きることはできない。世界の価値に、世界の美に押し潰されてしまう。だから、吉本や田村の詩の中の言葉を援けにして、私(石川)やキミ同様に、「世界もまた無価値であると」「思おう」と?そうすれば楽になるはずだと?しかし、だとすれば、そこには「そのように思おう」と自己を欺いていることを知っているもう一人の自分がいるはずだ。

だがもしそうでなく、本当に世界は廃墟であり、美しいものは消え去ったということを主観的な事実として認識しているなら、それでも人(たとえば石川氏)は何故生きるのか?何故生きることができるのか?

高村光太郎のように「ぼくの前に道はない ぼくの後に道はできる・・・」と誰もが思い、そのように実行すれば、至る所新たな道だらけという「逆説」が生じはしないか。



石川九楊の倫理・論理を極限にまで突き詰めれば、「世界は美しくあってはならず、廃墟であり続けなければならない」ということになりはしないか?
「私同様に世界も無価値」であり続けるためには。そして「世界」と等価であることを生存の条件とするなら、世界同様に、わたしもまた「無価値」であり続けなければならないはずだ。どちらかに価値が生じれば、生存を辛うじて支えている均衡が崩れるからだ。
「私同様に世界も無価値」── ここでいわれる「私」は、永遠に後続する「私」である。
今石川氏が自足していたとしたら、この「生きるための逆説」=「世界には生きる価値など無いから生きられる」── は破綻する。
石川九楊は自らの存在を以て、永遠にこの「逆説」を「逆説」たらしめ続けなければならない。



世界が廃墟であることを知った、或るいはそのように考えるようになった石川氏はそこから「再起した」。しかし今、正に美の最後の残照のなかにいて、わたしは終わりを迎えようとしている。

わたしは「廃墟」に美を見出す者である、と書いた。しかしそれは、石川九楊の言う廃墟とはまるで別のものだろう。
19世紀ロマン主義の画家たちは好んで廃墟をモチーフにした。それは「現代の廃墟」(或いは「廃墟である現代」)とは似ても似つかぬものだ。





「廃墟の画家」と呼ばれたフランスのユベール・ロベールの2枚の絵。

「もし世界が廃墟であるなら、わたしは生きることができる」ここに石川九楊とは違ったもう一つの「わたしの逆説」がある。


The Barn,  ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)

「納屋」ユベール・ロベール(1733-1808)
A Hermit Praying in the Ruins of a Roman Temple, ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)

「ローマの廃墟で祈りを捧げる隠者」(1760年頃)ユベール・ロベール(1733-1808)








22 件のコメント:

  1. こんばんは。

    最近の投稿は、とても詩情に富んでいて、何度も読み返してしまいますよ。

    この記事の内容は、深いのでコメントすることが出来そうもありませんが、ただ、一点だけ、ぼくがいえることがあるとすれば、

    われわれの時代の
    性病者、精神病者、夢遊病者
    酒精中毒者、薬物中毒者
    虞犯者、犯罪者、犯罪予定者
    漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者
    意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者
    フェティシスト、トランスヴェスティスト・・・

    こういった人たちが、「差別」されずに生きられる世の中に成ったら、ぼくは、うれしいですね。
    完璧にではなくてもいいですから、どんな人も、普通に生きられるような世の中に成るといいなと思います。
    それだけで、十分に生きるに足る世の中だと思いますね。

    それ以上に、何か必要でしょうか?
    ぼくは要りません。

    では、また。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、ふたつさん。

      今回の投稿は、ちょっとややこしいというか、ただ、彼の論理にというのではなく、論旨に、違和感を感じたのです。その違和感の正体がハッキリしないので、わたし自身にもわかりにくいのに、みんなの意見を聞きたいですね。
      正解なんてないんですから、感じたままを聞かせてほしいです。

      先日ふたつさんが、誰もが反対する差別には反対するが、誰も反対しない「差別」はOKと皮肉交じりに言っていましたが、ほとんどすべての人がそうですね。

      この国に宗教がないことは、信仰の対象がないことという意味ではなく、「モラル」というものに深く思いを馳せるという契機を持たないという意味に於いて不幸ですね。

      ここに投稿される、絵でも写真でも、詩でも、音楽でも、好みはそれぞれでしょうが、できれば先日言ったように、できるだけ「多彩に」したいと思っています。

      上のふたつさんの意見には賛成です。

      >それ以上に、何か必要でしょうか?
      ぼくは要りません。

      この言葉が確かに、心に届きました。

      よい日曜日をお過ごしください。

      削除


  2. Ciao Tekeoさん
    検査の結果待ちで、一時退院帰宅しています。

    私は廃墟というものは何か?を考えます。
    Takeoさんのブログで紹介されている絵画に描かれている「廃墟」とは、ただ私たちが日常に作り上げた認識において在るべき何か、もしくは全てが破壊されている、という単なる環境状況であって、そこに住むのは同じ環境を共有する、まだ壊れきっていない人々で、
    私はこの類の「廃墟」に何かしらの希望のようなものを感じ、一種の安堵のようなものを感じることはあっても嫌悪を感じる事はありません。
    しかしながら、今私が胡散臭さと嫌悪を、ある種の嘆きを持って「世も末」だと称する廃墟は、一見してどこも壊れていない、むしろどうだこの完璧さはと言う高慢さを持って最高のテクノロジーで整備され、そしてそびえ立つ、おぞましいコンクリートの箱で埋め尽くされた、木々や草花やそこに住む虫や動物たちの生きる権利を自分たちの便利、機能性のためには平気で蹂躙する都会という名の廃墟です。
    そこには、他の生物の生を自分たちの思いのままに扱う傲慢さだけでなく、「自分」の意に沿わないもの、「自分」と異なるもの、よって理解が困難なものをただ効率的でないという理由で差別、排除する差別意識が当然のことのように横行しています。
    私はこの彼らの精神の貧困さ、残酷さ、未熟さ、が「社会的」という名を纏って横行する社会を「廃墟」と呼びます。
    廃墟を作るのは、瓦礫でもなく、荒涼とした焼け野原でもなく、
    地球を壊して効率だと言っている、そして中流の上意識で、我が身を顧みることもせず、我が物顔で人を格付け、カテゴリー分けして他者を差別、蔑視する事を厭わない現代人です。

    戦後、壊滅的に破壊された東京の荒野原で、真っ黒に顔を汚した人々が炊き出しを細々とやっている、そんな光景を見た事があります。皆全てを失ったというのに、妙に清々しい顔をしています。私はそこに人間の聖なるとも呼べる強さを見出し、そこに気高さ、尊さを見ます。
    それに比べ、外見的には何の不足のない、むしろ豊かさと便利さの頂点を極め、それを享受しているかのような東京に私は言いようのないおぞましさと不快さ、辿るべき「未来」のない絶望を感じ、望んだものは全て所有し、自らを豊かであると信じ切っているのでしょうが、そこに暮らす人々の中に行きどころのない不満、怒り、すでに感じ反応することをやめてしまった魂の最後の呻きのようなものを感じます。
    差別は、むしろ差別するものの魂に猛毒のように入り込み、それを苦しめ、死滅させると私は思っています。
    どうしてそんな悪循環をさっさとやめてしまわないのか?
    それは、逆に彼ら「こそ」がどれだけ壊れているか、病んでいるか、不幸であるか、を如実に表しています。

    戦後、BC戦犯の汚名を着せられ死刑に処された木村久夫上等兵の遺書を目にしました。
    その一部をここに記します。

    全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲の如きは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。

    日本は凡ての面に於て混乱に陥るであろう。然しそれで良いのだ。嘗ての如き、今の我に都合の悪きもの意に添はぬものは凡て悪なりとして、腕力を以て、武力を以て排撃して来た我々の態度の行く可き結果は明白であった。今や凡ての武力、腕力を捨てて、凡ての物を公平に認識、吟味、価値判断する事が必要なのである。それで之が真の発展を我々に与へてくれるものなのである。

    朝晩の風はすでに秋、時には寒いほどです。
    今年こそ秋の来るのを心待ちにした年はありません
    穏やかな1週間をお過ごしくださいますよう、、。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、Junkoさん。

      一時帰宅?そうですか。何事もなく検査が終了することを祈ります。
      このように人間の存在なんて、風前の灯です。例外はありません。それを昔の人間たちは、愚かな権力者たちを除いて、当たり前のように知っていました。人間は時代を追うごとに愚かしく、小賢しくなっていっているようです。

      嘗ての「荒地」嘗ての「廃墟」とは、正に、この絵にあるように、形而下的なモノでした。そしてJunkoさんの言うように、現在の「荒地」「廃墟」は心の領域、精神の荒廃に他なりません。

      「通信機器の驚異的進歩」と言いますが、嘗て、現代ほど、人と人とのあいだが「不通状態」になったことがあったでしょうか。これもまた皮肉な、そして滑稽な「逆説」です。そして上滑りの言葉を弄して、なんとか「繋がっている」と錯覚している。

      Junkoさんの「廃墟」に対する考え方は全くわたしと同じです。

      ただ、敢えてここで、Junkoさんとの意見のズレを述べてみたいと思います。

      >差別は、むしろ差別するものの魂に猛毒のように入り込み、それを苦しめ、死滅させると私は思っています。

      この点に関して、これは実際にアイヒマンが言った言葉か、何かのブラック・ジョークの本で読んだものか忘れましたが、処刑に臨んだアイヒマンに刑吏が「何か言い残すことはないか」と訊いた時に、彼は「できればユダヤ教に改宗したい。そうすればまたひとりユダヤ人が死ぬことになるから」

      わたしはそもそも「差別」というものの起源が、「内省の欠如」に拠るものだと考えます。もちろん、高村光太郎や、ドイツのギュンター・グラスなど、当時を深く恥じ入る人も稀にはいます。けれども、わたしには、そもそも彼らには「後悔するだけの内面」など端から持ち合わせていないのではないかと思えて仕方ありません。

      彼らは生まれてから死ぬまで、己の正しさの中に居るでしょう。

      逆にプリーモ・レーヴィのような人間は、解放後40年を経て、それでも癒されることなく、自らの命を絶ったのです。

      プリーモの本に『これが人間か』というタイトルの本があります。
      以前はこのIf This Is A Man. という言葉に反語的な意味を見ていました。
      「これが人間のはずがない。これが人間であっていいはずがない」=これは人間ではない、と。

      今のわたしは、この言葉を、「これが人間だったのか・・・」という風に受けとめています。「これが人間か?」ー「否!」ではなく「これが人間(だったの)か!」「諾!」と。



      木村上等兵の遺書、

      >日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。

      これはしかし、まったく「今現在」のことを言っているようです。嘗てこんなことを思い死んでいった人がいた、という事実以上に、これから先の遠くない将来の予言のように読めます。

      木村さんに限らず、嘗ての「荒地」の中に立って、このように考えた人たちは少なくなかったはずです。しかし、日本という国は、このような、真っ当な考えが遍く行き渡るような精神的土壌を持ってはいなかった。

      「日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。」

      「足らなかった」と、木村さんは未来への希望を託した遺書を遺した。
      しかし21世紀現在、尚それは「過去形」で語ることはできない。

      ・・・・何やら反論めいたことを書きましたが、自分の考えを、間違っているかもしれなくとも、率直に伝えたい。それが不器用なわたしなりの誠意だとご理解ください。

      早く元気になってください。いつもながらの真情あふれるメッセージに感謝します。





      削除
    2. 追伸

      なにやらJunkoさんの意見に異議申し立てをしているようで、申し訳ありませんが、やはり拘らざるを得ないのです・・・

      もう20年近く前にやはりプリーモに関する記事で読んで、以来、深く心に刻み込まれている言葉があります。それはやはりプリーモと同じ、アウシュヴィッツの生き残りの言葉でした。

      「俺の心臓を舐めてみろ。その毒で死ぬぞ」

      これは収容所で彼を(多くの彼ら、彼女らを)殺してきた者の言葉ではなく。生き残った者の口から発せられた言葉です。

      無論例外も少なくはないでしょう。しかしわたしは、基本的に残忍な人間の口からはこのような言葉は決して聞くことはできないように思えてなりません。

      わたしが知っている唯一の例外が、シェイクスピアの戯曲に出てくる所謂、「加害者」たちです。(彼らはしかし、決して自分の行為を後悔したり、懺悔しているわけではないのですが、彼らの独白はその行いにもかかわらず、あまりにも詩的です)

      以前に中井英夫の「明朗な殺人者」という文章を紹介したことがあります。
      70年代の本だったでしょうか。韓国人の同級生への寄せ書きに、クラスのほとんどの子供たちから、今も変わらぬ、とても読むに堪えない言葉がそれこそ押し寄せるように書かれていました。その子供=在日韓国人は自殺しました。

      中井英夫は言うのです。それらの言葉を書いた子供たちは、大人になったときに、そんなことがあったことさえ忘れて、晴朗に生きてゆくことだろう、と。

      削除
  3. Ciao Takeoさん
    加害者になる人々に内省の欠如、後悔するだけの内面がない。と言うこと同感です。
    彼らの恐るべき無知さ,残酷さを私が理解できることはないでしょう

    ただ私がここで言っているのは、魂の事です。
    魂と脳みそ(思考)とは、別個のものであり、脳みそで理解できないことも魂のレベルでは刻まれる事もあると思っています。
    加害者になる人々は思考のレベルでは自らの罪をまるで認知しないかもしれませんが、その陰で魂は恥ずかしがり、苦しみ、やがて疲弊して行くのではないかと考えています。
    そう言う魂の人々が、たとえ表面的には何事もなく繕い、普通の暮らしをし、楽しんでいる「振り」、幸せな「振り」をいくらしようが、彼らの人生は底浅く、澱み、彼らが心からの平安、幸福感を味わうことはないと考えるのです。
    そうでないのなら、今回日本で、とりわけ東京の人混みで見かけた、多分何不自由ない日常を送っているであろう彼らが、ちっとも幸せそうじゃなく、沈んだ表情をしているわけがないと思うのです。
    少なくとも東京で、私は晴れ晴れとしたゆとりのある顔をした人を見かけた事が最近ありません
    思考の上では、これで良いと納得していたとしても、私は彼らの衰えた魂を感じます。
    中井英夫さんのおっしゃる明朗な、、はあくまでも、「明朗を装う殺人者」でないかと私は考えます。
    闇雲に人を傷つけ、卑しめ、彼らの人生を地獄に変え、そして死にまで追い込む、そう言う人々に決して幸せになどなって欲しくない。と言う私の思いの裏返しかもしれませんが、、。

    返信削除
  4. 追記
    裏返しと言うよりも、そう言う私の思いがそう言う「加害者の魂をも毒するにちがいない」と言う思考を引き出すのかもしれませんが、、
    つまり、忘れた振りなど絶対にさせないぞ。と言う。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、Junkoさん。

      これまでそれほど多くのブログを読んできたわけではありませんし、そもそもコメントが付いていないブログの方が多かった気がします。
      それでも、まったくの見ず知らずの人が、通りすがりに唾を吐きかけてゆくようなことはあっても、所謂・・・いわゆる、なんでしょうね(苦笑)わたしにとってのJunkoさんやふたつさん、底彦さん、どこかへ行ってしまった(笑)瀬里香さん・・・そのような間柄にいる人が、或る投稿、コメントに対して、異論を言っている場面というのをほとんど、いや、まったくと言っていいほど見たことがありません。

      もちろん価値観が似ているからやり取りがあるのですが、それにしても、毎度毎度同じ意見、同じ考えというはずがありません。しかしまぁ、70%同じなら、残りの20%や30%の相違点をわざわざほじくり出さなくてもいいじゃないか。
      そんな感じなのでしょうか。

      ですから大抵のブログのコメント欄を読んでいてもちっともエキサイティングじゃない。多少考えが違ってもそこは黙っている。この点に関しては大幅に違うという時にはなおさら口を噤む。

      わたしはここにコメントを残してくれる人と、どれほど似ているか、どれほど相違点があるかを知りたいわけではありません。

      「あ、でもJunkoさん、その点に関してはちょっと違うんだ」と気軽に言い合えないコメントって何か、と思うんです。確かに、面と向かってなら、「それは違うと思うな」と言えるようなことでも、ネット上では言い難いということはあります。

      だからわたしはJunkoさんでも、ふたつさんでも、底彦さんでも、機会があれば実際に向き合って話したいと思っています。

      このブログを多様性のあるものにしたいというのは、なにも投稿する記事のことだけではなく、コメント欄=意見欄も多種多様であればと思っています。とはいえ、そこには自ずと、根本的な部分での価値観の一致という前提がありますが。



      Junkoさんの言われる、「魂の領域」とは、つまり「良心」の問題だと思います。
      「良心」って、つまり「愛」のことだと思います。

      「魂」「良心」「愛」・・・そういうことが、重度の精神障害者であるわたしに理解できるものなのか?わたしにはわからないのです。

      ただ、Junkoさんの率直な気持ち、

      >闇雲に人を傷つけ、卑しめ、彼らの人生を地獄に変え、そして死にまで追い込む、そう言う人々に決して幸せになどなって欲しくない。

      という思い。

      >忘れた振りなど絶対にさせないぞ。

      という怒り、

      これはとてもよくわかるし、100%共感します。

      このような深い気持ちを聞けただけでも、異論は言ってみるんもんだと思いました(苦笑)

      どうもありがとう。



      削除
    2. >彼らの人生は底浅く、澱み、彼らが心からの平安、幸福感を味わうことはないと考えるのです。
      そうでないのなら、今回日本で、とりわけ東京の人混みで見かけた、多分何不自由ない日常を送っているであろう彼らが、ちっとも幸せそうじゃなく、沈んだ表情をしているわけがないと思うのです。


      「魂が病んでいる」「魂の廃墟」そういう点では、わたしは誰よりも、その形容に当てはまる存在かもしれません。

      少なくとも、「いじめる側」には「笑顔」があり、いじめられる側は、常に暗澹とした心に閉ざされています。彼ら、彼女は微笑むことさえ忘れている。

      わたしは誰かに「いじめられている」わけではありません。けれども、わたしはJunkoさんが東京で見たどの人よりも暗い魂の持ち主であると思っています。


      削除
  5. Takeoさん
    上のtakeo さんの言葉にお返事を書いたんだけど、届いていませんか?

    返信削除
    返信
    1. おはようJunkoさん。

      残念ながら、承認待ちのコメントには、このコメント1つしかありませんでした。
      別に設定を変えたわけではないのですが。

      もしまだ書いたものが残っているのなら、こちらにもう一度と、念のためにメールで送っていただけますか?ここに転載しますので。

      ここのところの投稿に全く反応がなく、体調・・・というか気分もすぐれず、投稿する気になれませんでした。かなり本気で認知症を疑っています。デイケアに行っている病院で、認知症外来があるので、どういうことをするのか訊いてみようと思っています。

      いつもご迷惑をおかけします。からだの具合はいかがですか?

      どうかお大事になさってください。

      削除
  6. Ciao Takeoさん
    うーーむ、残念
    Takeoさんへのコメントは、勢いに任せながら、かつどのようにそれを文字にするか、熟考しながら書くので、結構深い作業で、ですからもう一回同じものをと言われると非常に困るんですよね
    これからは、毎回コピーしてとっておかなきゃいけないですね
    最近、普通に反映されていたので、気を抜いていました。

    言いたかったのは、、、
    私が書いた「暗い魂」と言うのは、ただの明暗の明るい暗いでは無いのです
    なぜなら、明るいのがいいわけでも無く、暗いのが良くないわけでもないと私は考えるからです。
    明るいお日様がさんさんとする日中、特に朝はとても清々しく、朝日が美しいなあと思うし、逆に夜の静かな闇も私は大好きです。
    私が書いた「暗い」とは嫉み、妬み、蔑視、差別、弱者への高圧な態度、決して向かい合わない、だからコンプレックスなどないと思っている、そういう人々の救いようのない(わたしからすると)魂のことであり、そういう観点から見れば、あくまでも私の観点ではありますが、Takeoさんの魂はちっとも暗くないのですね。
    明るくはないけれど、Takeoさんの持つ闇は、私が好きな夜の静寂な闇の暗さです。
    その闇がなければ、私が大好きな星や月も見れない、そういういい意味の暗さです。
    Takeoさんの闇には、闇の香りがあります。
    そして私が語った別の種類の暗さを持つ人々には、邪悪の臭いはしても香りはしません

    だから、takeoさん曰くのTakeo さんの「暗い魂」はこの場合当てはまらないのです。
    最初に書いたコメントとは若干展開が違いように思いますが、このまま送信します。
    念のため、今回はコピーしておきますね。

    Takeoさんの投稿に反応がないのでは無く、読んでる人は少なからずいると思いますし、それなりに考えさせられているとも思います。
    ただその自分が感じたことを自らが納得するように文章にするのが、結構難しいので、なかなか筆を取るまでに至らない。と言うのが現状ではないかと思います。
    私もその1人ですから 苦笑

    今は手術日の連絡を待っている状態で、家にはいますが、毎日栄養を取れ、疲れるなと言われてるので、だらだらした生活をしています。
    昨日いきなり具合が悪くなって、自分でもびっくりしましたが、今日は落ち着いており元気です。
    あれは一体なんだったんだろうと不思議にさえ思います。
    健康が何よりだと改めて見に染みています。

    こちらはすっかり秋ですよ
    Takeoさん、良い一日をお過ごしくださいね

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、Junkoさん。

      体調が安定しない中、何度もコメントを書かせてしまって申し訳ありません。
      このパソコンも持ち主に似て、きわめて気分屋なのでしょう。
      じっくり考えて書いた文章が消えちゃったりすると落ち込みますよね。
      幸いわたしはコメントに関して言えば、長いコメントを書いたことも、書いたコメントが届かなかったということも経験していませんが。

      ここではみなさん(といっても3人ですが)から長文のコメントを頂き、わたしも長い返事を書くのですが、それが反映されないとヒッチコックの『めまい』の転落のシーンのような気持ちになりますね(苦笑)

      ご面倒でも、こちらに反映されるまでは、書いたもののコピーを保存しておいてください。2度目に書いた方がまとまっていていい、という場合も少なくありませんが、やはりわたしは勢いに任せて書いたものの方を読みたいので(笑)

      そうですか、「香りのある闇」などと言われると、「誰のこと?」と言いたくなります。Junkoさんの言葉通りに受け取ると、自分の書いたもの、或いはこのブログ全体
      に対する見方や評価が書いてる本人と、それを見ているJunkoさんとでは随分ギャップがあるんだなぁと感じます。
      そもそも今の時代に「いい意味での暗さ」などという表現が通じるかどうかさえ疑問です。今はもう明るい方へと誰もが駆けてゆき、「暗さ」は暗いというだけで、敬遠されるような気がします。
      とにかくお褒めにあずかり光栄です。これからも「香気ある闇」に磨きをかけていきたいと思います(笑)

      コメントはみな短く相槌を打つことに慣れているので、Junkoさんたちのように、わたしの文章から刺激を受けて自分が感じたこと、考えたことを、言葉にして長く展開してゆくということに慣れていないのかもしれませんね。

      病気がどの程度なのかわかりませんが、十分に栄養と休養を取ってのんびりしていてください。気の利いたお見舞いの言葉が言えなくて・・・

      東京はまだ残暑の名残で蝉が鳴いたりしています。
      早く涼しくなってほしいものです。

      コメントをありがとうございました。

      くれぐれもお大事に。

      削除
  7. こんばんは。

    ここで、Junkoさんが言っていること、何となくわかりますよ。
    「笑い」とは「表面的な笑顔」のことではないと思います。
    不器用で、「笑顔」を作るのが苦手な人の仏頂面は、時には「笑い」です。

    いっぽうで、ここで語られているような人たちは、果たして笑っているといえるでしょうか?
    おそらく、彼らは「笑っているふり」をしているだけだと思います。

    なぜかといえば、笑っていないと「不安」だからです。
    笑っていないと、自分が幸福だといっていないと、自分が優秀だと信じていないと、彼らには耐えられないのです。

    なぜなら、「不安」だからです。

    人間は生まれた瞬間から、「生きること」とか「存在とは」とか「宇宙の根源」とかと言った、「決して答えの得られない問い」を、常に突き付けられて生活しています。
    だから、すべての人が、根本的に「不安」な状態にあると思います。

    おそらく「生誕の災厄」とはそういうようなことだと思います。

    その「逃れられない不安」に対する対処の仕方が、ある人は『考えたってしょうがない』であり、ある人は『考えて考えて考え抜く』であり、また、ある人は『誰かを犠牲者にして自分のプライドを保つ』であるということです。

    この最後のタイプが、ここで語られている人たちだと思います。

    だから、彼らは「笑顔のふり」はできますが、「不安」が消えてなくなるわけではありません。
    そして、その「不安」が「見て見ないふり=笑顔のふり」をし続けることで、実を言うと、むしろ、増幅されてしまうということだと思います。

    「腐ったもの」を放置すれば、周りのものも腐っていきます。
    それと同じで、「不安」も放置すれば、広がっていくんだと思いますよ。
    「実際の不安」が増えるというよりも、「バーチャルな不安」が巨大化してしまうんでしょうね。

    もちろん、ほかの人たちの場合も、「不安」が解消されることはありませんが、そちらの人たちの中では「不安」が必要以上に増殖することは無いと思います。
    なぜなら、いつも「不安」を見て、感じているからですね。
    だから、気づかないうちに増殖していくことは無いということです。
    (もともと、これ以上ないくらいの「不安」なので、本当には増えませんから)

    これは、Junkoさんがおっしゃっているように、「理性」や「思考」の段階で起きていることではなく、もっと根源的な人間の感覚において起きてくることだと思います。
    そして、そういうことは、意外なほどの法則性があって、逃れられる人はほとんどいないような気がします。

    そういう思考に陥った人は、死ぬ時までに必ず、何らかの形で「自分の不安」に向き合うことに成ると思います。

    しかし、そこで、常に恐れて「見ないようにしてきた不安」と向き合うのは、「いつも見慣れている不安」に向き合うことと比べて、非常に大きな苦痛を伴うことに成るんだと思います。
    つまり、彼らの中で自己のアイデンティティーが崩壊してしまうということです。

    これを、死ぬ間際に成って体験することを、どう考えるのか?ということですね。

    ぼくは、勘弁してほしいので、そちらにはいきません。

    まぁ、その方がマシだと思う方は『どうぞ、どうぞ』と思います。


    では、また。

    Junkoさん、お体お大事に。

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、ふたつさん。

      みなさんご存知のように、このブログには、日本のブログに普通にあるような「最新のコメント」を表示する機能がありません。そんななかでよくJunkoさんのコメントを見つけたなぁと驚いています。


      <人間は生まれた瞬間から、「生きること」とか「存在とは」とか「宇宙の根源」とかと言った、「決して答えの得られない問い」を、常に突き付けられて生活しています。
      だから、すべての人が、根本的に「不安」な状態にあると思います。>

      これにはまったく同感です。だからこそ人は文学や哲学の支えが必要なのだと。



      底彦さんは、過去に自分に浴びせかけられた罵倒、人格を否定する言葉が時折フラッシュバックすると仰っています。
      そのような「いわれなき」中傷に対して、自分の内面で反証を行う、そして「故に彼の暴言は事実無根である」という結論に=つまり「正解」に至るのであれば「認知行動療法」は有効だと思います。

      底彦さんの苦しみとは比較になりませんが、わたしもこの夏は、ネット上ではありますが、かなりの傷を負いました。まだ日は浅いですが、それこそ、それらの言葉がフラッシュバックしてきて、わたしに自己の存在を否定させます。

      さて、底彦さんの場合には、いわれなき暴言から自らを解放するために、つまり「根拠のない、単に悪意以外の何ものでもない言葉の暴力」を「認知行動療法」の方法によって解決することをわたしは全面的に肯定します。

      けれども、ではわたしと底彦さんを同様に扱うことができるか?という大きな疑問があります。
      つまり、わたしを傷つけた言葉たちが、本当に「いわれなき悪意」であるのか?それとも、半分くらいは真実を突いているのではないかという判断が、わたしにはつかないのです。わたしの心の中にはいつも自己否定の感情が横たわっています。ですから、彼/彼女の言ったことが事実無根であるという確信がどうしても持てないのです。「図星を言われたから傷ついてるんじゃないか?だとすれば先方に非はないはずだ」と。そこでわたしが底彦さんに対しては全肯定する「認知行動療法」が、自分にとっては、「自分に都合の悪いことから目を背けているだけじゃないか?」という「懐疑」に結びつくのです。

      ここは繰り返し強調しておきたいのですが、わたしは「認知行動療法」というものを丸ごと否定しているわけではありません。もし底彦さんがそれによって、少しでも、濡れ衣を脱ぎ捨てることができるなら、それは成功だし、「いいこと」なのです。

      一方で、わたしはどこかで、言われるだけのものを持っているのではないか?という考えから抜け出せません。そしてそこから抜け出すための認知行動療法を、どうしても自己欺瞞ではないかと思ってしまうのです。

      わたしは過去、人から肯定的に受け容れられた経験をほとんど持ちません。
      だから・・・かどうかわかりませんが、時々心の中で自分を罵り、罵倒したい衝動に駆られます。手首に刃物を突き立てる代わりに。

      上手くまとまりませんが、異常のような心の在り方から、わたしは先にJunkoさんに、

      <「魂が病んでいる」「魂の廃墟」そういう点では、わたしは誰よりも、その形容に当てはまる存在かもしれません。>
      と言ったのです。

      底彦さんの認知行動療法を全面的に支持するわたしは、また、「いじめられる側にも責任がある」という発想を、最も忌み嫌う者でもあります。

      それでも、自分を悪くいう者の発言に対してだけは、否定しきれないものを抱えているのです。「否定していいのか?」「否定できるのか?」という感情から抜け出せないのです。



      削除
  8. Ciao Takeoさん
    そもそも今の時代に「いい意味での暗さ」などという表現が通じるかどうかさえ疑問です。今はもう明るい方へと誰もが駆けて行き、暗さというだけで敬遠されるような気がします。

    苦笑 すでにご存知の通り、だからこそ「今の安っぽい時代」に合わせようなどという事はとっくにやめています。
    闇の良さをわからない、ただ明るきゃあいい、ただ楽しきゃあいいなどと考えるそういう人間、およびそう言う社会に期待するものは少なく、そしてそう言う人々と話す言語を私は持ちません。
    実際 私は光の当たっているところより、ぼんやりとでも陰のあるところにいた方が落ち着くんですね
    ピッカピカの日中が終わってお日様が翳り出すとほっとするのも多分そういう事です。
    真夜中のしんとした闇も大好きです。
    闇があるから光があり、光があるから闇がある。と言うのに、その一方 一見美味しそうなところだけを取ってそれを良しとできる人に興味はわきません。
    闇がなければ、私の好きなお月様も蛍も見ることができません
    ギラギラの光の元にあるものを見るより、闇の中に光るものを見る方が好きです。

    Takeoさんの暗さはね、香りもあるけど、つまり味わいと深みがあるのです
    だから惹かれる
    ここにいらっしゃる方々も同じです。
    だから皆さんの考えること、書かれることを読むのが楽しみなのです。

    ふたつさん
    いつもうんうん、なるほどそう言うか、、と相槌を打ちながら、読ませていただいています。
    書いていらっしゃる事は同意する事が多いですが、その表現の巧みさに感心します。

    私は、不安や恐怖とは知らないから起き、増幅するのだと思っています。
    つまり幽霊の正体見たり枯れ尾花 ってことです。
    勇気を出して見つめれば、ああ、そんな事か。で済むかもしれない事を一生、その存在だけ気にしながら、見ないふりして怯えて暮らすのはまっぴらです。
    自分の人生ですから、光も闇も好きなところも嫌いなところも面倒くさい事も、全て把握して生きたいと思います。
    怖がって生きたくはないので、嫌でも辛くても見ないわけにはいかないのですね
    私もそんな事で死ぬ間際にジタバタしたくないので、生きてるうちにしっかり見つめておこうと思います。
    ここにいらっしゃる方は、Takeoさんを始め、皆さん、見てそしてそれと向かい合い、そして苦しんだり考えたりする勇気と正直さを持っていらっしゃると感じます。
    だからこそ、このブログが心地いいのかもしれません
    Takeoさんにふたつさん
    ありがとうございます
    病気知らずで医者嫌いの私が、生まれて初めて向き合っている経験です。
    それでも、私が経験しなければいけないから起きてるのだと思いますから、嫌だ嫌だと嘆くことなく、この経験もしっかり味わおうと思っています。笑

    返信削除
    返信
    1. おはようございます。Junkoさん。

      何度もあちらこちらとコメントを送っていただきありがとうございましたそしてお手間を取らせました。

      頂いたコメントについて、今のわたしにはなんとお返事をしたらいいのかわかりません。

      けれども、コメントを読んでいると、本当のJunkoさんは、Junkoさんの本質的な性質は、どちらかというと、それこそ、ヒマワリのような感じの人なのではないかという気がします。

      きっと朝の光も、夏の太陽も美しいのでしょう。そして太陽に向かって、太陽があるからこそ花開く花たちも。

      わたしにはそれらを感じ取る力がありませんが、それらの美しさを否定するつもりはありません。

      手術がうまく行くことと健康の回復を心から祈ります。

      この「祈り」の意味も、ふたつさんに教えてもらいました。

      くれぐれもお大事に、そして改めてありがとうございました。

      削除
  9. こんばんは、ふたつさん、そしてこんばんはJunkoさん。

    上のコメントで、Junkoさんをヒマワリのような人だといったのは、皮肉でも何でもないのです。ただ、そうとしか言いようがなかった。

    わたしはたぶん「愚直」な人間です。「愚直」とは少なくともわたしにとっては決して無条件で「美徳」とは呼べないものです。つまり自分の気持ちを偽ることができないのです。
    それが純粋な好意から出た言葉であっても、自分自身そう感じることができなければ「うんうん」と合わせることができないのです。
    言うまでもありませんが、わたしが感じることと「正しいこと」とはまるで関係はありません。

    最新の投稿でのわたしと底彦さんののやり取りを読まれたでしょうか?

    アウシュヴィッツからの解放後、40年以上を経て、最後の最後には身を投げて死んだ。
    彼は極めて特殊な例だと言えるでしょうか?

    つまりいかに真摯で、いかに賢明な人間であっても、40年以上かかって彼の内面は徐々に崩壊していたのです。

    >「笑顔のふり」はできますが、「不安」が消えてなくなるわけではありません。

    これは正にプリーモのことを言ってはいないでしょうか?

    彼も、また石原吉郎も、片時も往時を忘れることはできなかった。目を背けようとしてもできなかった。そして最後に持ち堪えることが出来なくなってレーヴィは飛び降り、石原は酒浸りになったのです。

    >彼らの中で自己のアイデンティティーが崩壊してしまうということです。

    これは正に最晩年の石原吉郎の姿です。

    強制収容所の生き残りの前記二人とわたしを比べることなどできませんが、

    >「魂が病んでいる」「魂の廃墟」そういう点では、わたしは誰よりも、その形容に当てはまる存在かもしれません。

    とJunkoさんに言ったのは、このようなことを踏まえてのことだったのです。
    (底彦さんは「香りのある闇」という言葉を、とても美しい表現だと仰っていました)

    プリーモも、石原吉郎も、苦しみに身もだえしながら死んでゆきました。そしておそらくはわたしも。

    つまり上記のふたつさん、Junkoさんの一般論的な意見と、生涯それに取りつかれて逃れることができず、苦悶の裡に死んでいった人たちとの生の在り方の齟齬。

    そこにわたしはどうしても躓いてしまうのです。

    繰り返しますが、わたしは敢えて特殊な例を持ち出してお二人の意見にケチをつけているのではありません。もしそうであるなら、わたし自身もまた「極めて特殊な例」ということになります。

    ここで思い出すニーチェの言葉があります。
    「気を付けることだ、深淵を覗き込む者は、深淵もまたお前を覗き込んでいるということを」

    「それ」を見据える。「眼をそらさない」ということは、正に常に死神と向き合っていることに他なりません。こちらの魂は次第に衰弱し、死神の顔に微笑みが浮かぶ。

    わたしは怖いのです。目を離すといつとびかかってくるかわからない野獣から目を離すわけにはいかないのです。

    怖いから、目を離せないのです。

    返信削除
  10. 追伸

    プリーモ・レーヴィや石原吉郎のような者のことを「メデューサの顔を見た者」と呼びます。
    つまり「決して見てはいけないものを見てしまった者たち」には破滅が待つだけなのです。

    返信削除
  11. こんばんは。

    ここで、ぼくが言ったのは、まさに一般論です。
    それは、ここで、ぼくが言っているのは、主に、「彼ら」の方のことだからです。

    プリーモや石原さんのことを言ったのではなく、「彼ら」のことを言っています。
    「彼ら」は一般的な人たちだから、どうしても「一般論」に成ります。
    それは、「彼ら」を低く見て行っているのではなく、「同じ教科書」をもとにして話をすれば、必ず同じ話になってしまうということです。
    そして、現在は、日本中で「同じ教科書」を使っていますから、ほとんどの人が、同じ話をするように成ります。

    だから、「彼ら」のことを言えば、必ず「一般論」に成るわけです。

    それから、プリーモや石原さんが特殊だなんて思いませんよ。
    それは、前にTakeoさんが永山さんという方のことを書いていた時に、「あんな育ち方をして殺人犯に成らない人が居ることの方が不思議なくらいだ」というようなことを書いていたのと同じで、体験したことの結果として、むしろ当然といえば当然だと思います。


    ただし、プリーモの「~ふり」と「彼ら」の「~ふり」を同じにはできません。
    ぼくが言ったのは、「彼らの~ふり」であって、「プリーモの~ふり」ではありません。


    プリーモや石原さんが「死」を選択せざるを得なかったのは、『めんどくさかった』のでも『その方が都合がよかった』のでも『体裁を繕った』のでもなく、『真面目だった』からであり、『その真面目さや優しさから、生きるという行為のむごさに耐えられなくなった』からだと思います。

    死者からの言葉に苦しめられた分は、やはり、悲惨な体験からくるものだったでしょうが、おそらく、プリーモや石原さんのような感受性をもって生まれた人は、そういう体験がなくても、少なからず苦しんで生きていたんだと思います。

    彼らのような人は、「悲しみ」を人一倍増幅してしまうんでしょうね。
    たぶん、Takeoさんもそういうところはあると思いますよ。

    そういう「魂」を「魂の廃墟」と言うなら、それは「美しい廃墟」ということにしか成りません。
    「美しくない廃墟」という意味で言うならば、石原さんやプリーモではなく、「彼ら」の魂をこそ、「魂の廃墟」というべきだと思いますよ。


    それから、「メデューサの顔を見た者」は、恐怖によって石に成るといわれていたと思いますが(確かホラー映画で見たことがあったと思います)、それも「彼ら」とは違います。

    彼らは、「恐怖」を受け入れずに、生き続けるのですから。
    それを、「生ける化石」と思うか?それとも『楽しそうで、イイよね』と思うか?ということですね。

    ぼくには、どうしてもそれを『たのしそうだなぁ』と思えないということです。


    いっぽうで、「アルコール漬け」に成ることで、暗い輝きを増していく者があり、一方では、「楽しく人生を過ごすこと」で、明るく堕落していく者があります。


    『どちらを選ぶかは、完全に君の自由だ』ということですね。

    ぼくは、迷いませんよ。
    たかだか、死ぬだけですから。


    では、また。


    返信削除
    返信
    1. こんばんは。

      最初に書いたように、よくも悪くもわたしは「愚直」な人間です。

      ふたつさん、Junkoさんが、「目をそらさずに生きてゆきたい。死ぬときに嫌な思いをしたくないから」と仰っていたことに、どうしても、目をそらさずに生きることしかできなかった、片時も目をそらすことも出来ずに、苦しみの中で死んでいった人たちのことを想わずには居られませんでした。

      そして敢えて言うなら、心無い言葉を平気で言える人、平気で残酷な行いをできる人が、最後の最期に向き合わねければならない自己の魂、或いは良心などというものを持っているのかということにさえ、わたしは疑問を向けざるを得ません。
      それはどちらかというと、キリスト教的な考え方ではないかと思います。

      『罪と罰』のラスコーリニコフが向き合わなければならなかった「良心」。どうしても乗り越えることのできなかった「心の痛み」。そういう19世紀的な倫理観が、この現代でも、否、人というものが存在する限り消えることはないのでしょうか?

      ナチの高官や、日本のA級戦犯たちは良心の呵責を感じて死刑台に上ったり、近衛のように自殺したりしたのでしょうか?自分の犯した罪の重さに耐えられずに?
      仮にそうだとしても、その罪とは国民に対する罪ではなく、「天皇」に対する申し訳なさに他ならないでしょう。
      日本の天皇が諸外国では様々な「神」に相当します。慈愛・慈悲を説かなかった神がいるでしょうか?そして日本の神はどのような愛を説いたのでしょうか?

      一般論としても、わたし個人は、やはり最後に向き合わなければならない魂という概念を、少なくとも日本人に当てはめることには、やはり疑問を感じてしまうのです。

      削除
    2. こんにちは。
       
      Takeoさんが、言っていることこそ、むしろ、ぼくが言いたかったことだともいえます。

      たぶん、ぼくは、Takeoさんほども「彼ら」には「期待」していません。
      少なくとも、「彼らの良心に対する期待」はみじんもありませんよ。
      ただ、「彼ら」が「神」でないならば、「彼ら」が「完全」でないならば、『そうなるに違いない』といったことです。

      ぼくにとって、これは、宗教ではなく「自然法則」のようなものなんです。

      だから、逆らえる人は居ないし、逆らえば、その「反作用」が返ってくるということです。

      ぼくは、その時に、「彼ら」が落ちぶれたり、痛い目にあったりして、『ざまぁみろ』という、そういうことにも、一切「期待」していないんだと思います。

      おそらく、ぼくは、「彼ら」が落ちぶれても『かなしい』と思い、「彼ら」が笑いながら人を馬鹿にしていても、やはり、『かなしい』と思います。
      だから、「彼ら」に目に見えやすいところでの「因果応報」が起きることに興味がないんだと思います。
      どっちみち、「かなしい」ことに変わりはないので。

      つまり、ぼくの個人的な考え方においては、その「因果応報」は、すでに、、そして、常に、起きているということですね。


      これは、プリーモ・レーヴィのような人に起きることが『かなしい』のとは、方向が逆に成ります。
      プリーモのような人の中に「因果」は無く、したがって、その「応報」は、「因果」の出所に帰っていきます。
      その結果プリーモのところに「かなしみ」だけが残されます。
      だから、「彼らのかなしさ」は美しくないのに、「プリーモのかなしみ」は美しく見えるのだと思います。


      これもまた、宗教的な意味で言っているのではなく、ぼくに「自然の法則」のように見えることを言っているだけです。

      まぁ、それも「自然」を「神」と言っているだけだといわれてしまえば、そうなのかもしれませんが、自分では、「その自然」も絶対的なモノだとは考えていませんので、あくまで、宗教だとは思っていません。


      ぼくは、物理法則のようなものでも変わっていくものだと思っています。
      ただ、「そういうもののサイクル」と「人間のサイクル」とはスケールが合わないので、人間には確認できないと言うことですね。

      人間の話と、自然の在り様の話を一緒にしてはいけないのかもしれませんが、ぼくには、それらが一体化して見えてしまうので、致し方ないというようなところです。


      それでは、また。

      削除