2019年9月6日

「言葉」は騙り「沈黙」は語る…



Untitled, c.1970, Leon Levinstein. American (1910 - 1988)
Gelatin silver print; printed c.1970
『無題』レオン・レヴィンスタイン(1910-1988)
メディア:ゼラチン・シルバー・プリント(1970年前後)


この写真のどこに惹かれるか?大袈裟に言うなら「人間の姿」が写し出されているから。
わたしは「キャッシュレス社会」とかいう時代に生きていけるとは思えない。
更に言えば、中上哲夫の「今夜わたしは渋谷「千両」の節穴からわたしの世代の幻をみる」の第5連に羅列されている


暗い

われわれの時代の

性病者、精神病者、夢遊病者

酒精中毒者、薬物中毒者

虞犯者、犯罪者、犯罪予定者

漁色者、色情狂者、同性愛者、両性愛者

意志薄弱者、希望喪失者、人格喪失者

フェティシスト、トランスヴェスティスト・・・


このような人たちの存在しない世界にも。

書家の石川九楊は嘗てこう書いた

けふから ぼくらは泣かない / きのうまでのようにもう世界は / うつくしくもなくなったから……(吉本隆明「涙が涸れる」)
自堕落な日々を自責の念にかられつつ送り、いつ破滅してもおかしくないほどであった私の精神は、この詩に出逢って再起した。

 世界はすでに廃墟なのだ。

美しいものなど何もなく、守るべきものなどひとつもない。おそれ、おののき、たじろぐ必要はない。生きるとは、ただ廃墟に石を積むだけのことに過ぎないと解釈した私は、私でも生きられる、私でも生きていてもいいという希望が湧いた。以来「荒地」の詩人たちをはじめ、次々と詩集を求め、聖書の如くに読み、精神の過激と逆説を知った。

わたしの屍体を地に寝かすな/・・・・わたしの屍体は立棺の中におさめて/直立させよ/地上にはわれわれの墓がない/地上にはわれわれの屍体を入れる墓がない
(田村隆一「立棺」)

いまもしこの時代に、言葉を静かに受けとめるだけの真摯さと余裕が残っていれば、同じような生き難さに直面しているに違いない若者も、この時代が何もない廃墟であることに気付き、そこを生きる知恵を得ることができるのではないだろうか。神戸の少年Aのように人を殺すことなどない。すでに世界は死者の群れであり、拒絶されているのだから。オウムの青年たちのように焦って破壊する必要もない。すでに廃墟なのだから。
  (略)
高校時代、私は高村光太郎の「孤独の痛さに堪えきった人間同士の/黙って差し出す丈夫な手と手のつながりだ」(「孤独が何で珍しい」)を愛唱していた。だが大学時代に手にした詩集は、世界は廃墟、関係は拒絶、個は絶望から出発する以外になく、そこにのみ無限の希望があることを教えてくれた。
  (略)
いつの日か、十分な時間が与えられれば、静かに詩集を繙きたい。聖書は要らない。逆説の宝庫である詩集が最期の枕元に残る本のように思われる。
(下線Takeo)



けれどもわたしは石川九楊の言葉に同意することはできない。

何故なら人は変わる。
最晩年の吉本隆明は原発を容認した。
後に国家から「文化勲章」とやらを拝領した大岡信も「荒地」の同人ではなかったか?

若き日「犬猫も鳥も樹も好き人間は うかと好きとは言えず過ぎきて」と書き、
後に勲章を二つも受勲した女流歌人がいる。(齋藤史)

そして石川九楊自身は、やはり今もなお、世界は廃墟であり、そこには死者のみがいて、生きることは廃墟に石を積み重ねるだけのことだと思っているだろうか?

やはりどこか、根本的なところで、わたしと石川九楊との考え方、世界観は違う。否、
寧ろ「正反対」であり「対極的」といっていい。何故ならわたしは「美のない世界」に生きることはできない。そしてわたしは「廃墟」にこそ「美」を観る者だ。中上の列挙した者たちにこそ美を見出す者だ・・・


誰もが高野悦子のように「挫折」できるわけではない。
誰もがプリーモ・レーヴィのように、アウシュヴィッツの生き残りになれるわけではない。
誰もが石原吉郎のように、シベリアからの生還者になれるわけではない。
誰もがニーチェのように狂人になれるわけではない。
誰もが原民喜のようにヒロシマで被爆し生き残れるわけではない。

「絶望者」になれるのは皮肉にも選ばれた者たちだ。

わたしには若き日の吉本隆明の言った「美」が如何なるものかは知らない。

冒頭の一葉の写真、わたしにとっての「美」の一片だ。名も知れぬひとりの老人だ。
この人たちの姿こそが、わたしにとっての「詩」であり、「希望」なのだ。
わたしがダイアン・アーバスの写真を愛するのは、そこに写された人たちが、
吉本や田村、大岡、齋藤のような「成功者」とは無縁の者たちだからだ。

cf [語る男、黙す女 -ダイアン・アーバスと鬼海弘雄] 2015.11.5 


尚わたしはデジタル時代の写真の価値というものがわからない。

今日、わたしにとって最も優先されるべきは、「何が」「どのように」写されているかではなく、
「何で」写されたかなのだ。

これまではTumblrでも写真家と、タイトルと、撮影された年と場所のみを書き添えていたが、今後は上記のようにそれがデジタルであるかアナログであるかを明記したい。

「言葉」は騙り「沈黙」は語る…騙らざる者こそ詩人だ・・・
















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