2019年9月25日

「殺・風景」


今から20年前、1999年に出版された鬼海弘雄の写真集『東京迷路ーTokyo Labyrinth』に3人が文章を寄せている。ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ、そして種村季弘、赤瀬川源平である。

アンジェイ・ワイダの序文を抜粋引用する。

キカイ・ヒロオの写真には抵抗しがたい強烈な詩情が溢れている。
現代の写真家の中で、彼ほど都市の生理を把握している人間を私は知らない。
人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物。これら、キカイが撮影したトーキョーの姿は、社会学的な背景は語らずとも、彼の詩的感性を雄弁に物語っている。
 あえて人間の姿を排除し、看板や洗濯物などの何気ない”モノ”を掬いとるという方法により、キカイの企みは鮮やかに強調されている。彼は、通行人や出来事をスナップするといった、よくある見え透いた技巧には関心を持たない。それよりも街角が持つ固有の”人格”に深い共感(シンパシー)を抱いているのだ。
 だからこそ、この一連の写真を見る者には、街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿が見えてくる。

この文章のタイトルは「街角のエクリチュール」。



「街角」と「街」は同じではない。「街角」とは、地図上の任意の一区画を切り取ったものではない。しかしこの文章を読むと、ワイダは、トウキョウという「街」或いは「都市」と、その内側でひっそりと息づいている「街角」という、いわば対極に位置するものを混同しているようにも読める。

「人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物。」確かに鬼海はそれらの建物を、この写真集に蒐めている。しかし本書の中で種村季弘が指摘しているように、「人の手によって建設させた人工物でありながら、有機物のごとく生成し老熟する建築物」がほとんど喪われてしまっているのが、1999年当時の東京という街であり都市である。

「街角が持つ固有の”人格”」── そう。「固有の人格」を持つのはあくまでも「街角」=「大きな街の小さな片隅」であって、街には、少なくとも東京という街には「固有の人格」という形容は当てはまらない。
「エクリチュール」を持つのも、やはり種村が言うように、鬼海が「拾い蒐めた」個々の建物であって、この街にエクリチュールはない。

「だからこそ、この一連の写真を見る者には、街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿が見えてくる。」

街に運命的に縛られながらも、人生を気高くかつ深刻に甘受している人々の姿・・・?

いったいどこの話をしているのか?



一方種村季弘は、鬼海が蒐集した建物たちを、東京に生きる百鬼夜行=付喪神(つくもがみ)だと評した。

種村は言う

まだ現役のつもりでいたのに、高度成長だの列島改造だのという異人さんがどやどや押しかけてきて60年代以前の平べったい東京の主役だった町並みは真っ白な高層ビルに押しのけられ、見る影もなく追い詰められ押しつぶされされた。ここ30年間見なれた、というより見飽きた風景である。だが押しつぶされそうになりながらもまだなんとか生き残っている。地上げの毒牙をよくぞ逃れ、戦後戦争の小野田さん横井さんとして、高層ビルのジャングルに深く静かに潜行し、あっぱれ無降伏・無転向の成果を上げた。

種村は一貫して、鬼海の写した建物たちをこのような戦後東京の「生存者」であり「妖怪変化」であるという。そして妖怪たち、付喪神たちが、このように魅力的なのは、超高速消費都市東京では、新しいものはあっという間に古び、廃品になり用済みになり消え去ってゆくというパラドクスのせいであるという。だから古くから生き永らえることのできた物だけが「付喪神」になり得るのだと。

しかしいずれにしてもこの鬼海弘雄の写真が写しだしているのはすべて前世紀のものばかりである。敗戦の年に生まれた建築家松山巌をして、種村季弘の死後、あまりの東京の変貌ぶりに、「種村さん、見ないでよかったよ」と言わしめたほどに、東京の姿はこの写真集が出版された時代から大きく変わった。

「あとがき」に鬼海弘雄は記す。

ある時ふと、ポートレイトが、単にその場その時の人の表情を捉えるだけではなく来し方や価値観など、内面性や人柄をも写すことができるなら、同じことが風景写真でもできるのではないかという思いがよぎった。人が暮らしている町角や路地を撮って日々の暮らしから漏れ出す”匂い”を写すことができるのではないか。

果たして、21世紀のトウキョウに「テクスチャー」や、「人格」や、「付喪神」、「暮しの匂い」 があるのだろうか?
今日、ポートレイトについて「単にその場その時の人の表情を捉えるだけではなく、来し方や価値観など、内面性や人柄をも写すことができる」と言いうるのだろうか?
そして風景写真について言うなら、種村季弘の言う、「生存者」や「付喪神」は未だ存在しているのだろうか?

フォン・ヤイゼル神父は私が日本に帰って数年後に亡くなったが、たとえば電車の窓から雑然とした町並みを眺めていて、よくひびく彼の声が東京の空にとどろきわたるような気のすることがある。こんな思想のない街に暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になってしまうぞ。

これは須賀敦子が松山巌の依頼に応じて、彼の著作『百年の棲家』の解説として認めた一文の結びである。

松山巌と同じ1945年に生まれた鬼海弘雄は『東京迷路』出版後20年を閲した現代のこの都市をどのように見ているのだろうか。












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