2019年9月21日

デイケアと気づき


昨日(木曜日の午後)と今日の午前中のデイケアに参加した。
昨日はまたもや「集団認知行動療法」。前回で、(少なくともグループ「集団」でやる)認知行動療法には懲りているはずなのに、今回のテーマが「アンガー・マネジメント」=「怒りの感情をコントロールする」ということで、参加者がどのようなことに怒りを感じ、それにどのように対処しているのかを知りたいという興味が上回り、結局方向転換して参加することにした。

過日他のプログラムで「睡眠」がテーマだった時に、冒頭の「寝る前に何をしますか?」という質問に、参加者は「眠剤を飲む」などの他に、様々な、自分なりに寝る前の習慣にしていることを上げた。「トイレに行く」「明日の天気をチェックする」「目覚ましをセットする」etc...その時にわたしは、「寝る前」というのがいつなのか分からない。と答えた。仮に日によって寝る時間がまちまちであっても、「寝る前」というのは必ずあるはずだ。けれども、わたしは同じように「いつ起きているのか」もわからない。今こうして文章を書いている時も、果たして「いまは起きている時間」と言えるのか?更に言うなら、「いまわたしは生きている」といえるのかさえ覚束ない。



話を戻して、昨日の「アンガー・マネジメント」。プログラム開始前の自己紹介と今日のテーマに沿った一言は「イライラした時の対処法は?」であった。みなさんは「素数を数える」とかいろいろ(・・・忘れてしまった)な対処法を上げていた。わたしは、「イライラ」の意味するところがよくわからなかったので、それを「怒り」に置き換えて答えた。わたしの怒りの対象は、広く「外界」である。昨日今日のように、日傘が必要な日差しの中で、無駄に電気を点けている駅のホーム。
アイドリングをしているクルマ。スマホバカの群れ=(・・・というのはトートロジーだ。「群れている」から「バカ」なのだから)

外界、即ち世界は、わたしが怒ったところで、ビクともしない。だから答えは「怒りは内攻し蓄積される」であった。

例によって、資料として配られたプリントが、まったく無内容な空疎なものだったので、話し合いの内容は割愛するが、終了前のそれぞれの感想でのわたしの発言は、「このプリントの冒頭に書かれているように、「怒りというものは、その人の価値観や生き方、こだわりから生じるもの」という点に関しては同感です。怒りは正にその人の一部です。だとすれば、あえてそれを消去したり、マネジメントする必要など全くないと思う」

わたしはまたもや認知行動療法的な発想を全否定したわけだが、これも前回同様、わたしの発言に対する目に見える反発・反感はどこからも感じられなかった。
それどころか、極端で過激な形ではあるが、自己の主張を真っ直ぐに、愚直に表明することに(した後で)グズグズと悩んでいるのは当人だけのようにさえ見えた。



今日の10時半から行われたのは「スモール・グループ・セラピー」というもので、
皆であれこれ話し合いましょうという、特定のテーマを設けずにディスカッションするプログラムだった。

せっかく午前中に来たのだし、日頃感じていることを発信した。

「・・・今日ここにおられる何人かの方たちも既にご承知のように、昨日も含む一連の「集団認知行動療法」への毎度の異議申し立て、他のプログラムでも見られる突飛な発言、またそれに対する自分の内部でのスッキリしない気持ち。一方で、同じプログラムに参加している人たちが、いつも気軽に笑顔で挨拶をしてくれるということへの不思議な感覚。そして、普通はこういう場所では、(もちろん「合わない」といって来なくなる人もいるでしょうが)こうして継続している者は、次第に皆に、その場に馴染んでいくものではないかと思うのですが、逆にわたしは回を追うごとに、皆との距離、隔たりが少しづつ広がってゆくように感じています。それは単に意見の相違ではなく、多分みなさんとわたしとの根本的な生き方の相違、そして病気に対する向き合い方の違いだと感じています。しかしそのように、根本的な生き方や考え方が180度違う人たちからのいつも変わらぬ「笑顔の挨拶」というアプローチに、ある種のダブルバインドを感じて戸惑っています・・・」

そして改めて、わたしがここに通う意味は何なのか?もう1年近く通っていながらその疑問は深まるばかりだと訴えた。

それが今日の前半のテーマになったが、ここに些細だが小さからぬ意味を持つ出来事が起きた。
通常のプログラムと違って、このプログラムではテーブルを使わないで、みんなで円形に椅子を並べて座る。わたしのふたつ隣の女性は、いつも認知行動療法に出席している人で、大抵、「とても参考になりました」と言う人である。つまりわたしとは対照的に、認知行動療法を肯定的に捉えている。

昨日、午後のプログラムが終わり、ほとんどの人が帰った後に、プログラムを行う部屋で、そのひとはいつものメンバーと卓球をやっていた。わたしが、資料を返しにその部屋に戻った時に、「Takeoさんは卓球やらないの?ここで覚えられるよ」と声をかけてくれた。
笑顔で声をかけてくれる人のひとりである。

そして今日、その人は、ふたつ隣のわたしに向かって「今朝はこのプログラムには参加しないで、トランプをやるつもりでいたけど、あなたの姿を見たので急きょ出席することにしたのよ」

それに対して、「昨日もそうですが、わたしがどちらかというとあなたの意見と反対の発言ばかりしてるのに・・・えっと、お名前何とおっしゃいましたっけ?」
と、その人の方に手を伸ばした途端、その人とわたしの中間に座っていた女性が急に「アア コワイコワイコワイ」と声を上げた。

思いもよらない展開にわたしの方が驚いた。驚いたし、大げさではなくこちらの方がいきなり刃物で切り付けられたような「衝撃」を受けた。あの時、その女性の言葉がもっと別のものだったら、(たとえば「こわいじゃないの」「いきなり手を伸ばさないでよ」等)わたしは二度とあの病院のデイケアに行くことはなかっただろう。
嘗て、「あなたの声が大きすぎて仕事にならない」とヤマトのサービスセンターで同僚の女性に言われて、翌日直ちに仕事を辞めたように。

その後、「コミュニケーションをとる時に気を付けていることは何ですか?」という質問に、3人が「人の嫌がることを言わない(しない)」と答えていた。だがそれは不可能なことだ。わたしは声の大きさで人の仕事の妨害をし、一つ隣の人に手を伸ばしただけで怖れられた。誰をも傷つけないなどということは対人関係に於いては絵に描いた餅なのだ。

そして後半は、ひょんなことから、「食欲の秋」=「好きな食べ物」という話題になった。
これまでシベリアだったのが急にホノルルかフロリダかどこかに移ったようにそこに居る(ほぼ)全員の顔が明るくなり、皆がハイハイと手を上げて、好きな食べ物の話を「これがあの人?」という感じで、明るくハキハキと話すのだ。こんなみんなは初めて見た。
正に厚い雲が裂けて陽光が降り注いだといっても大げさではない様子だった。
もう少し分析的に言うなら、ずっと抑えてきたものが一気に噴き出したという感じ・・・

その中でわたし一人だけが、作り笑顔で沈黙していた。大勢が盛り上がっている雰囲気というのにどうしても馴染めないせいか、そもそも「食」にあまり関心がないせいかわからない。
まだ仕事をしていた頃のことを思い出した。
休み時間になると、どこでも必ずいくつかのグループで盛り上がっている。
大抵はスポーツの大会や、ワイドショーで取り上げられている話題なのだが、わたしはどうしても入っていけない、というよりも、自分に興味のない話に加わろうと思ったことがなかった。仮に興味のある話であっても、「集まって」というのに抵抗があった。

わたしは高校卒業以降、何かの話題で、グループでワイワイと盛り上がったことが一度もない。どんな話題であろうといつも醒めている。唯一の例外は一対一の場合のみ。

それからデイケアに通って、改めて気づいたことだが、わたしは昔から講演会で200人の聴衆のいる中でも、質疑応答の時間になると真っ先に手を上げて、「異論を」述べていた。
その場にいる老若男女200人がわたしに注目していても何も感じなかった。

ところが、デイケアで、プログラムの前や後、ちょっとあの人と話してみたいなと思ってもそれができない。拒絶的拒否的な反応をされるのが怖いのだ。

壇上の著名な講師に向かって反論をぶつけることは怖くはない。何故ならそういう疑問をぶつける時間であるから。けれども個人的に声を掛けるとなると、極端な話、椅子を立って別の場所に行かれてしまうことさえある。同世代や年配の同性に対しても同じ怯えがある。
露骨に席を立つなんてことはないだろうが、微かな表情に拒絶の気配を感じ取ってしまう。先日話を聞いてくれたスタッフのTさんだって、帰り際、「お先に失礼します」と言った時のちょっとした表情にも「ああ、ジツハ キラワレテルナ」と感じてしまう。

ちょっとした語尾のトーン、言いながら、チラと壁の時計に目をやる、机の上の書類をめくる等。

デイケアに参加して、「気づく」ことは少なくないが、どちらかというと、自分の弱点ばかりの気づきであることに気付くのだ。

そして今日の「コワイコワイコワイ」が今後どのようにわたしの傷として尾を引いてゆくのか?









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