2019年9月2日

ふたつさん、そして底彦さんへ。


ふたつさん、昨夜は接続状況が悪い中、長文のメールを書いてくれてありがとうございました。そして底彦さんにも、改めて、体調のすぐれない中、それこそ「全身全霊を込めて」長いコメントをくださったことに感謝します。

昨夜底彦さんには思ったような返事を書くことができませんでした。底彦さんがコメントを書くのに要した労力の半分にも満たなかったかもしれません。
ふたつさんには何度もメールを書きかけて、途中であきらめました。

これからお二人に何を書くつもりなのか、それすらまだ朧気です。とりとめもなく、けれども、今のわたしのありのままの気持ちを断片的にでも書けたらと・・・
それはお二人から頂いたメッセージへの返事ではないかもしれません。
返信ではなく、今の気持ちをおふたりに伝えたいと思っています。



先程まで寝ていました。昔の友人の夢を見ました。コンピューターの調子が悪くなった時に、大田区にいたころはわたしのアパートまで50CCのバイクで、こちらに移ってきてからは、品川区から電車でやってきてくれて、何時間もかけて、設定のし直しをしてくれました。

夢の中で、わたしは彼と 小さな(といっても例えばわたしが住んでいた蒲田のような)繁華街を歩いていました。高校時代からの付き合いですが、彼と散歩をした経験というのは、一緒に秋葉原の街を歩いたり、また、30代の頃、彼とは、京都や滋賀、そして岐阜などに旅行をしたことがありますが、その時に目的地に向かって歩いたくらいで、都内を、特に当てもなくぶらぶらと散歩したという記憶はありません。もっとも、男性同士で、当てもなく街を歩くということはあまりないことなのかもしれませんが。

わたしはこれまで、基本的にはいつも孤独でした。この友人も、昔から、心の中に立ち入らせない、立ち入らない、という人でした。振り返ると小中高の12年間、そして、40代の6年間、20歳年上の女性と親友として一緒に過ごした時を除いて。このTくんとは継続的に続いていましたが、わたしたちの関係は、「友達」というよりも、寧ろ、機械好きと、機械音痴の関係と言った方がより近いかもしれません。

夢を見るときには、たいてい、「仲間」と一緒です。昔の友達の時もあり、夢の中の人の場合もあります。そして場所として、一番多く出てくるのは、わたしが26歳から17年間住んだ、馬込のアパートです。

先程まで見ていた夢も、彼と、中古のアダルトビデオを物色していたような場面がありました。記憶にある限り、わたしは、現代または現在の夢を見ません。それは、約10年前に、「親友」と別れ、相前後して、郊外に移り住んでから、物理的にも、また心理的にも、それまでずっとわたしにとっての「外の世界」であった、「東京」が遠くなったせいでしょう。

夢の中に映し出される東京は、もう20年も30年も前、まだ馬込や山王が、威厳と風格を備えた「お屋敷町」だった頃に見た、それぞれに個性的で、それでいて、奇を衒った浮薄さとは対照的な重厚で時の蓄積のある家並みを保っていた頃の町であり、風景なのです。

a man with a past, clock without hands... 「過去」とはわたしにとって、という言い方はどこか違和感を感じます。「過去とはわたしにとって」という場合、そこには「過去を振り返る、いまに生きる私」というイメージがあります。「針のない時計」とはわたしです。
「過去とはわたしにとって」ではなく、わたしが過去なのです。
「針のない時計」という心象はわたしに安らぎをもたらします。物理学的な「時の流れ」というものに無知なわたしは、時間とは、常に、前に向かって進むもので、それは決して、過去に向かって、遡って流れてゆくことはないという、素朴な時の観念しか持っていません。

「治る」という言葉に常に付きまとう違和感。それはわたしには違和感というよりも、もっと強い「不可解さ」のようなものなのです。「針のない時計」が、或いは「針の動きを止めた時計」が「治る」ということの意味が、わたしにはわからないのです。

大きなノッポの古時計 おじいさんの時計
百年いつも動いていた ご自慢の時計さ、
おじいさんが生まれた朝に 買ってきた時計さ、
いまはもう動かない この時計

百年休まずに チクタクチクタク
おじいさんと一緒にチクタクチクタク
いまはもう動かない この時計

天国に向かうおじいさん 時計ともお別れ
いまはもう動かない この時計

小学校の時に覚えた歌で、歌詞はわたしの記憶にあるものを書き写しただけで、誤りもあるかもしれません。
けれども、この時計は、おじいさんとともに生きてきて、おじいさんがいなくなった時に
時を、針を止めたのです。

これを修理に出してまた動くようにすることにどんないみがあるでしょう。

海に住む生き物たちが、この間急速に生息することが困難になり、また野生動物から野良猫に至るまで、「つい20年ほど前」と比べてさえ、遥かに生き難くなっている今、彼らと同じようにわたしの住む世界も極めて狭く小さくなっています。

先日コンビニ弁当を食べていて、その空の容器を入れると、20ℓ入りのごみの袋がもうパンパンです。みなプラスチックごみです。

エコロジーという点では、わたしの子供の頃は、夢のような時代だったなあと改めて感じました。豆腐は鍋を持って買いに行ったし、牛乳も、ジュースも、ビールも、ガラス瓶に入っていました。
醤油も瓶を持って買いに行きました。魚は魚屋が新聞紙にくるんで渡してくれました。

今の時代、生きることは「選択」の問題です。それは必然ではありません。



さて、ふたつさんが、わたしのショートショートを読んでくれていたとは驚きです。
詩も、数編書きましたが、難しいですね。

詩は大学時代に所謂ロマン派風のペシミスティックな詩を盛んに書いていました。

わたしは、可能ならば、このブログを、往時の、マリ・クレールやフィガロ・ジャポンのような雑誌風にしたいと思っています。1990年前後のそれらの雑誌は、単なるファッション誌の枠を超えた、映画、文学、アート、音楽の貴重な情報源でもありました。
わたしは今は雑誌は、『暮しの手帖』『住む。』くらいしか読みません。



底彦さんの言葉のように、わたしはこのブログの中で「自己を解放させているか」
わたしは嘗てのSNSや、タンブラーのように、ただ黙々と好きなアートを投稿している時、一番自己からの解放感を感じています。

書くという行為は、自分の内面に意識を向ける行為です。
それは求心的な営みであって、タンブラーのような発散行為とは正反対の創造的な営為だと思います。

絵や写真を選ぶということも、クリエイティブな作業には違いありませんが、
あくまでも楽しみとしてやっているので気が向かなければやる必要はないのです。

嘗てミケランジェロが神に祈った言葉

" Lord, free me of myself, so I can please you! "

「神よ、わたしをわたし自身から解き放ってください、そうすればわたしはあなたを喜ばせることができるでしょう」

この言葉を時折考えます。自分から離れた芸術とは何か?と。

昨日のふたつさんのメールから引きます

「ぼくが評価するものとは、「その人・性(さが)」を置いてほかにないのです。
 如何に「その人」であるか、これだけですね。
 Takeoさんは、極限的にTakeoさんなんですよね。
 それが、ぼくが惹きつけられたことです。
 そのことが、「今のブログ」の方が見分けやすかったということだと思います。」

何故ミケランジェロのこの言葉を憶えているか?それはわたしが同じ気持ちを持っていた(る)からだと思います。



昨夜のふたつさんのメールはいつも以上に、哲学的で内容の濃いものでした。
特に印象的なのは、「一般的」と「普遍的」の違いについて言及されている部分でした。

全体的に深く納得できる内容でした。


最後にふたつさんのメールから思わず笑ってしまった一言を

「少し話は違いますが、「ブルース」を聞いていると、よく意味もなく『ブルースって暗いよね』とか、『なんで、わざわざこんな音楽を聴くの?もっと楽しい音楽があるじゃない』などと言われたりします。」

ピアニストのフジコ・ヘミングは、ガーシュインの『サマータイム』を黒人の女性歌手に歌ってもらいたいと言っています。つまりレディー・デイ・・・ビリー・ホリデーのような、という意味でしょう。

ビリー・ホリデーはわたしも大好きなシンガーです。ブルースが暗いというのなら、彼女の「サマータイム」も暗いのでしょうか?そういう人を想像すると、おかしみがこみ上げてきます。


── 以上なにやら要点を得ない様々な想いを、思いつくまま手帳に殴り書きしたもののようになってしまいました。

わたしはふたつさんと底彦さんになにかを伝えようとしたかった。このとりとめのない断想の中から何かを掬い取っていただければ幸いです。


















3 件のコメント:

  1. こんばんは。

    ビリー・ホリデイ!!
    フジコ・ヘミング!!
    両方好きです!!!

    ぼくは、ビリー・ホリデイが嫌いだという人を嫌いになりますね、絶対に。
    ただ、まだ、そういう人にあったことがありませんけど。

    いるわけないと思っています。そんな人。

    でしょ?

    では、また。

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    1. ビリー・ホリデーはわたしの馬込のアパートで親友だった人と聴きました。
      もう日が暮れていて、馬込は八景坂といわれる坂の多い町なのですがわたしのアパートは高台の上にあって、東南の角部屋で、遥か大森駅の方まで見渡すことができました。
      こちら側に向かって窓がある家はほとんどないんですよ。向こうからは西にりますからね。窓を開け放っていても、同じ高さに建物がないものだから、真夏に裸でいられました。実際、エアコンをつけたのはこちらに移ってきてからです。

      二人で夜空を眺めながらビリー・ホリデーを聴きました。

      もう別れてから10年になります。わたしは56歳、彼女は70代後半でしょう。
      元のところに住んでいるのかさえわかりませんが、重い病気にかかっていると、数年前に電話をした時に聞きました。

      わたしの人生は、母と、彼女に会うためにあったのだと思っています。

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