2019年9月15日

つづき


下で悪態をついた人たちはしかし、わたしなどよりも遥かに(これも非常に稚拙な表現だが)「利口な」「賢い」人たちだ。

わたしが数日前に残した子供染みた疑問、

「西行が秋の夜空に見上げた月と、彼がそれを詠んだ歌とはどう違うのか?」

「ゴッホが描き、そして枯れ朽ちて棄てられたひまわりと、彼の絵の中のひまわりとはどう違うのか?」

「月と歌、花と画、それらの関係はいかなるものか?」

「美とアート(藝術作品)とは分かち得るものなのか?」

等々・・・

わたしの稚な過ぎる疑問について、彼らはとうにその答えを知っている。

けれどもわたしはかように「無智」な自分を恥ずかしいとも思わないし、殊更居直るつもりもない。

ただ、彼ら/彼女らとは所詮異質の存在であるという認識を持つだけだ。

上記の疑問はわたしの愚かな頭に浮かんだ、朧な謎であるに過ぎず、

これについての「答え」(?)を知りたいと思っているわけではない。

どころか、「検索」しても答えが得られない「愚問」「奇問」で頭を充たしたいとさえ思う。

それとも現在(いま)はどんな疑問にも答えが得られてしまう時代なのだろうか?



ところで西行と言えば、昨夜パラパラとめくっていた母の本、中井久夫の『最終講義』に、このような言葉を見つけた。

西行法師は歳老いてなお、去年に通って再び通る時の道知るべに枝を折っておいた道を通ることを止めて、新しい方角の花を見ようと言っています。
*吉野山去年(こぞ)の枝折(しを)りの道かへてまだ見ぬ方(かた)の花を訪ねむ。ー山家集ー

なるほど、(本のページの端を折って目印にする。)「しおり」とは「枝折り」からの転用だったのか。

確か英語では、話が脇途に逸れ、本題に戻るとき「ところでどこまで話したっけ?」というのに" Where am I ? "(Where are we ?) 「えっと、いま何処にいるんだっけ?」と言うのじゃなかったか?
これも朧気な記憶・・・

道に迷わないように、というと「アリアドネの糸」を思い出す。
(同書の最後に、中井久夫がみすずから出している書籍の一覧があり、中に『アリアドネからの糸』というエッセイが出版されていることが記されていた。)



わたしは立ち止まっている。小枝を折る必要も、アリアドネの糸を引いてゆく必要もない。そして自分が何処にいるのか、わからない。

目の前の折れた枝が何を意味するのか、わからない・・・

当たり前だ。寝ている間にベッドごと急流に流されるように居場所が変わり、眼覚めたらまるで見知らぬ土地。目の前の木の枝をポキリと折ったところで、自分が何処にいるのか、わかるわけがない。アリアドネの糸も、どこかでブツリと切断されてる。
「切れた」のではない、「時空」が異なるのだ。

・・・それが、わたしが「引きこもり」である理由だ。

元いた場所と、今現在との連続性が、無いのだ。

わたしのような重度の精神障害を持たない者にはこの感覚は理解できないだろう。簡単に言うと、「竜宮を持たない浦島」だ。
けれども、重度の精神障害がこの失見当識を齎したのか?
時の流れの急激な速さが、わたしの精神に変調を齎したのか?
ここにもまた謎が残る。






6 件のコメント:

  1. こんばんは, Takeo さん.

    > わたしが数日前に残した子供染みた疑問、
    > 「西行が秋の夜空に見上げた月と、彼がそれを詠んだ歌とはどう違うのか?」
    > 「ゴッホが描き、そして枯れ朽ちて棄てられたひまわりと、彼の絵の中のひまわりとはどう違うのか?」
    > 「月と歌、花と画、それらの関係はいかなるものか?」
    > 「美とアート(藝術作品)とは分かち得るものなのか?」
    > 等々・・・

    Takeo さんから投げかけられたこれらの疑問について, 布団で寝込みながらぼんやりと考えていました. これまでずっと考え続けてきたことを何とかまとめようとしていたと言ったほうがいいかも知れません.
    鬱と無気力で動けずに寝込んでいる状態でも, 朝・昼・夕・就寝前に飲む抗鬱薬や, 特にきついときに頓服を飲んだ後などは少し気分が楽になるので考える余裕ができるのです.

    かと言って本を読むまでの気力は無く, 他に考えることもありませんし.

    -=-=-=-

    私は鬱の苦しさから逃れるために絵を描いています. 現在のところ絵は私にとって, 作品を完成させる目的というより苦痛からの逃避の手段という側面がほぼ全てですね.

    けれども鬱の苦しみの中で, どうして自分は絵を描くという行為に辿り着いたのだろう. そう考えるとき, その理由の一つに美しいものを求める思いというものは確かにあるのです.
    苦しさから逃れようとする試行錯誤の中で, 趣味だった絵画が束の間の解放を与えてくれたという事実がその出発点だったことも関係しているのかも知れません.

    アートということについても考え続けています. それは, 私にとっての逃避行為である絵を所謂「アート」として展示する機会があるからです (作業療法のアトリエが主催する小さな展覧会ですが). 私はどうして自分の逃避行為が展示されることに堪えられるのか, それどころかなぜ何人もの人びとに鑑賞されることにある種の喜びのようなものすら感じるのか. これは不思議だし恐ろしいことでもあります.

    「美」と「アート (藝術作品)」とは分けられるものなのか.

    私は答えを持っているわけではありません. 美についての私の小さな考えは, Takeo さんが『愚者よりの問いかけ』で書いた

    > わたし個人は、同じ時間があれば、ルーブルで人をかき分けて絵を観るよりも、
    > 誰もいない荒地で、崩れかけた飛行機を眺めていたい。

    という文章で言われていることにかなり近いような気がします.

    美というものは徹底的に個に属するものだと思うのです.
    ある時間ある空間において, 繊細な細部にまで渡ってその個人以外成し得ない感覚を得るということが「美」ではないかと思うのです.

    ですからそれは恐怖の側面を持つこともあれば喜び・哀しみの別の姿であることもあります. 悟性によって導かれた思索の場合もあるでしょう.

    「その個人以外成し得ない感覚」というのは, それがその個人の気質や感受性や感情や理性によってあまりにも深く裏打ちされているからです.
    Takeo さんが無人の荒地で, 崩れかけた飛行機を「見る」という行為を成し遂げたときのように, です.

    ちなみに, 同じことが多くの人で賑わうルーブル美術館の絵画についても言えることは明らかです. ただ, Takeo さんの感覚としての「美」は荒地の崩れかけた飛行機には及ばない, ということではないでしょうか.

    私は「美」というものはそれを見出だした「個人」と切り離してはいけないものであり, よりその個人に強く依存しているほどその「個人」にとっての「美」であるのだと言いたいのです.

    ところがその切り離してはいけない「個人」と「美」が, 何らかの理由によって切り離されてしまうことはあり得ます.

    私が, 自分が描いた逃避としての絵を展覧会に出品した場合がそれです.
    Takeo さんが荒地の崩れかけた飛行機を誰かに「見てごらん」と促した場合がそれです ── つまり Takeo さんのブログです.

    その途端にその「美」を成立させていた強烈な「個人」は姿を消します. 他者は元の「個人」を知ることはできません. 不可能です.

    一方, 「個人」が切り離されたそれまで「美」だったものは, 他者との間にもその「他者」しか成し得ない感覚を介した関係性を持てるだろうか?
    持てたとしたらそれも「他者」にとっての「美」と言えるのではないか? それこそが「アート」と呼ばれるものなのではないか?

    残念なことに, 私の考えはここで停止してしまいます. 先に進むことができないのです.
    最早私という「個人」から切り離されてしまった嘗ての「美」が, 「他者」との間に築く関係性は私には預かり知れません.
    私のこのような考えでは「普遍的な美」について言及することができません. 「アート」とは? は私の中では混沌とした謎めいた問いかけのままです.

    Takeo さんが「無人の荒地の崩れかけた飛行機」を見たときに作り出された, Takeo さん以外成し得ない感覚, すなわちここで言う美は, Takeo さんが誰かに「見てごらん」と言った時点で別のものに変わってしまいます.
    結果として互いに無関係な二つの「美」── Takeo さんのものと誰かのもの ── が同じ場所にある, というだけのことになります.

    それは普遍的な美と呼べるものなのでしょうか? わかりません.
    ですから, 私自身が今のところこの限界で留まってしまっているのです.

    まとまりの無い文章でごめんなさい. Takeo さんはどう感じますか?

    P.S. もう一つ,

    > 何故差別は悪いことなのか?

    は別の文章としてまとめられたらと思っています.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      わたしが以下の疑問を持つきっかけとなったのは、ネットで写真を探していた時に、ふと目に留まった「マグナム・フォト」の1枚の写真です。
      それはルーブル美術館で、「モナ・リサ」の前に蟻のように人だかりができ、大勢の鑑賞者が、スマホでその絵を写真に収めているシーンを背後から写したものでした。

      それはきわめて大きな衝撃でした。

      底彦さんも既にご存知のように、わたしは既に2007年頃から、SNSで、アートのやり取りをしています。自分がきれいだとか、面白いと感じた作品を、同じようにアート好きの誰かと共有することは、この上ない喜びでした。
      そのSNS崩壊後、Tumblrに移りました。ここはSNSではありませんが、フォロワーがいて、「リブログ」があり、「スキ」があります。
      形こそ違え、わたしの選んだ画や写真を、誰かが「わあ綺麗!」とか「素敵」といってくれることはうれしいことでした。
      それは逆に先のSNSの友達だった、ドロローサやオーファンなどの画に、わたしが胸ときめかせていたのと同じです。わたしは彼女たち自身の描いた画を見ることも、彼女たちがセレクトしたアートを見ることにも喜びを感じていました。

      またインターネットの世界に限らず、わたしは40代の6年間、ほぼ毎週どこかの美術館へ連れ立って言っていた友を失った時から、美術館へ足を運ぶことができなくなりました。親友だった彼女と、一枚の絵の前に立ち、「このカエルがかわいい」とか「この夜の闇の色遣いが何とも言えない」などと、この絵、あの絵を通して同じ時を過ごすこと、ひとつの作品を共有する時間を持つこと、その時間が失われた時に、わたしが絵を観に行く意味も失われたのだと思います。

      外国の映画のセリフですが、「人生は誰かと分かち合ってこそ価値がある」という人生観にわたしは共鳴する者なのです。

      「屁を放っておかしくもなし独り者」という江戸川柳があります。「咳をしても一人」と放哉は呟きました。

      底彦さんの

      >「美」というものはそれを見出だした「個人」と切り離してはいけないものであり, よりその個人に強く依存しているほどその「個人」にとっての「美」であるのだと言いたいのです.

      この意見に全く異論はありません。

      >美というものは徹底的に個に属するものだと思うのです.

      これにも全く異論はありません。しかし、わたしはまた別の考えも持っています。

      「人生は誰かと分かち合ってこそ価値がある」。この「人生」という言葉を「美」に置き換えることも出来るのです。

      一枚の絵、一枚の写真の前に、ひとりで立っているのと、それについて感想を言い合うのと、もちろん相手を選びますが、やはりその作品について共鳴・共感しあえる誰かがいないと、「美」はわたし一個の胸の裡に埋没してしまうのです。

      ですから

      > 私はどうして自分の逃避行為が展示されることに堪えられるのか, それどころかなぜ何人もの人びとに鑑賞されることにある種の喜びのようなものすら感じるのか.

      底彦さんの感情はわたしにとってはまったくもって当たり前の感情なのです。

      美を感じるのは、人間の心の、魂の深い部分です。その自らの深部を共有することにこそ、わたしは実存の意味を見出します。

      >その途端にその「美」を成立させていた強烈な「個人」は姿を消します. 他者は元の「個人」を知ることはできません. 不可能です.

      これは前にも書いたことですが、わたしがある本を人に薦めるのは、純粋にその著作がいいから、ではなく、その一冊を媒介にして、わたしという人間の片鱗でも知ってもらいたいという気持ちからです。

      「この絵」「この写真」「この詩」「この音楽」を愛する「わたし」を知ってもらいたいという衝動です。その点で、会場に展示されようと、ブログに投稿されようと、
      作品と「わたし」が分離されるということはないと思っています。

      もちろん、「その絵」「その写真」「その詩」をどのように受け止めるかは、個々の受け手に拠ります。ただ、それが受け止められた時には、わたしが、わたしの一部が受け止められたと感じるのです。

      何故ならそれらの経験の総和が即ち「私」だからです。



      >「その個人以外成し得ない感覚」というのは, それがその個人の気質や感受性や感情や理性によってあまりにも深く裏打ちされているからです.

      それが「普遍性」であると思っています。
      極限まで個人的であるものだからこそ、普遍性を持ち得るのだと。
      そんなことは、これまで多くの書を読み、絵を観てこられた底彦さんに今更言うことでもないと思います。

      西行と彼が夜空に見た月はあくまでも一回限りのもの、再現不可能なものです。
      それを普遍的な美に定着させるために、作品化するのだと思います。

      自己の最深部を普遍化させたい、外化させたいうといのは、人間の性(さが)のようなものだろうと思います。

      わたしが飛行機の写真を共有した時にも、その美はわたし固有のものです。
      底彦さんの画の場合も同じです。

      >結果として互いに無関係な二つの「美」── Takeo さんのものと誰かのもの ── が同じ場所にある, というだけのことになります.

      わたしが美術館で、友人と見た絵は、わたしの内部の美と、彼女の内部の美に分裂します。しかし人は決して作者と同じものを見ることができないのと同じように、同一の感覚・情動を持つことはできません。けれどもその絶対的個別性を超越したところに存在し、わたしと友とを融和させる「普遍的な美」があるのだと思います。

      コンサート・ホールにいる何百人何千人の観客が全く同じ水準の感興を覚えているわけではない。しかしそこに居る個々人の琴線を震わせ、何かが伝わったことは確かなことだと思います。それが「美」です。

      「寒いねといえば寒いねと 応える人のいるあたたかさ」俵万智

      「この絵、(ここのところ)いいよね」と言える相手が隣に誰もいないとき、美は最早わたしに語り掛けてはくれません。

      美そのものは個人に語り掛けてくるもの。そして作品は、それを共有することによって、人と人とが、言語よりも更に深い部分で繋がり合うことのできる手段・・・敢えてそういってもいいかと思います(あくまでわたしにとって、ですが)

      底彦さんとの対話で、なんとなくこんな関係なのかな、というものが見えてきたような気がします。

      ありがとうございます。

      尚「差別」については、すでに誰もが知っているように、わたしはデジタル・ワールド、ひいては現代社会を言われなく憎悪する者=差別者であるという意味です。

      どうか心穏やかなよい休日を過ごされますよう。

      寂しさに堪えたる者のまたとあれな 庵ならべむ冬の山里(西行)

      美は人を繋げてくれます。

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  2. こんばんは。

    これは、答えるのが難しすぎて、意見を言うのがはばかられますが、だからと言って、言わないのもはばかられるので、自分の考え方として言います。

    まず、ぼくは「芸術」と「芸術作品」の関係を「物質」と「精神」」に置き換えて捉えています。
    「作品」は「物質」ですが「芸術」は「精神」です。
    ただ、「作品」がないと「精神」を表現できませんし、「精神」がないモノを表現することには「意味」がありません。

    だから、この二つは不可分の存在ということに成ります。
    (思考の中で分けることは可能ですが、現実には不可能と言うことです)

    これは、なにも「芸術作品」のように「人によって創作されたもの」とは限りません。
    「月」や「花」や「人の姿や動作」でもなんでも「物質」です。
    しかし、それを「美しい」と感じる心が「精神」に成ります。

    一見すると「作品」は「作為的な表現」であるかのように見えますし、「自然」や「廃墟」は「非作為的」に見えますが、おそらく、それは人間にとっては「人間の作為」が見えやすいということに過ぎません。
    「花」は虫を誘うために咲いています。
    無生物であっても、何らかの方向性をもって存在していますし、全てのものが、すべての時に、変化し続けていますから、そこには「人間の理解を超えた作為」があるといってもいいと思います。
    つまり、「人間の作為」だけを、特別扱いすることこそが「作為的」であるともいえるわけで、そこに隔たりを設ける必要はないと思うわけです。


    そして、その「美しい」を伝えるのが「芸術作品」などの「物質」です。
    「精神」を「物質」を通さずに、ダイレクトに伝えることが出来れば、いいんでしょうが、それは出来ないということのようです。


    そして、「美」と「芸術」の関係は、「美」が上に述べた「美しいと感じる心」の「内にあるもの」であるのに対して、「芸術」も「内なる精神」ではありますが、それを外に向けて発露する行為でしか「創作」とは成り得ませんし、上に述べたように「芸術」と「芸術作品」は不可分ですから、「創作」という「外へ向かう方向性」を必要とします。

    こちらは、両方とも「精神」ですが、その方向性が違うということだと思っています。

    「美」はあくまで「個人の精神の中」にあって「感じ取られるもの」で、方向性を持ちません。
    それに対して、「芸術」は、それを外に向かって発散しようという方向性を持った「精神」です。
    これは、「人に見せる」ということとは限りません。
    「創造する」と言う行為自体が、「外に向かう方向性」を持っていると思います。

    「芸術」と「創作」は別のことだと思いますが、現実にはそれを分けることは出来ません。
    これは、「人間」の「肉体」と「精神」が別のものであるのに分けられないのと同じです。


    しかし、ここで、「芸術」は「美を追求するもの」でなければならないのか?と言う疑問が出てきます。

    現在の芸術は、必ずしも「美の追求」と言う義務を負わされてはいません。
    いや、それどころか、現在「芸術」には、いかなる定義も与えられていないというのが本当だと思います。
    つまり、なにを「芸術」と言ったとしても、間違いではないということです。

    ぼくは、この状況を否定的に考えていますので、『芸術の20世紀を喪失する』と言う考え方をしていますが、それは別の話になってしまいますので、ここでは飛ばします。

    とりあえず、現在の芸術においては「美」が絶対的な命題ではないということは間違いのないことだと思います。
    過去においては、「芸術の目標」は「美の追求」だったのかもしれませんが、現在の芸術においては「自己表現」が「芸術の目標」に最も近いものだと思います。

    いかに『「自分」を知り得るか』、いかに『「自分」を現せるか』、いかに『「自分」を伝えられるか』、そして、その過程で、「意味を創り出すこと」、これが現在の「芸術」のある場所だと思います。


    だから、現在の芸術においては、むしろ、「美しいこと」よりも、『私は、これを美しいと思う』ということの方が「芸術の中心」に近いことに成ると思います。
    (ここは、底彦さんのご意見とは逆に成るかもしれません。)
    つまり、「美しいこと」自体よりも、「自分にとっての美しいこと」とはいかなるものなのか?、ということを「知ること」や「創り出すこと」や「伝えること」の方に、「芸術の中心」が移っているということです。
    100年くらい前からです。

    やや、強引な言い方に成ってしまいますが、「その人であること」を「美しいこと」だということにしようと、100年位前に、決まってしまっているということだと思います。
    (これについては、どちらかと言えば賛成です)

    そして、そのやや強引に決められた「美しいこと」でも、人と共有することは可能だと思います。


    以上のことから、ぼくは、現在に限って言えば、「芸術」と「芸術作品」は不可分であると思いますし、「美」と「芸術」は、分けられる(すでに分けられている)と思います。


    ただ、それを誰も説明していませんし、決まって『考えるな!感じろ!』と言われますから、ある人は「美の追求」を今でも「芸術の目標」だと信じていますし、ある人は、『「道に落ちているゴミ」でも芸術だ!』と主張しているわけです。

    それを、『芸術ではないということが出来ない』というのと、それを、『芸術である』と言うのは違うことのはずなんですが、説明されないと、同じようにしか見えませんから。

    つまり、「芸術の外郭」が解放されたことと、「芸術の中心」が無規定であることは別のことであって、「外郭」が解放されたのはいいことだったのかもしれません(実際はそこにしか行くところがなかったのかもしれません)が、「芸術の中心」が全く規定されていないということには、致命的な問題があると思います。

    ※ぼくは「反芸術」と言う考え方には、あまり意味があるとは思っていません。
    これは、まだ、アカデミズムの権威が絶対的であった頃に、そこから脱するために使われた言葉だと思います。
    しかし、「反芸術」を掲げた人が、「新たなる権威」と成っていきましたから、あまり意味がありませんでした。
    (たぶん、誰がやっても同じ様に成るんだと思います)
    そして、現在にあっては、「反芸術」を「芸術」とすれば、「最も自分ではないこと」を「芸術」と呼ぶことに成りますが、それは「モノマネ」こそが「芸術」であるということですから、あまり、意味がありません。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「差別」については、ぼくの中では「悪いこと」と言うよりも、「存在する意味がないもの」と言う考え方をしています。

    現在に至って、「人間の平等性」は、事実であるといっていいものだと思います。
    つまり、それをいまさら云々することには、もはや意味がないほどに、『厳然として有る』ので、「格差」が存在しているというのは、むしろ、人間の「錯覚」のような「誤認」でしかないということですね。
    従って、「格差」は、本来的には「存在し得ないもの」だと思います。

    そして、その「存在し得ない格差」を前提にして「差別」するということは、完全に「無意味」ですから、有り得ないことなんですね。

    と言っても、なぜか「格差」があり、「差別」があるということは否定できませんが、だからと言って、それが「無意味」であるということは、もはや「厳然たる事実」に他ならないので、変わりませんね。

    まぁ、ぼくにとっては、今も「差別意識」に縛られている人と言うのは、いまだに「雨乞いの踊り」を踊れば雨が降ると思っているのと同じで、『千年くらい考え方が古い』と思いますよ。
    (本当は5万年くらい古いといいたい)


    一方、「憎しみ」や「怒り」には、いまも「意味」がありますから、それとは全く別だと思っています。

    確かに、一見すると、「憎しみ」や「怒り」から「差別」が発生しているように見える時が多いわけですが、実を言うと、そうでもないと思います。

    たとえば、電車の中で足を踏まれただけでも、「怒り」は発生しますし、そこで、相手が謝りもせずに知らん顔をしたら「憎しみ」だってわいてくるかもしれません。
    でも、それは「差別」に至ることはありません。

    要するに、「怒り」や「憎しみ」は、上下関係とは無関係に発生しますが、「差別」は「上」から「下」へ、「強」から「弱」へ向けらるものだと思います。

    「上下関係」や「力関係」を背景としない「差別」は、存在しないと思います。
    と言うか、それは「意見」に過ぎません。

    また、「下」から「上」へ、「弱」から「強」への「差別」も成り立ちません。
    なぜなら、「差別する側」であるということは「上」に立っていることを意味しますし、相手に対して「強者」であるということを意味するわけですから。
    それでなければ、その「差別」は誰にも相手にされずに無視されるだけです。

    これは、「暴力」と「防御」の関係と同じです。
    「防御」を「暴力」とは言いません。
    なぜなら、それを言ったら、「防御」=「攻撃」と言う矛盾が発生してしまうからです。

    それと同じで、「逆差別」を「差別」と言ってしまえば、「差別」=「被差別」と言う矛盾が発生してしまうので、それを言っても意味がないということですね。


    それでは、また。

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    1. こんばんは、ふたつさん。

      底彦さんとのやり取りで、なんとなくわかってきたところがあります。

      しかし、底彦さんの考えとふたつさんの考えには随分違いがあるようです。

      ふたつさんの言わんとしていること、わかる気がします。つまり、チャップリンがショーペンハウエルの影響を受けて、映画『ライムライト』で、踊り子のテリーに向かって言ったセリフ、「バラはバラであろうとし、岩は岩であろうとする。」
      人が藝術を創造するのも、詩を書くのも、つまりはバラがバラであろうとすることと同じ生命の発露である、と。

      つまりある人たちにとっては、創作活動は、めしを喰うのと同じ次元での生命活動なんですね。
      わたしが先日どこかで、「真の美は反藝術的であることを志向する」と書いたのは、
      「藝術」であることのみを目指した藝術作品に真の美は宿らないという考えから来たものです。つまり、苦しさからの、孤独からの、寂しさからの、悲嘆からの逃避として創作する。これは全く「藝術性」を志向してはいません。けれども、そもそも、痛みから生み出されない藝術に美が宿るか?ということです。
      ですから、それを何と呼ぼうと、底彦さんの画は、やはりわたしにとっては「藝術」なのです。

      わたし個人は、自己追求と美の追求は同義だと思っています。美は作り出されるものではなく、産み出されるものだと思っています。「産み出される」というからには、自己の内面にその出自を持ちます。

      ですから

      >やや、強引な言い方に成ってしまいますが、「その人であること」を「美しいこと」

      といってもそれほど的外れではないと思います。

      藝術から離れますが、わたしにとっての「美」とは、人間が、如何に自分自身に対して誠実であるか、真摯に自己と向き合っているか。そしてやはりなによりも「弱さ」「悲しさ」「いたましさ」にこそ至上の美を見てしまいます。
      そういう性向が、わたしのインテリ嫌いにどこかで繋がっているのかもしれません。

      >いかに『「自分」を知り得るか』、いかに『「自分」を現せるか』、いかに『「自分」を伝えられるか』、そして、その過程で、「意味を創り出すこと」、これが現在の「芸術」のある場所だと思います。

      わたしがここでやっていることも正にこれです。しかしわたしはここで、なにがしかの「美」を生み出そうとは思ったことはありません。それどころか、わたしを掘り下げてゆけば行くほど醜さが露呈されてきます。
      これもまた芸術とは離れますが、わたしがここに書く己自身は醜いものとして書いています。人間はここまで醜く、見苦しくなれるのかと。
      一方わたしがここに貼りつけている絵や写真は、(わたしの中では)「美」を表しています。仮にそれがホームレスの写真であっても。不器用に小銭を数える老人の姿であっても、それらはすべて「わたしにとっての美」なのです。

      さて、まとまらないままに、わたしの考えとしての、美と藝術と作品について述べました。反藝術に関しては、繰り返しになりますが、底彦さんが「逃避行為」と呼んでいる作品こそが、実は真の藝術であるという意味で使っています。



      そして差別については、なるほど、わたしは「スマホ差別主義者」と世間では見られていますしそれによって叩かれてもいますが、別にそのように言われても構わないと思っています。

      わたしなりに考えて書いたつもりですが、不十分でしたら申し訳ありません。

      ふたつさんにも、底彦さんにも、改めて、愚問について真剣に向き合って下さりありがとうございました。





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    2. こんにちは。
       
      このコメントについては、ぼくの言いたいことが伝わるとは思えなかったので、その中の結構な部分が伝わった気に成れて、とてもうれしいです。

      本当は、もっと根底の所から掘り起こしていかないと語れない話ですから、この程度の内容では、まったく物足りないと自分でも思いますし、Takeoさんに対する「答え」などとは、とてもとてもおこがましくて言えないんですが、それでも「誠意」だけは伝わったようで、本当に良かったと思います。
      (本当を言えば、それ以外に伝えたいものなどないのかもしれませんね)

      それから、ぼくも底彦さんの絵のようなものこそが「芸術」だと思っていますよ。
      これは見なくても言えることです。

      前にも言いましたが、ぼくは「芸術」を好みで判断することは、重視していませんので、見た結果、少しぐらい好きでも嫌いでも、それはあまり重要だと思いません。
      それよりも、底彦さんが苦悩する時間の中で「絵を描くという行為」を捨てずに続けていることが、もっとも「芸術であること」だと考えます。

      ただし、「芸術であること」を世界で一番大事なことだと思っているわけでもなく、ぼくが、最も重要視しているのは、「人間性」です。
      「その一種」として「芸術」があります。
      そして、底彦さんの「人間性」もTakeoさんの「人間性」もすでに、伝わっていますから、それで、かなり十分なんだと思います。

      ただし、これは、専門的な意味での「芸術」と言う考え方をした場合は、もう少し違ってきます。
      「芸術家」を名乗る者が、まったく無責任に、いい加減な気持ちで「芸術」に取り組むことはいいことだとは思っていません。

      そういうことから、ぼくは、現在に至って「芸術家」という言葉も捨ててしまったわけです。
      その代わりに「芸術者」という言葉を使っていますが、それは「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」と言う三者を完全に対等な関係として、捉えるという前提で使っている言葉です。

      ぼくの中の理想としては、この「芸術三者」が対等な関係として考えられるように成れば、ほとんどすべての人が「芸術三者」のいずれかとして、「芸術」に関わりを持って生きていかれるように成るんじゃないかと思っています。
      (まぁ、早くても数百年後に成るでしょうが)

      それでは、また。

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    3. こんばんは、ふたつさん。

      わたしも、基本的な考え方に於いて、ふたつさんの意見にごく近いと感じましたので、ほぼ同じである意見、見方については、敢えて言及しませんでした。また理解が及ばず、何と返答したらいいのか分からない部分もありました。

      例えば

      >「芸術」は「美を追求するもの」でなければならないのか?と言う疑問が出てきます。

      >現在の芸術は、必ずしも「美の追求」と言う義務を負わされてはいません。

      という部分に関しては、そもそもお互いが同じ「美」の定義を共有していなければなりません。古典主義のように、「美」は客観的な存在であって、「美」を表現するためには一定の決まり事、法則・規範のようなものがあり、先ずそれを会得することから始めなければならないのか。或いは19世紀の表現主義絵画や、ジャクソン・ポロックやデ・クーニングのような抽象表現主義者たちのように、何が美であるかは、あくまで作者及び鑑賞者の主観に依るのか、など。

      正に「美の定義」から出発しなければならない議論になってしまいますので、そういう話はやはり直に会って、酒でも飲みながら話したいという古風な人間ですので、
      相手の顔を見ないで深い話ができないわたしとしては、十分・・・とはいえないまでも、満足しています。

      ただ、底彦さんへの返信に関しては、なんだかわたしの考えが、あたかも正当であるかのように語ってしまったのではないかという思いがあります。

      底彦さんの言われる、「美」はあくまでも個的なものでなければならない。という点にはまったく異存はないのですが、それ以外の相違点を強調し過ぎてしまったかもしれないと・・・

      ただ、言い訳がましくなりますが、ふたつさんに対しても、底彦さんに対しても、「美」や「藝術」を語るのに、熟慮していたのでは何も書けなくなってしまうというところがあります。
      その点に関しては、「巧緻よりも拙速を尊ぶ」という気持ちで、何よりも、コメントを書き、意見を聞かせてくれたということに対して、すこしでも速くお礼の気持ちを表したいという考えで書きました。



      ある老画家が、画廊に行って、一枚の抽象画の前に立って、
      「ふむ、抽象画ですか。しかしお値段はひどく具体的ですな」

      わたしはこのジョークを気に入っているのですが、「芸術家」でも「詩人」でも、
      皆がそうではありませんが、多くはそれを売って生活しています。ロックやパンクを「反体制」と呼んでも、メジャーになれば高級車に乗って、豪邸に住む。資本家とどう違うのか?という、これまた子供染みた疑問が昔からあります。

      詩人のチャールズ・ブコウスキーは様々なアーティストたちからカリスマ視されていました。U2のボノもその一人ですが、ブコウスキーは、彼はロックスターで、所詮「あっち側の人間だから」と言っています。

      「全き無名性」を重視するわたしにとって、底彦さんの言われる。
      「美はあくまでも個から引き離すべきではない」という意見に完全に同調するのです。

      わたしは辺見庸の文章に惚れぬいていましたが、彼が新作を売るためになりふり構わず、というところを見て(そのように見えて)、愛想を尽かさざるを得ませんでした。

      「アート」は「詩」は、「商品」か?という点に拘っています(苦笑)

      相変わらず考えがまとまりません。ふたつさんにも底彦さんにも、自分自身満足のいくお返事ができなかったことが残念ですが、せめて感謝の気持ちだけでも受け取ってもらえれば幸いです。

      不悉

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