2019年9月26日

ふたつさんの絵





 詩のような題=Poetic Title

              きっと きみは さみしいんだね



                  だから こんなに かがやいている せかいのなかで 
                  ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね

                  それとも もしかして 
                  ほんとは とっても うれしいのかい

                  だから こんな とじこめられた ばしょで
                  ひとり かがやきを ふりまき つづけているのかい

                  それとも・・・

                  いいえ

​                  わたしが ここに いるのは 
                  さみしいとか うれしいとか
                  そういうことでは ありません

                  ただ わたしは
                  どうしようもなく なやましくて
                  たえられないほど もどかしくて 
                  それで わたしの からだじゅうを
                  ぜつぼうてきな よろこびが くるおしく めぐっていて

                  だから わたしは 
                  ただ こころを しずめるために 
                  『ここに ひとりで さいているのです』

                  でも わたしのことを きにかけてくれて うれしい

                  ここに かくれて さいている わたしに
                  きづいてくれる ひとが いるなんて

                  わたしは そのことが ほんとうに とっても うれしい








                   詩のような題=Poetic Title

                  『もしも はなに なれたら』


              たいように せを むけて はしりだそう



                  その ぎゃっこうの なかで 
                  せっかく さいた あざやかな いろを 
                  うしなって しまうとしても

                  もしも はなに なれたら

                  つきあかりに てらされよう

                  その あおじろい ひかりに
                  いま はなひらいた ばかりの みずみずしさを
                  すいとられて しまうとしても


                  もしも はなに なれたら

                  よろこびに みちて おどるように はしりつづけよう

                  こんな くらやみの かたすみに 
                  この はなびらの いろで すこしだけでも 
                  あかみを うつすことが できたなら
                  きっと それは はなさくことの よろこびに ちがいない

                  だから もしも ぼくが はなに なれたら

                  そんなふうに さいてみたいと 
                  ひそかに そう おもっているのです





                 詩のような題=Poetic Title


                       この さびついてしまった ふうけいを みてくれ
                       うみも そらも じめんも 
                          うずを まきながら 
                       ながれこんでいる ものも
                       すべての ものが さびついてしまっている

                      これを ふうけいと いうだろうか

                      こんな ところには
                      ぜったいに いきたくない

                      でも えの なかだったら 
                     『いってみたいと おもう ばしょ』








詩のような題=Poetic Title

『ほんとうの わたしは』

                                            
                          わたしの なかの わたしは

                          わたしの なかに あって
                          そのなかでも いちばん わたしで ある わたしは

                          こんな すがたを しています

                          なんねんも かけて 
                          ようやく みつけだしました

                          それは のぞんでいる すがたでは なかったけれど

                          それは 
                          こんなふうに からまりあって
                          こんなふうに うすきみわるくて 
                          こんなふうに さみしそうな すがたで あったのだけれど

                          それが
                          わたしの こころの ちゅうしんで
                          ひとり ぽつんと たっているのを みつけだした そのときから
                          わたしは いっしゅんたりとも めを はなさずに
                          それを みつめつづけて いるのです

                          きっと もう 
                          にどと そこから めを はなすことは ないでしょう

                          だって わたしは 

                          すべてのものを それを とおして みてきたのですから




上記の絵はすべてこのブログの友人であるふたつさんの作品です。

彼の他の作品は

壁の上の幻想

Naka  Futatu


の3つのギャラリーで見ることができます。

今回はわたしが個人的に好きな作品を選びました。

みなさまにもお楽しみいただければ、そしてなにかを感じて頂ければ幸いです。

もしひとりでもこれらの絵を気に入ってくれる方がいたら、それはわたしにとっても、
大きな喜びです。

感想をお聞かせいただければ幸いです。









20 件のコメント:

  1. こんばんは。

    どうやら、アップできたようですね。
    どうも、パソコンのことは苦手で、ぼくにはよくわかりませんでしたが、もしも、お手数おかけしたならば、恐縮です。

    でも、どうであっても、自分の絵が自分以外の人の手で、紹介されているのを見たのは、はじめてなので、恥ずかしいですが(特にタイトルが)、うれしいです。

    どうも、ありがとうございました。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ぼく自身が、今、一番気に入っている絵も入っていて、とてもうれしかった!

    では、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      あのギャラリーでは、絵や文字が浮かび上がってくるようになっているでしょう。
      ですから、絵の方はともかく、詩をUPするのに戸惑いました。
      きちんと行が揃っていない部分がありますが、ご理解ください。

      底彦さんとのやり取りの中でも書きましたが、絵、作品共に、一番上と一番下が好きです。これだけ、というわけではありませんが、あまりごたごた貼りつけても全体の印象が薄れる可能性もあると思い、特に気に入った作品のみをセレクトしました。

      素敵な絵です。

      こちらこそ、どうもありがとうございました。^^

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    2. こんばんは。

      ほんとうに、ありがとうございました。
      それしか、いえません。

      それでは、また。

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    3. いえいえ、こちらこそ。

      ここはふたつさんのページだと思って、ご自由に自作についてでも、わたしの意見についてでも、ご自由に書いてください。

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    4. 追記

      ひとつだけ、ふたつさんに伝えておきたいのは、実際にふたつさんの絵を拝見するまでは、「あまり好きだと感じられなければ絵を投稿することはやめて、リンクの紹介にとどめよう」と考えていたということを白状します。

      そして絵も詩も、載せて皆に紹介するに値すると感じたから掲載しました。

      自分の為です。




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  2. Ciao Takeoさん
    そっかー、、ふたつさんってこういう絵を描かれるのか、、と第1印象はそれでした。
    Kandinskyの絵、好きなんですけど、彼の展覧会に行った時、この人の目にはまるで顕微鏡を覗いたように、全てがこういう風に見えてるのかーとつくづく感じ入ったその記憶と重なりました。
    同じものを見ていながら、それが視神経を通して、脳の映像に全く違う風に映っている。という現象、
    そういう事があると言うのは理解できますが、なんとも不思議で、彼らの視神経を除いてみたい気分になります。
    これらの絵を描いている時のふたつさんのムード、一体どういうムードなんだろうと考え、そうしたらふたつさんが実在する人として、数歩遠ざかってしまった気にもなりました。
    うまく言い表せないのですが、ふたつさんの書き言葉は理解でき、むしろ同意さえできるのに、この絵を描くふたつさんの描き言葉が私には理解しきれない。のではないかと思ったからです。
    多分私が見て、認識するその表層のさらにもっと奥深いところ、私の意識が多分届かないような深みを見ていらっしゃるように感じます。
    ですから、この場合、私の単なる好き嫌いをいうしか術がなく、私は「もしもはなになれたら」が好きです。「本当の私」も好きです。
    それからふたつさんのギャラリーの「ゆめがあれば」「ほんせいにめざめよ」も好きです。
    「もしもはなになれたら」には何か希望のようなものを感じるのです
    やっぱり私は希望の光みたいなものを発してくれる作品が好きです。
    最後に、気づいたのですが
    コメントを書くのに、絵を何度も何度も見ていたら、ふたつさんの作品って、見ても見ても見飽きないどころか、見れば見るほどなんだか絵に引き込まれていくような感じさえしてきました。
    不思議な魅力と言うか、吸引力のある絵だと感じます。
    私は好きです。ふたつさんの作品。
    ちなみに
    私の病が発覚してから、お世話をしてくれている元彼とたくさんの時間を一緒に過ごしているのですが、いろいろな、むしろ反世俗的な、目に見えない事、意識のこと、精神世界のこと、木々が伝える波動の事。なんかの話をしていますが、その話の内容とこの作品たちになにか通じるものがあるように思います。最近、シンクロニシティが多いのです。

    ふたつさんの作品を見せてくださってありがとうございました。
    ふたつさんが数歩遠ざかったような、、と先に書きましたが、この作品を見せてもらったお陰で多分次回からふたつさんのコメントをもう少し深読み出来るのじゃあないかと言う気にもなっています。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      「カンジンスキーには世界が彼の絵のように見えているのでは」は面白い発想ですね。彼のまだアブストラクト以前の印象派的な作品をご覧になったことはありますか?すごい厚塗りでね。風景画ですがとても迫力があります。

      ルオーなどもそうですが、油絵の具がキャンバスの上に、ボテっと「乗せられている」「置かれている」「積み上げられている」絵を見た時の鳥肌の立つような生理的な快感がわたしは好きです。
      以前に紹介したフランク・アウエルバッハの絵などもそんな感じですよね。彼の絵も是非実物を見てみたいですね。

      ふたつさんの絵が、見るほどに味が出てくるというのはわたしも感じました。

      もちろん絵画は単なるマテリアルではありませんが、わたしが絵の具の厚塗りというマチエール=触感に感応したように、絵をあまりに精神的な位置から見ることはわたしはしません。

      Junkoさんの言われていることとはズレているので、これはわたし個人の趣味・感性の話です。

      これほど「マテリアル・ワールド」を嫌いながら、わたしは同じように、俗に言う「スピリチュアル」なものに強い抵抗があります。といってもじゃあスピリチュアルなものとはどういうものかということも、よくわからないのです。それほどまでに関心が無いということです。だから基本的に「宗教」というものとも一線を画しています。

      まあこれ以上余計なことを言うのは止めておきましょう・・・

      コメントがちゃんと入ったようでよかったです。

      早速の反応をありがとうございました。

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    2. ー追記ー

      ひとつ具体的な例を挙げておきましょう。
      Junkoさんがお好きだと仰っていた「ほんせいにめざめよ」

      確かに詩の中で言われていることにはほぼ同感ですが、

      口調がわたしにはダメです「めざめよ」も「みきわめよ」といった物言いをどうしても受け付けません。

      上記に掲載した絵、そして詩が好きなことは確かですが、ふたつさんの作品はわたしにとって、そういう意味で、一歩ずれるとわたしの苦手な領域に入り込む可能性を秘めているという点もまた事実なのです。

      そこがふたつさんの絵に対するJunkoさんとわたしの差であると思います。

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    3. こんばんは。

      Takeoさんにも、かきましたが、Junkoさんにも同じことしか言えません。

      本当にありがとうございました。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      一応、ぼくなりに説明しますと、ぼくの絵は、「ぼくが見た世界」を描いているわけではないんです。
      ぼくには、そんな独特な感覚や感性はありませんから、ごく普通に赤い花は赤い花にしか見えませんし、人の顔は人の顔にしか見えません。
      だから、ぼくが居るのも、見ているのも、普通の場所です。
      ただ、それは描きません。

      『わたしには、世界がこんな風に見えているんですよ』

      これは、「嘘」が入っている場合が多いような気がします。
      他人のことを、とやかく言うのはよくないのかもしれませんが、本当に「絵の世界」が見えているならば、「その絵を描く意味」は薄くなってしまうような気もします。

      なぜなら、その「絵の中の世界」が、その人にとっての「現実の世界」であるということですから、それは、「その人が創作した世界」ではなく、「そこにあった世界」を写し取っただけだということに成ってしまうからです。
      これを、「写実」というわけですが、「写実」には「写実」の価値があるとは思いますが、その「写実」を「自分の独特な感性でとらえた世界」だといってしまえば、そこに「小さい嘘」が入って来てしまうわけです。

      ぼくにとっては、「意味を創り出すこと」が創作することの根拠なんですね。
      だから、ぼくの絵は「自分に見えている世界」ではなく、「ぼく自身が見たこともない世界」を創り出したいという気持ちで描いています。

      『そんなことできるのかい?』
      と言われるかもしれませんが、ぼくの場合は、そのために10倍でも100倍でも時間がかかってもいいと思っています。

      説明するのが難しいですが、ぼくの場合は、なんにもない白紙の状態にできるだけ近いところから始めて、「絵の中」で「異・現実の世界」を創っていくという感じでやっています。

      だから、描き初めのうちは何も描けません。
      ほとんど、意味のない色を塗り重ねているような状態で、多くの場合は、初めのうちに塗った色など、ほとんど影響を残さないくらいに消えてしまします。

      なぜ、そんなことをするのか?といえば、そういう作業の中から偶然に現れてくる「色」や「形」をヒントにして、それを糸口に絵を描いていくしかないからなんです。
      「偶然」というのは、「意図」や「意識」を、ほとんど含みませんから、「嘘」が入り込む可能性が低くなります。
      それでいて、「自分の癖」や「自分の中で消そうとしても消せない部分」だけは、いやというほど出て来るんです。

      つまり、自分が人に見せたくない「ヘタさ」とか「「カッコウ悪さ」とか「弱さ」みたいなところだけが残って、それとは逆に、自分が自慢したいような「上手さ」や「上品さ」や「センスの良さ」は出したくても出せない。

      それで、「嘘」が減らせるわけですね。

      こういうのが、いわゆる「抽象画」のモトに成っている部分だと思います。
      おそらく、Junkoさんが『ぼくの描き言葉が理解できない』と感じたのは、この「偶然性」の部分だと思いますよ。
      だから、それは、ぼくのやったこととも言い切れないんですね。

      ぼくは、この部分があるので、『自分の作品が好きだ』と言えるように成りました。
      (そうしたら、人から好きだと言われなくなりました)
      自分が描いたという実感がほとんどないんです。
      でも、純粋に作業したのは自分ですから、、ぼくは、下働きのような存在です。
      だから、「自画自賛」や「自慢」とは思えないわけですね。


      「抽象画」というのは、一般的には、「形」を使わずに描くことを言うことが多いと思います。
      また、初期の抽象画においては、現実の形を崩していくという考え方が多かったのかもしれません。
      カンディンスキーは、その中では、もっとも「現実」を使わずに、それでいて「立体的な形」を使って、描いた人じゃないかと思います。
      同時代のフランク・ステラという人の立体作品(ブラック・バード・シリーズなど)もこれに近い感じを受けます。

      ぼくは、彼らの作品をほとんど直に見たことはありませんので、大したことはわかりませんが(ほとんど美術館に行かないので)、おそらく、彼らは「ナニでもないナニカ」を創り出そうとしていたと思います。

      ぼくも、それと同じような方向ですが、少しだけ違うところは、その「ナニでもないナニカ」に「リアリティ」を与えようと思っていることだと思います。
      『幻想的であればあるほど、生々しく』と思っています。

      つまり、ぼくの絵は、出来上がったときに「ぼく自身も初めて出会う世界」を描いているわけなんです。
      だから、見た人が、最初のうちは違和感を感じるのは当然だと思います。

      初期の抽象表現においては、「リアリティ」はどちらかといえば排除するべきものとして扱われていたと思います。
      その後、「抽象表現」は「形」を敵視するように成り、「肉体」を失って、「純粋な精神性」だけを追い求めていきました。
      しかし、ぼくは、そこで「肉体が失われたこと」により、「精神の在りどころ」も失われてしまって、「芸術表現」が「亡霊」のように彷徨うことしかできなくなってしまったのではないか?という疑問から、このような「異・現実のリアリズム」を考えるように成りました。


      ところが、現在「抽象画」に対するイメージが固定観念に成ってしまっていますから、「抽象らしい抽象」は受け入れられますが、「具体性のある抽象」は「抽象」にも「具象」にも分類されなくなってしまって、けっきょく誰からも相手にされなくなってしまいます。

      以上、こんなのが、ぼくの現実的な現状です。

      だから、こちらで、TakeoさんJunkoさん、それから別のコメントで、底彦さんにまで、とりあえず嫌われなかったというのは、ぼくにしてみれば、奇跡的な出来事ですね。

      本当に、感謝の気持ちしかありません。

      Junkoさんが、どういうご病気かはわかりませんが、どうかお体お大事になさってください。
      一日も早く回復して、また感想お聞かせください。

      どうぞ、よろしく。


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    4. ふたつさんの仰っていること、ハッキリととまでは言えませんが、大体わかりますよ。
      それを改めて自分の言葉に置き換えることができるかどうかわかりませんが、何も突飛なことは言っていないと思います。

      >ぼくの絵は「自分に見えている世界」ではなく、「ぼく自身が見たこともない世界」を創り出したいという気持ちで描いています。

      わかる/わからない以前に、こういうスタンスで絵を描かれるというのはいいと思います。わたしは共感します。

      写実云々と言えば、写真というものが出始めた頃、ムンクは、「しかし、写真は夢を写せない」と言いました。言うまでもなく夢とは寝てみる夢のことです。幻と言ってもいい。
      ふたつさんの夢を生み出すのはふたつさんの意思ではありません。

      >「偶然」というのは、「意図」や「意識」を、ほとんど含みませんから、「嘘」が入り込む可能性が低くなります。
      それでいて、「自分の癖」や「自分の中で消そうとしても消せない部分」だけは、いやというほど出て来るんです。

      >つまり、自分が人に見せたくない「ヘタさ」とか「「カッコウ悪さ」とか「弱さ」みたいなところだけが残って、それとは逆に、自分が自慢したいような「上手さ」や「上品さ」や「センスの良さ」は出したくても出せない。

      うん。これはいいですね。

      >ぼくは、この部分があるので、『自分の作品が好きだ』と言えるように成りました。
      (そうしたら、人から好きだと言われなくなりました)
      自分が描いたという実感がほとんどないんです。
      でも、純粋に作業したのは自分ですから、、ぼくは、下働きのような存在です。
      だから、「自画自賛」や「自慢」とは思えないわけですね。

      この部分もよくわかります。

      「極力自意識を排除して、偶然性と深層心理に多くを負う」というようなかんじであるなら、抽象画というか、理念としてはシュールレアリズムに近いと感じました。
      しかしシュールレアリズムは抽象画ではありませんから、これもまた偶然の一致でしょう。とにかくふたつさんは独自の世界を観念の中だけではなく、作品として作り上げているわけですね。

      このコメントで言わんとしていることはよくわかりますし、共感します。

      広く・・・と言えるかどうかわかりませんが、これらの絵が好きだという人は決して少なくないと思います。

      こんなことをいうとみなの失笑を買いそうですが、このブログを飾るにふさわしい作品たちだと思っています^^

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    5. こんにちは。

      そうですね。
      こんな話が伝わるなんて、本当に稀なことだと思いますが、うれしいです。

      ぼくなりに、考えるところの「シュルレアリズム」との違いは、出来る限り「現実」を使わないという点です。

      「シュルレアリズム」は、おもに「夢の中の世界」を表現方法に取り入れています。
      だから、どうしても「現実的な部分」が現れてきます。
      そこに「現実:非現実」の対比を生み出すのが「シュルレアリズム」の特徴と言っていいと思います。
      たとえば、ダリの絵の中の、前に底彦さんが衝撃を受けたと言っておられた「内乱の予感」などは、「フィギュア」の部分については、かなり「異現実的」だと思いますが、「背景」はほぼ「現実的」です。
      (空は空で、大地は大地だという意味で)

      イブ・タンギーという人の絵なども非常に魅力的な絵ですが、やはり、「現実」と「非現実」の対比を使っています。

      あとは、描かれているものはほとんど「現実」だけなのに、その状況設定が『ありえないような~』というのも「シュルレアリズム」には多いと思います。


      それに対して、ぼくの絵は、そういう「現実」を出来るだけ使わないという方向です。
      だから、一般的に受け付けられにくいのかもしれません。

      ぼくの絵を、見てもらうと、背景がどんな所なのかわからないと思います。
      『深海のようだ』と感じることもできるし、『雲の中か?』と思う人も居るかもしれません。
      そして、背景の部分を「空」のようでもあり「壁」のようでもあると感じられるようにしているつもりです。
      (主に、この部分に「偶然性」と「果てしない時間」を使っています)

      あとは、描かれているものが「接地しているか?」それとも「浮遊しているか?」というところも、なるべく限定しないようにしています。


      といっても、実際には、そんなに難しいことを考えながら描いているわけではなく、けっきょく、頼るのは「偶然」ですから、そううまくいきませんけどね。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      あとは、「タイトル」についてですが、あれは、はっきり言うと、とても恥ずかしいんです。
      なにせ、「詩」なんてほとんど読んだこともない人間が書いているわけで、どうしても、考えても言葉が出てこない場合の方が多く、どちらかといえば、『ポッ』と出てきた言葉を使ってしまうんですね。
      だから、Takeoさんにご指摘いただいたことは、いつも自分でも感じているんですが、ぼくの場合は、「美しい言葉」や「絞り出された言葉」を使うことは、ある程度諦めています。
      まず、そういう言葉は出てきませんね。
      (というか、出てきても自分がそんな言葉を使ってはいけないような気がしてしまうのかもしれない)
      だから、本気で独立した「詩」を書こうとは思っていません。
      あくまで、「タイトル」として作っています。
      だから、『大目に見ろ』ということを、言ってはいけないとも思っているんですが、やっぱり、「タイトル」に関しては、かなり甘くなってしまっていると思います。

      でも、言い訳かもしれませんが、「タイトル」は、そのぐらいでも丁度いいようなところもあるんじゃないか?という逃げ場はあってもいいように思っています。
      「詩」としての完成度を求めてしまうと、それを凌駕するような絵を描かなければならなくなってしまうような気がして、『私、無理です』と成りそうなので。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      とにかく、ぼくにしてみれば、皆さんに嫌われなかったことだけでも、自己ベスト更新です。


      みなさん、本当に、ありがとうございました。

      では、また。

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    6. なるほど。

      シュールレアリズムとの違いをそのように考えておられるんですね。
      でも作品として、ちゃんと鑑賞に値するものだと思うので、他のスタイルとの対比はあまり意味がないかもしれませんね。無理やり類似を求めるとすれば、その静謐さという点で、デ・キリコかな。画面から伝わる静けさという点で。

      タイトルに関しては微妙なところですね。特に4番目(最後の)絵に関しては、あの詩と画を切り離して考えることは最早困難です。あの絵に関しては、絵と、詩が両輪のようにわたしは見ています。個人的には最後の絵は、詩と一体だと感じています。

      といっても、他の絵はタイトルと関係なく見られるので、絵と詩がうまくマッチしている『ほんとうのわたしは』と、逆にタイトルに抵抗を感じてしまう『ほんせいにめざめよ』はまあ稀な例かもしれません。
      昨日も言いましたが『ほんせいにめざめよ』も内容自体は共感できるのですがね。

      これらの絵が「嫌われる」という感覚がよくわかりませんが。

      「誰からも好かれないわたし」ということをいつも感じているわたしには、嫌われなかったことが奇蹟のようだと言われるふたつさんの想いも分からなくはないのです。



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    7. こんばんは。

      もう一つだけ、付け加えるのを忘れていました。

      「ポエティック・タイトル」は、一応「入れ替え可能な題」というかたちに成っています。
      実際に、入れ替えた例もあります。

      でも、ご指摘のように、『ほんとうの わたしは』などは、もう自分でも「タイトル」と「絵」が一体化してしまっていて、切り離して考えることは無いと思っています。

      「タイトル」は必ずしも「この絵」に対して、「こういうタイトル」をつけようと思って、考えているとは限りません。
      それぞれ、出来ていた「絵」と「タイトル」を組み合わせることもありますし、「絵」に対して「タイトル」をつけている場合もあります。
      今のところ、「出来ているタイトル」に合わせて「絵」を描いた例は一点だけです。

      やはり、その絵に対してつけたタイトルは、一体化している場合が多いですね。
      (『ほんとうの わたしは』も『もしも はなに なれたら』もそうです)

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      あと、もう一つだけ、忘れていましたが、これらの絵は、まだ本当の完成とは言えません。
      実は、ぼくは「額」の制作も考えていて、今のところ「二重の額」=「内額と外額」という構想を持っているんですが、とてもとても、時間が足りなくて出来そうもありません。
      だから、ぼくの絵は、終生、未完成のままかも知れません。

      一つでもいいから、「額」まで納得のいくようなものが出来て、「完成した作品」を見たいと思っています。

      まったく、気が遠くなる話ですね。

      それでは、また。

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  3. Blueさん🎶こんにちは。
    ずいぶん日没が早くなりましたね。
    大好きな夏が終わって淋しい気分です。


    自転車で山奥に逃避してばかりいるわたしは、最近すっかり筋肉脳になってしまい、うまく言語化できないのですが、4枚目の絵をいたく気に入りました。今はうつむいて閉ざしているつぼみを温かく見守ってくれている安心感を、この絵の中に見つけたような気がしたからかな。早く咲けと急かされることもなく無理やり明るいところに連れていかれるわけでもなく。子宮の中で育ちつつある胎児のようにも見えます。

    見当違いでしたら申し訳ありません。わたしはこの絵に出会って幸せです。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。達者ですか?

      山奥に逃避か。いいなぁ。

      わたしもこの絵が一番好きです。それにはやはりタイトルでもある詩の力が大きいと思います。
      瀬里香さんのような独自の解釈はわたしには難しそうです。

      瀬里香さんの感想を聞いて、例えば外国の人が、この絵だけを見てどう感じるか、
      きっと詩が無くてもなにかを感じ取れるのだろうと思いました。

      絵から離れてふたつさんには申し訳ありませんが、

      わたしが一番知りたいのは、「山奥」のような、人はまばらに住んでいても、まったく開発されていないような場所がまだ日本にあるのかということ。

      そして仮にこれまで10年ほど前に誰かが訪れただけのような、渓谷があったとしても、今の人間は「文明」を連れて何処へでも行きますからね。
      つまりそこにコンビニが無くても、ビルが無くても、今人間のいるところ(行くところ)全くの自然だけということがどうしても考えられないのです。

      絵の感想をありがとう。^^

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    2. Takeoさん、瀬里香さんこんばんは。

      瀬里香さんまで、絵を見てくれているとは思いませんでした。
      また、気の利いたお言葉をいただいてありがとうございました。

      今まで、けっこう、『こういう絵はわかりません』とか『なんでこんなものを描くんですか?』という反応ばかりもらってきたので、こちらで、皆さんに絵を見てもらって、それぞれのお気持ちを聞かせていただいたことは、とてもうれしかったです。

      何よりも、自分でも一番気に入っている絵がこの4枚目の絵なので、それがうれしかったなぁ。

      どうも、ありがとうございました。
       
      では、また。

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    3. こんばんは、ふたつさん。

      単純に、いままでふたつさんはどういう人たちに絵を見せてきたのか?それが不思議です(苦笑)

      わたしも言いましたよね。ふたつさんの絵を観て、それほど気に入らなかったら、ここにポストするのは止めようと考えていた、と。

      底彦さんも、Junkoさんも瀬里香さんも、決して無駄なお世辞を言う人でないことはふたつさんもよくご存じですよね。

      で、最初の疑問に戻るわけです。

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    4. こんばんは。

      いや、お世辞だとはまったく思いませんでしたよ。
      だからこそ、うれしかったんだと思いますしね。


      ぼくが、絵を見てもらった人というのは、一人を除けば、ただ単に「そこにいた人たち」です。
      前も書きましたが、6~7人くらいしか直に見せていませんが、ほとんどが、そこに偶然合わせた人で、『見てもいいよ』と言ってくれた人たちです。

      その中で、お世辞じゃないなと思える感じで気に入ってもらえたのは一人だけだったと思います。

      その一人は、たまたま家に修繕に入ってくれた大工さんで、どう見ても美術館に足しげく通っているような感じの人じゃなくて(いや、偏見かもしれませんけど、その人の雰囲気ですね)、根っからの職人さん風の方でした。

      ほかの方たちも、多かれ少なかれ、そういう方たちですが、ぼくのこと自体は嫌われたりしていなかったと思いますが(だから、絵を見たいと言ってくれたと思います)、絵の方は、どうも評判が悪くて、中には『ウフフ、この絵は家に飾りたくないわねぇ』と言われてしまったこともありました。

      何がショックかというと、まったく悪気がないということですね。
      何の気なしに、そんな風に言われてしまうと、『あはは、そうですよね。』というしかなくて、後から非常に悲しい気持ちに成るわけです。

      まぁ、そんな感じですから、当然、ブログの方でも、まったく無反応な状態で、常に絵を一枚だけ投稿しているんですが、絵をブログに投降するように成ってから、これまで、約二年ほど何一つ反応はありませんでした。

      ブログを始めてから三年半ほどは、画像を投稿していなかったんですが、その間には、何度も、『てめぇ、この野郎、エラそうなこと言いやがって、絵を描いてるなんて嘘だろ、描てるならどうして絵をアップしてないんだよ・・・等々』というようなことを言われたのに、いざ、絵を投稿してみたら、『なんだ、ホントに描いてたんですね』なんて、一度も、誰からも言われませんね。
      (まぁ、ほかのことも言われないんですけど)

      とにかく、この無反応というのが、けっこうこたえますね。
      だから、ここでの反応は、本当にありがたかったんですね。

      ただ、ぼく自身は、特に美術に関心がある人とか、日常的に美術館によく行く人とか、そういった人たちよりは、むしろ、ごく普通の人たち、つまり、美術に全く関心がないわけではないが、そんなことよりも、「家族」や「友人」のことの方がはるかに大切だと思っているような人たちですね、そういう人たちに、自分の絵を見てもらいたいという気持ちがあるんです。

      だから、ある程度までは、嫌われても仕方ないよなと思っています。
      やっぱり、わかりやすい絵ではないのかもしれませんね。
      だから、美術を見慣れていない人には抵抗があるのかもしれません。

      でも、専門家に見せれば好評か?というと、そんなことは無いと思いますので、どうやら、そちらにも期待は薄いですね。
      (まぁ、そういう方々には、評価されたくもないですが)

      ぼくとしては、むしろ、どこに持っていけば、普通に絵として扱ってもらえて、見てもらえるのか?誰かに教えてもらいたいくらいですよ。
      (いや、ホントに)

      なんか、愚痴っぽくなってしまいましたね。
      どうもすいません。

      それでは、また。

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    5. こんばんは。

      確かにおっしゃることわかります。美術よりももっと生身の人間との関係を重視するような人。おそらくヨーロッパなどでは、日常生活とアートが地続きなので、ふたつさんの仰っているような人たちが、カフェに行く感覚で美術館に足を運ぶんじゃないかと思います。それに「抽象画」と聞いただけで拒否反応を起こす人も少なくないと思います。
      やっぱり人間は目の前にあるものを「これは何か?」わかろうとする本能的な働きがあるのだと思います。
      ですから「わからないけど好き」というのは普通の人間の感覚として矛盾してるんですね。

      ただ、個人的な感想というか意見を言わせてもらえば、これまでふたつさんの絵を観た人の数が絶対的に少なすぎるということがあると思います。

      名のある抽象表現主義の画家の絵を、駅前の人ランダムに100人に見せてみれば結果は明らかです。9割以上は「あ、全然わかんない!」というはずです。
      キリコやダリなどは、わからないけど面白いという人は増えると思います。
      フランシス・ベーコンはダメでしょうが、バスキアなどは案外人気があるかもしれませんね。

      ふたつさんの絵は評価されないのではなく、まだ20人も見ていないということ。
      ですから、駅前で絵を展示するということを是非お勧めします。
      評価してくれる人がみな美術館に足繁く通っている人だとは思いません。

      この4枚のうち、一番人気があったのが4番目の絵ですが、他の3枚もいいと思います。

      わたしは4枚ほど、ご自分の好きな絵を駅前に並べてみて人々の反応を見ることが一番安上がりで、かつ一番正直な評価を知る方法だと思います。

      作品に関しては自信を持っていいと思います。好かれるという自身ではなく、絵として、美術作品としての水準を充たしている点で、です。

      また新作ができたらここで紹介させてもらいます。

      愚痴でもボヤキでも構いませんよ。このブログ自体が愚痴みたいなもんなんですから(苦笑)

      それからわたしは美術館には行かないですよ。


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  4. こんばんは。

    いや、重ね重ねありがたいことを言ってもらって、感謝いたします。

    ホーム・ページに新しくギャラリー4を作って、そちらに今描いている絵をのせています。
    未完成ですが、もしよかったら見てみてください。

    ぼくの場合、いつ完成するかは予測できませんし、けっこう途中でボツに成る絵も出てきてしまうので、その辺は何とも言えません。

    もしも、気に入った絵があれば、どれでも自由に使ってもらって構いません。


    それでは、また。

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