2019年9月12日

おそらく・・・


おそらく真の「美」とは「反・藝術」であることを必然的に志向している。

美術館に恭しく陳列された「藝術作品」は、それが「藝術」であるという意味に於いて避けがたく「有用性」を、そして「社会性」「公共性」を担っている。

美は、「藝術」の刻印を推された瞬間に「有用性」へと転落する。

「モナ・リサ」は「藝術作品」ではあっても「美」ではない。

真の美とは何か?

それは嘗て西行が、宗祇が、芭蕉、蕪村、一茶、そして尾崎放哉が、山頭火が、路傍で、即ち「生の途上で」「自らの生の内部に」「見出したもの」に他ならない。

美は、「私一個の眼差し(=生(き)の感覚)」以外一切の根拠を持たない。

ゆえにそれは「全き無名性」の裡にこそ秘められている。

譬えるなら「藝術作品」が「宝石」なら「美」とは「路傍の石ころ」である。

では何故路傍の石が美しく見えるのか?それは「美」が「悲しみ」と同じ等高線上に位置するものだからだ。

「美と悲しみを知る者のみを私は愛する」とワイルドは言った。

美を知る者は悲しみを知る。悲しみを知る者は美を知っている。

どちらか一方のみということは、あり得ない。

しかし深い悲しみを知らない者は美に盲目である。仮に「藝術作品」を分厚い目録が作れるほどに「鑑賞」していたとしても・・・


ー追記ー

下の投稿「廃墟」に於いて、真の美は言うまでもなく、朽ちゆく飛行機そのものである。
フェデリコ・パテッラーニの「写真」と、そこに写されている飛行機とを並べた時、「美」がどちらにあるのかは言うまでもない。
写真はあくまでも「メディア」=「媒介」に過ぎず、「美」そのものではない。

しかし「美そのもの」と「写真」「絵画」「音楽」のような「藝術作品」との明確な違いが、わたしには分からない。

西行が見た月は明らかに「美」そのものである。そして彼がそれを三十(みそ)一文字の「歌」に詠んだもの=「作品」との間の「美」の在り方の違いがはっきりとわからない。

わたしはおそらく二度と美術館に行くことはないだろう。
美が無ければ生きられないと言った。けれども、美術館が無くても生きてゆける。
しかし図書館が無ければ生きてゆくことは遥かに困難だろう。
インターネットが無くても生きていけるが、本なしでは生きてはゆけないだろう。
無論本とは「紙を閉じて作られた物」の謂いである。それ以外の本というものをわたしは知らないし、それ以外を「本」とは呼ばない。

「電子書籍」とやらを「本」と同一視している愚者を、わたしは「阿呆」と言って憚らない。








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