2019年9月11日

デイケア、「睡眠」について


今月のデイケアのプログラムに「睡眠について」をテーマにした話し合いがあることは知っていた。はじめは参加の予定はなかった。急に参加してみることにしたのは、今現在のわたしにとって、「睡眠」=「眠ること」とはどういう意味を持つのかのヒントになる意見が聞けるかもしれないと思ったからだ。

いつものように、プログラム開始の前に、参加者一人一人の名前と、その時のテーマに沿った一言がある。今日は「寝る前に何をしますか?」
いろいろな習慣のある中、今更ながら、ああそうかと思わされたのは、「睡眠薬を飲んで・・・」という発言が多かったことだ。もちろんわたしも、1種類だが、睡眠薬を飲んで寝る。ただ、わたしの「寝る前に何をしますか?」についての答えは、就寝前の決まり事に関してではなく、「みなさん、寝る前に、あれをする、これをすると仰っていますが、わたしの場合、「寝る前」というのが、あるのかないのか・・・つまりこの時間からこの時間までが「起きている時間」で「ここからが寝る時間」と分けられない気がするのです・・・一日中寝ているともいえるし、一日中起きているとも言える。その辺り、みなさんにとって、睡眠とはどういうものかを参考にしたくて参加しました」

しかし例によって話は、「より良い睡眠のための工夫」「不眠に悩まされている」
といった「眠り」についての一般的な話題を中心に進められていった。

わたしが知りたいのは、現代人の「生活」にとっての睡眠とは、ではなく、現代の大都市に生きる者の「生」にとって、睡眠とはどのように位置づけられるのか?ということであった。

わたしは毎日ほぼ一日の半分を寝て過ごしている。けれども十時間寝ようと、十二時間寝ようと、スッキリしたとか、よく寝た、という感覚を味わったことがない。そして何故寝るのかというと、起きていてもやることがないからに他ならない。こう書くと、家の手伝いでもすればいいじゃないかと言われるだろう。
しかし、家事であろうと、仕事であろうと、一体わたしは「これ」をするために生きている(生まれてきた)のか?という気持ちになる。おわかりだろうか?

つまり食器洗いに全人生を掛けても悔いはないと、言い切ることができない。

とすればあとは寝るしかないじゃないか?

やることがなければ寝るか、さもなければ死ぬしかない。死ぬ踏ん切りがなかなかつかない。だから仕方なく寝る。寝るといっても、5時間6時間と持続して寝ているわけではない。ほぼ2時間おきに目が覚める。寝る、また2時間後に目が覚める。また寝る、2時間後に目が覚める・・・そんなことに一日の半分を使っている。それが何時間の睡眠であろうと、いつでも起きた時にはグッタリ疲れている。倦怠感が身体に覆いかぶさっている。何をする気も起きない。しかしもうこれ以上寝られない・・・



今日のデイケアでもこのような感じの発言である。
デイケアに通ってわかったことは、やはり彼ら、彼女らは、「心を病んだ正常人」だということ。そのことを改めて強く感じた。

ここでも、あそこでも、いい加減自分の変人ぶりに嫌気が差してきた。

デイケアに参加している人たちは(今のところ)みな友好的だ、けれども、一歩デイケア室を出て、心の病気以外の話になれば、おそらく誰とも普通に口を利くことはできないだろう。共通の話題がないという以前に、そもそもわたしには「話題」というものが無い。

外に出ない。友達がいない。テレビを見ない。新聞を読まない。インターネット依存症ではあるが、動画を視ない。ネットニュースを視ない。SNSをやらない。ネットでやることと言えば、主に海外のアート系サイトを観ること、それをTumblrやブログに投稿することと、ここに書くこと、そして2~3のブログを不定期にのぞくこと。

You Tubeの動画を視ないのも、ネットニュースを視ないのも、まとめサイトとかいうものを視ないのも、特に理由があるわけではない、アニメやゲームやスポーツ同様に、単に関心がないだけだ。

本を読み始めるとすぐに眠くなる。映画も今はほとんど観ていない。これでは「話題」があるはずがない。

主治医も、デイケアのスタッフも、デイケアに参加していることを良しとしている。母も同じ意見だ。けれども、プログラムに参加する度に自分の異形振りを改めて再確認しているようで、ちょっとやりきれない。



ちゃんとした睡眠のためには規則正しい生活が土台である。けれども「規則正しい生活」とはそもそもどういうことだ?

朝早く起きる、きちんと朝食をとる。で?何をする?
この世界に「したいこと」など何もないのだ。またできることもない。
大田区で生活保護を受けていた頃、ケースワーカーに言われたことがある、「作業所でやっているようなこと?あなたにああいう根気の要る仕事が勤まると思いますか?同じ作業を1時間でも続けられますか?」

嘗てケースワーカーにも、精神科医にも、こういうこと(=仕事)はどうですかと言われたことがない。無論母にも。そして主治医と母と、最終的に辿り着いた結論が、「生きていることを仕事にすること」だった。






    しゃがんだ

がりがりに痩せた人

一人の遊行僧(サドゥー)が向こう岸から

ぼくをじっとみて笑った

     はるか遠くから

動物のように聖者のようにぼくをじっと見ていた

裸で髪は乱れ汚れたたままで

じっと動かない視線 彼の鉱物の眼

ぼくは喋りたかった

かれは腹をごろごろ鳴らして答えて

       行って しまった

何処へ

    どんな生存の領域へ

          どんな世界の戸外の

どんな時間の

どんな生存へ



ーオクタビオ・パス「ウリンダバン」(※インド中央部の町)













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