「おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。おまえはそれを否認できないだろう。お前は自分の記憶を吟味し、点検するがいい……いや、はっきりした違反はないし、誰の地位も奪っていないし、誰も殴らなかったし……誰のパンも奪わなかった。しかしそれを否認することはできない。それは単なる仮定だし、疑惑の影である。すべてのものが兄弟を殺したカインで、わたしたちのおのおのは……隣人の地位を奪い、彼に取って代わって生きている。これは仮定だが、心を蝕む。これは木食い虫のように非常に深い部分に巣食っている。それは外からは見えないが、心を蝕み、耳障りな音を立てる」
ープリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』(八四ー八五頁)
散文では「心を蝕み、耳障りな音を立てる」と書かれている部分を詩で書くと、
「下がれ、ここから立ち退け、溺れたものたちよ……」というような表現になるのだ。この詩を読んで分かるのは、1984年の時点で、レーヴィの心は明らかに「むしばまれて」いたことだ。「予期せぬ時に」現れたのは、レーヴィが生き残ったことを非難し弾劾する死者の群れだった。これは恐ろしいことだったろう。そしてそれを詩に書くのは、この恐ろしさに形を与えることで、更なる精神的負担がかかっただろう。だが彼はあえてこの詩を書き、その冒頭にある「予期せぬ時に」という言葉を詩集のタイトルにした。
プリーモ・レーヴィ「生き残り」解説
『プリーモ・レーヴィ全詩集ー予期せぬ時に』竹山博英訳(2019年)より
◇
わたしに向けられる如何なる悪罵、中傷、批判に対しても、わたしの心はこうささやく、
「おまえはそれを否認できないだろう」・・・
プリーモは別の詩の最後で
「私が今こうして生きているのは私の罪ではない!」と叫んでいる
しかしプリーモが敢えてそう叫んだのは、叫ばずにいられなかったのは何故か?
そしてわたしは、わたしを「罪人」と呼んだ者に、わたしの生を「罪」と断じた者たちに対して
「わたしが今こうして生きているのはわたしの罪ではない!」と抗弁できるだろうか?
わたしを傷つける者は常に正しい。わたしの「傷」がそれを証ししている・・・
わたしの心が耳元で囁く
「おまえはそれを否認できないだろう」・・・
こんにちは, Takeo さん.
返信削除ここで紹介されているプリーモ・レーヴィの詩もいいですね. 冒頭の言葉の数々をまるで自分が浴びているような気になってしまいます.
Takeo さんが書いているように, プリーモ・レーヴィにとって, この死者からの言葉は本当に恐ろしいものだったろうと思います.
おそらく強制収容所では, そこに収容された人びとへの非人間的な扱いとは別に, 同じ苦しみの元にいる同胞たちとの間にも暗く歪んだ関係性があったのではないかと思うのです. 私がこの詩を何度も読み, 共感を抱くのはそのためです.
「社会と向き合える自分自身を構築し直す」, 以前の主治医からこう言われて私はデイケアに参加することになりました. そこで様々な心の病を抱えたメンバーと出会いました. 不思議と心が安まる空間だと感じたのを覚えています.
けれども振り返ってみてわかるのですが, 私の中には同じ心を病んだデイケアの他のメンバーに対する蔑みがありました.
自分は彼らとは違う. 彼らは絶望的だ. 沈んだままの絶望だ. しかし自分は仕事に復帰するし, 彼らより上の人間だ.
こういう意識が確かにあったのです. 10 年以上に渡って. そして現在でも未だにあるのです.
書いていて, あまりの醜さに反吐が出るようです.
鬱が苦しいときにこのような自分に対する罪悪感が湧いてくることがあります. 私は堪えられません. あまりの苦しさに倒れて動けなくなります. どんなことをしても償えないし, この意識が自分の根源的な性質から発生している以上どんなことをしても無くせるものではない.
今, 多少の動揺はあるにせよこのように文章に纏めることができているのは, 上述のプリーモ・レーヴィの詩の言葉に, 取り返しの付かない自分を重ね合わせることができるように感じるからです. レーヴィの言葉を通じて, 自分の醜さを静かに見つめることができるように思えるからです.
Takeo さんは
> 何故差別は悪いことなのか?
と問いかけました.
この問いに対して, 差別の根底には人間の尊厳への暴力があるから, と答えたい自分がいます. けれどもできません. 私自身がその暴力を行使していた人間だから. 今でもその暴力を懸命に抑えている人間だからです. そのような人間が「人間の尊厳への暴力」などと口にすることはできません. 私は差別をする人間です.
どうにも許容できない程の醜い精神を宿してしまった肉の塊を引き摺って, 私はだらだらと今日を明日に繫げる毎日を送っています. 陳腐な表現になりますが, 地獄だと思うことがあります.
罪悪感に苛まれて寝込む中で, 社会が悪いから自分はここまで追い込まれただとか, 自分は犠牲者だとか, デイケアの他のメンバーもきっと同じようなことを思っているだろうから自分を責めなくとも良いだとか, 何とかして何処かに逃げ道を見つけようとしますが駄目です.
レーヴィという人の詩には凄まじい力がありますね. いろいろと言葉を探したのですが「力」と言う他ありませんでした.
この詩の一節に触れることができたのは幸運でした. 私の罪が贖えるわけではありませんが, 少し救われたと思います.
-=-=-=-
先日のふたつさんと Takeo さんのやり取りを読んで印象的だったことがあります.
> >「その個人以外成し得ない感覚」というのは, それがその個人の気質や感受性や感情や理性によってあまりにも深く裏打ちされているからです.
> それが「普遍性」であると思っています。
> 極限まで個人的であるものだからこそ、普遍性を持ち得るのだと。
Takeo さんのこの言葉は一般的な理屈としてわかります. けれども受け入れようとする私の心に抵抗がありました. 同じ心の抵抗を感じた文章はもう一つあって, ふたつさんの次の言葉です.
> いかに『「自分」を知り得るか』、いかに『「自分」を現せるか』、いかに『「自分」を伝えられるか』、そして、その過程で、「意味を創り出すこと」、これが現在の「芸術」のある場所だと思います。
私なりに考えてみて, これらの抵抗の背後には「他者とのコミュニケーションの恐怖」「他者の拒絶」があるのかな, と思いました.
私が描く鬱の苦しみからの逃避の絵を, 私は自分だけのものにしておきたいのです.
それが普遍性を持つことに激しい恐怖があります. 自分の一部が絵を介して他者に伝わり, 共有する結果になることを極端に恐れています.
ですからアトリエの小さな展覧会に出品された私の絵は, 私個人とは一切の繋がりを持たない色彩のパターンを持った紙に過ぎないと考えるのですね. 他者との共有などさせない, と思いたいのです. それくらい他者を恐れているということなのでしょう.
しかし実はこれは自己欺瞞であって破綻しています. 先の文章でも触れたのですが, このような私と並行して他者が自分の絵を見てくれることに喜びを感じる自分が存在しているからです.
ふたつさんはまた別の箇所で
> 以上のことから、ぼくは、現在に限って言えば、「芸術」と「芸術作品」は不可分であると思いますし、「美」と「芸術」は、分けられる(すでに分けられている)と思います。
> ただ、それを誰も説明していませんし、決まって『考えるな!感じろ!』と言われますから、ある人は「美の追求」を今でも「芸術の目標」だと信じていますし、ある人は、『「道に落ちているゴミ」でも芸術だ!』と主張しているわけです。
とも書いていますね. ここには芸術の向かう方向を探し求める創作者の, 悪銭苦闘のドキュメントを感じました. 詳細はわかりませんが, 「美」に頼れる場所から離れて, 新しい大地を開拓するために自分を追い込み切り刻む表現者の苦痛・苦悩を想像します.
この文章は私に何らかの道標を与えてくれていると思いました. それは他者や社会とのコミュニケーションへの恐怖を抱えた自分が, どうすればこの恐怖から解放されるのかに関するヒントになるかも知れないものです.
「芸術」と「芸術作品」が不可分ということならば, 最初のふたつさんの言葉や Takeo さんの普遍性に関する指摘に照らして人の「自我」とその人の「生」は不可分なのではないでしょうか.
私のコミュニケーション恐怖の奥には「自分が何処にも居ない」という苦痛があるのですが, 「自我」と「生」が不可分であるならば私が「自分が居る場所」即ち「私の生」を見出だす手段は, 何れかの手段によって自我を再び芽生えさせる・見出だすしか無いということになるのではないかと思うのです. そのことによってのみ, この苦痛は治癒するのではないかと思うのです.
私はもう少し深く内に進んでみようと思います.
こういう認識を得られたことは良かったです. ありがとうございます.
こんばんは、底彦さん。
削除先ず些細な訂正です。わたしが読み易いようにと、変なところで改行してしまったので紛らわしくなったのだと思います。
冒頭の「おまえは」から「心を蝕み、耳障りな音を立てる」までは、プリーモの最後の著作となった『溺れるものと救われるもの』という本の一部です。
それを訳者の竹山博英さんが、詩集に収められている「生き残り」という詩の解説のために引用したものです。
わたし自身の文章は、
◇の印以下になります。
と、どうでもいい補足をしました。この文章は十分に「詩」として通用するものです。
ビートニクの詩人ジャック・ケルアックは、出版社に、これは「詩じゃない散文だ」と出版を拒否された時に、「詩であるかないかは形式ではなく何が書かれているかだ。現に、エマソンやソローの散文だって、改行すれば立派な詩じゃないか!」と反論しました。
引用した冒頭の文章は、もう20年以上も前でしょうか?はっきりとは覚えていませんが、確かほぼこのままの形で、新聞に掲載されていて、わたしはそれをノートに書き写しました。底彦さんの仰るように、それほど多くの人の心を打つものなのでしょう。
言い換えれば、極私的な体験、極めて個人的な心理状況でありながら、尚「普遍性」を持つということなのでしょう。「アウシュヴィッツの生き残り」であり「この文章を書いた3年後に自ら命を絶った」という極めて特殊な生を生きた一人の人の言葉が、一見なんの繋がりも共通点も見いだせないような人の心に深く沁み込んでゆく。今更ながら、「普遍的」であるということの不思議さを思います。
プリーモにしても、以前に紹介した、シベリアのラーゲリ(強制収容所)からの帰還者である詩人石原吉郎にしても、彼らの文章で何よりも衝撃を受けるのは、彼らを生涯苦しめたものが、ナチ以上に、シベリアのロシア人以上に、「生き残った」という状況・境遇であったということです。
今はこのことについてこれ以上考えを推し進めることができません。
ただ、彼らは、「死者たちに責められて」苦しんでいたのでしょうか?或いは「自分自らを責めて・・・責めずにはいられなかったのでしょうか?」
「いま、私がこうして生きているのは私の罪ではない!」
底彦さんがプリーモの言葉に深く反応するように、わたしも彼のこの悲痛な叫びに自分を重ね合わせます。
わたしの中にもいつも・・・とはいわなくとも、「今ここにこうしてここにあることの罪の意識」が根深くあります。それはわたしは誰かの犠牲の上に生かされているという意識に他なりません。その誰かとは、他ならぬ高齢の母です。
そしてその意識が、冒頭の文章へと繋がってゆくのです。
それはプリーモの味わった苦悩に対する傍観者としての共感ではなく、正に「わたしのこと」なのです。
ですからわたしはせめて誰かに「鞭打たれる者」でなければならないという意識から自由になれません。肉体が飽食暖衣している以上、心は、精神は、魂は、何者かに「鞭打たれなければならない」常に苦痛を感じていなければ許されないと思うのです。
もちろん鞭打たれることによって、わたしの精神がどんどん疲弊してゆくことは、却って母の心配を増やすという結果になるのですが、無傷でいてはいけない、そんなことは許されることではないという気持ちが勝ってしまうのです。
◇
底彦さんの同じデイケアの仲間に対する正直な気持ちを聞くことができて、不思議にすがすがしい・・・うまい表現が見つかりませんが・・・そのような、どうしようもなく見せつけられてしまう自分の内面のドス黒い感情。否定しきれない、消し去ることのできない思い。その思いに、のたうち回るほどの苦しみを感じることができること。それが唯一の救いではないでしょうか?その苦しみがなくなった時に、魂は死ぬのだと思います。
「自分の醜さに反吐が出る!」と、口先だけではなく言える人がどれほどいるでしょうか?わたしには確信が持てません。
そして心からそう言える・思える人を尊びます。
「己の醜さを知った時からその人は浄化される」などとお気楽なことを考えるほどわたしも暢気ではありません。
ふたつさんと、Junkoさんの意見を読んでいて、この点は明らかに違うと感じていました。わたしは最後まで醜く、見苦しいまま、見苦しく死んでゆくでしょう。そしてそんな人間に最後に残された救いは「死」以外にないと、最近読んだ誰かの詩に書かれていました。
プリーモの言葉同様に、底彦さんの言葉も、わたしの心に何の抵抗もなく、嫌悪感も忌避感もなく、染み込んできました。ある意味、冒頭のプリーモの述懐に匹敵する力を持って。
わたしのチャラチャラした上っ面の言葉よりも、数倍の実質と重量とを伴った言葉を聞くことができました。感謝しています。
◇
例えば、上記のプリーモの文章や、彼のルドルフ・アイヒマンに向けた呪いの詩、これらを「美」ではないと言えるでしょうか。美とは生を賛美し、死を遠ざけるものでしょうか?
わたし個人の意見としては「「美」と「芸術」は分けられる」というふたつさんの意見にはいささか懐疑的です。何故なら、わたしの中では、何が「美」であるか、という明確な定義が存在しないからです。「これは美ではない」と言える確かなものがあって初めて、「美」と「藝術」は分けられると言えるのではないでしょうか。
つまり「わたし」は、『「道に落ちているゴミ」でも芸術だ!』ともいえるし、『「道に落ちているゴミ」でも美だ!』と言えるのです
◇
「自我」と「生一般」は分けられると思います。「自我」とは代替不能な一回限りの、「他ならぬこの私の生」であり「実存」であると言えるでしょう。一方で生(一般)はその逆と考えていいとおもいます。つまりリルケが「誰のものでも無い死」と言ったのは、そこに至る生が、「誰のものでも無い生」であったからに他なりません。
自分が何処にもいない=アノニマスであるという意味は、固有の生の不在、或いはそれが見つからないからではないでしょうか。自我を獲得するためには、生一般からの分離を意味するのだと思います。
>「私の生」を見出だす手段は, 何れかの手段によって自我を再び芽生えさせる・見出だすしか無いということになるのではないかと思うのです.
まったくその通りだと思います。「わたし」というのは、「まったくわたしではない存在」の中にあって初めて成り立つ概念であると木村敏も書いています。
まったく、ここは他の3人の深く中身の濃いコメントによって支えられているのだということをいつも感じています。
自分よりも優れた人物を読者に持つということは、書き手にとって、励みにもなり、またプレッシャーにもなります。
充実したコメントに対し、とても十分とはいい難い返信にしかなりませんが、
お話を聞かせて頂きありがとうございました。
こんばんは。
返信削除やや、わかりにくく成るかもしれませんが、他の記事に対するコメントもまとめて、ここに書きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まず、「PVが0または1」ということですが、これはあり得ません。
ぼくは、毎日二回くらいは見てますから。
とにかく、このブログを見ている人は、けっこう居ます。
これは、こちらよりも随分「閑古鳥なブログ」を5年間やってきた者(わたし)の直感ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次に、Takeoさんは、先日コメントの中で、
『底彦さんは、過去に自分に浴びせかけられた罵倒、人格を否定する言葉が時折フラッシュバックすると仰っています。
そのような「いわれなき」中傷に対して、自分の内面で反証を行う、そして「故に彼の暴言は事実無根である」という結論に=つまり「正解」に至るのであれば「認知行動療法」は有効だと思います。』
と言っています。
しかし、そのあとで、
『つまり、わたしを傷つけた言葉たちが、本当に「いわれなき悪意」であるのか?それとも、半分くらいは真実を突いているのではないかという判断が、わたしにはつかないのです。わたしの心の中にはいつも自己否定の感情が横たわっています。ですから、彼/彼女の言ったことが事実無根であるという確信がどうしても持てないのです。「図星を言われたから傷ついてるんじゃないか?だとすれば先方に非はないはずだ」と。そこでわたしが底彦さんに対しては全肯定する「認知行動療法」が、自分にとっては、「自分に都合の悪いことから目を背けているだけじゃないか?」という「懐疑」に結びつくのです。』
と仰っていますが、これは、根本的な点を外しています。
つまり、『いわれがあれば、認めるしかないのか?』という点が吟味されていません。
実を言うと、吟味する必要があるのは「いわれがあるかどうか」ではなく、「悪意があるかどうか」だと思います。
(ここで言う「悪意」というのは「悪に対する自覚」ですね)
Takeoさんは、「Takeoさんが責められるいわれ=彼らの正当性」を否定することが出来ないかもしれませんが、「自分の中の悪意」については、どうでしょう?
ぼくから見ていると「Takeoさんの中にある悪意」は「弱者を圧する悪意に対する悪意」に限定されていると思いますよ。
これは、ぼくが前にコメントに書いたことと同じで、「悪意に対する悪意」を「悪意」と言ってしまったら、「悪意」=「被・悪意」という矛盾が生じてしまうので、それはあり得ませんし、それを「悪意」とは言いません。
これは、実はTakeoさん自身も気づいていることだと思います。
だからこそ、
『底彦さんの認知行動療法を全面的に支持するわたしは、また、「いじめられる側にも責任がある」という発想を、最も忌み嫌う者でもあります。』
『それでも、自分を悪くいう者の発言に対してだけは、否定しきれないものを抱えているのです。「否定していいのか?」「否定できるのか?」という感情から抜け出せないのです。』
と、あえて言っているんだと思います。
そして、ここで、ぼくが確実に言えることが一つだけあります。
それは、『Takeoさんを責めている人たちの中には、Takeoさんに対する悪意がある』ということです。
つまり、彼らの中には「悪に対する潜在的な自覚」があるということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、Takeoさんが抱いている「懐疑」は底彦さんの中にある「自己否定感」や「自己懐疑心」とほぼ同じものだと思いますよ。
だからこそ、底彦さんもなかなか抜け出せない状態にあるんだと思います。
そして、その「懐疑」というのが、ぼくが言っている「生きることの持っている根源的な不安」に由来していると思うわけです。
つまり、「生誕の災厄」ですね。
これがあるから、「人から受けた否定」を跳ね返せなくなりますし、結果的に自己を否定するようにもなってしまうんだと思います。
根源的に不安なわけですから、どうしたって「自信が持てる根拠」がないということに成ってしまうんですね。
一般的には、『そこは見ないようにして通過する』という人が多いわけですが、何らかの理由で、そこに目をやってしまった人は、そのあまりにも深遠で、あまりにも根源的で、あまりにも解消不可能な「不安」に囚われて抜け出せなくなるんだと思います。
そこに目を奪われてしまうきっかけは様々だと思いますが、一度そこに目を奪われてしまうと、多くの場合なかなか抜け出せなくなると思います。
底彦さんもTakeoさんも、どこかでは、ご自分たちの「自己否定感」が、根拠のないものであるということに気づいては居るでしょう。
また、それが完全に外界由来のものではないということにも気付いているのでしょうが、それがなかなか納得いくような形で認められずにいるんだと思います。
それでいて、完全に自己の内部から発生したものだと考えるにも、納得いくだけの根拠を見出せずにいるということではないでしょうか?
(この場合、「外界由来」であることは、『環境に原因がある』ということで、「自己内由来」であることは、『自分に原因がある』ということを意味します)
さらに、それらが「外界由来」であったとしても、「自己内由来」であったとしても、どちらにしても、そこに「それを解消する答え」が得られることはありませんから、逃れようがありません。
そして、底彦さんもTakeoさんも、その「逃れようのない不安」を人生全般に当てはめてしまっているんだと思います。
これは、ある意味では、「正しい」と言えなくもないわけです。
「生きることの持っている根源的な不安」ですから、それを人生全般に当てはめて考えるように成ることは、むしろ、当然の結果です。
しかし、実を言うと、もう一方で『世界は常に矛盾をはらんでいる』ということがあります。
そして、その「矛盾」とは、つまるところ「偶然」であり、「無根拠」であり、「デタラメ」ですらあるわけで、そこに「正当性」などないわけです。
要するに、「正当な理由」や「確実な根拠」があって、「世界の様相」が決定されているというよりは、「無根拠な世界の有り様」をもって、それを「法則」とか「摂理」と呼んでいるだけなんだと言う方が、むしろ真実に近いともいえるわけです。
(どっちでも、同じですが)
ぼく自身は、このようなことを、『全てのものごとは、常にねじれながら反転し続けていて、その変化のすべてを差し引きすると、いかなる瞬間・いかなる場面を切り取った場合でも、常に「0」に成る』と解釈しています。
その結果、あらゆる「不合理」が「合理」とつながることに成り、すべてのことが「正しい」と同時に「間違っている」、ありとあらゆるものは「完全」でもあり「無」でもあるという状況なんだと思っています。
まぁ、そうは言っても、「自然」・「世界」・「次元」といった、人間にはとうてい把握できないようなことというのは、本当のことを言えば、『考えても無駄』というのが、人間の限度だと思います。
でも、それを考えてしまうのが人間ですから、仕方ないですね。
けっきょく、「思慮深い人」は、必ずと言っていいほど、この「自己否定感」や「厭世観」に陥ることに成ると思いますよ。
ただし、これをいつまで続けるか?
という部分には、必ずしも「思慮深さ」がかかわっているとは限らないという気がします。
同じ考えが、堂々巡りを始めたら、それは手放してもいいように思います。
というか、同じ思考を反復し続けることを「思考」というのか?という疑問が出てくるわけで、その時「その堂々巡り」と止めて、「新たな思考」へ移行することを、否定的に考えるだけの根拠はほとんど見つからないと思います。
これを、前に、ぼくは「思考の迷宮」といったわけです。
「思考の迷宮」を出入りすることを、『初めから見ないようにして通過する=考えない』というのとは、根本的に違うことだと言っていいように思いますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
文字制限にかかってしまいました。
4096文字以下で入力してください。
ということのようです。
次に続けます。
つづきです。
返信削除~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、「美」と「芸術」の関係ですが、ぼくが言った「美」とは「美という概念」のことです。
だから、一人一人の「美」がみんな「チガウ美」であっても、その「美というもの」を追求することを目標とするという方向性を「現在の芸術」が、すでに失ってしまっているということを言ったわけです。
それが、約100年ほど前に芸術の世界で起きたことであるという話です。
だから、これは芸術の歴史の中で起きたことの話であって、ぼくの意見というものではありません。
もちろん、起きたことの解釈としては、ぼくの解釈ではあります。
それから、ぼくは、今も「美」を追求することが間違いだといっているわけでもありませんし、「道端のゴミ」が芸術だという主張も間違いだとは思っていません。
そこに「芸術性」を見出すことは可能だと思いますし、それを「芸術」だということに何の問題もありません。
ただし、それが「芸術の中心」であるかどうか?ということが全く問われない状態が100年以上続いてしまっているという現状に、ぼくは疑問を持っているわけです。
それで、「芸術の20世紀」を喪失するという前提で、創作しているというようなことです。
ぼくは、「道端のゴミ」は「芸術の断片」ではあり得ると思いますが、「芸術の中心」を成すことは出来ないと思っています。
「料理」で言えば、野菜や肉やスパイスを並べて、それを「料理の素材」ということはできますが、「料理」ということには問題があります。
でも、無理すれば,それを食べることはできますし、場合によっては美味しいかもしれません。
でも、それは「料理」ではなく「料理の断片」なのです。
料理人が、それを、あくまで「料理」であると主張して、金をとって提供していたらどうなるかは明らかですし、金をとらなくてもその結果はたいして変わらないでしょう。
でも、「芸術」でだけは、100年以上の間その主張が通ってきています。
それどころか、「画面を一色で塗りつぶした絵(時に一本くらいは線が引いてあったりする)」の値段は天井知らずに上がっていく一方です
なぜなら、「芸術の断片」が「芸術」と区別されていないからです。
「現代美術」というカテゴリで解釈される作品は、ほとんどの場合(全てと言ってもいいかもしれません)、この「芸術の断片」を『いかに芸術らしく見せるか』という「見せ方」を提供しています。
逆に言うと、そういう「見せ方」をしていない作品は、「現代美術」とはみなされないか、または、全く評価の対象外という扱いを受けるかのどちらかです。
要するに、『真面目にやっちゃあダメなんだよ、キミィ』ということです。
それ以外の生き残る道は、『「芸術」を捨てて「技術」をとる』という道です。
現在でも、「わかりやすい技術」は一定の評価を与えられます。
「アカデミズムを破壊したこと」これは、間違いではなかったと思います。
「芸術の外郭を解放したこと=あらゆることが芸術と成り得るという設定をしたこと」これも、必要だったんだと思います。
しかし、「芸術の中心を全く規定しなかったこと」これが、混迷を生み出しました。
そして、その「混迷」こそが、実を言えば、底彦さんやTakeoさんを苦しめている原因とも重なっていると、ぼくは思っているんです。
これは、話し出すとものすごく長くなってしまうので、ここでは無理です。
(といっても、これといった結論があるわけでもないし)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つぎに、「芸術の個別性(個人性)」と「芸術の普遍性」の関係についてです。
これもまた、難しいことですから、結論と言えるほどのモノは出てきませんが、こんな考えもありますよという程度の話です。
ぼくは、これを、やはり食べ物に例えています。
(食い意地が張っているので、大体のことを「食べること」とダブらせて考える習性があります)
食べ物の好みは千差万別ですし、全ての人が好きなものなどどこにもありません。
逆に、すべての人が嫌いなものも存在しません。
そして、なにを『好き』というのも、なにを『嫌い』というのも、その人の自由ですし、誰かから否定されるようなことでもありません。
それでも、やはり「美味いもの」はありますし、「不味いもの」もあります。
というか、「美味い」や「不味い」という概念が存在しないといえば、それは無理しているとしか思えませんね。
高級なものが「美味い」とは限りませんし、「安物」が「不味い」とも限りませんし、「みんなが美味いというもの」が、「自分にとっての美味いもの」であるとも限りませんし、「みんなが『あれ激マズだよね』というもの」を自分が「美味い」と感じてしまうかも知れない。
それでも、やっぱり「美味い」と「不味い」はあります。
これは、「人間の本能」と関係していると思います。
人間は本能的に、自分の体に必要な食物を好むように出来ています。
それを見分けるために発達したのが「味覚」です。
だから、よほど特殊な人でない限り、ある程度似た味のモノを好むということです。
これは、「料理」同士で比べるとわかりにくく成ります。
「カレー」と「ユーカリの葉っぱ」だったら、わかりやすいです。
「ユーカリの葉っぱ」の方が好きな人は稀です。
たぶん、前世がコアラの人だけだと思いますから、稀です。
「笹の葉っぱ」だったら、もっと稀です。
パンダの方が希少種ですから。
とにかく、まったく同じ好みの人も居ませんが、「ユーカリの葉っぱ」くらい変わった好みの人もめったにいないわけですから、その偏りを「美味い」と言っても何の問題もなく話が通じるはずです。
実際、『あれ、美味いよね』と言って、『その美味いとは?』と聞く人はほとんどいませんし、その問答にほとんど意味はありません。
もっとも、つまらない言い方をすれば、「グルタミン酸=美味い」でもいいくらいです。
しかし、話が「芸術」に成ると、そう簡単にはいかなくなります。
そこに、上に書いたことがかかわってきます。
つまり、「芸術の外郭」も「芸術の中心」も、規定されていないということがあるために、なにを「美味い=いい」と言っていいのか、誰にも分らないし、誰にも言えないというのが現状なのです。
「グルタミン酸=美味い」に当たるのが「美しさ」です。
しかし、『それでは、その美しさとは?』と聞かれて答えられる人は、もう居ません。
『これが、「美しさ」のモデルである』と言ってしまえば、その瞬間から、それは「美しもの」ではなくなってしまいます。
これが、「芸術の個別性(個人性)」に当たるものです。
どんな人でも、『自分はこれが好き!』という権利が与えられたということですね。
でも、その「権利」、守られているでしょうか?
ど素人が「好き」といったことと、大先生が『いいんじゃないの?これなんか、どうよ』といったのは、雲泥の差がありますよね。
まず、これが、完全に同列に扱われて、はじめて「芸術」や「美」が「個」に依拠するといえるように成ると思います。
そして、それとは別のこととしてに成りますが、「料理」における「美味い」と同じで、実際には「芸術」においても、「いい」はあるはずです。
それは、「料理」と同じで、「みんながいいと言うもの」は無いし、「みんながダメと言うもの」も無いというだけなのです。
ただし、「芸術」においては、『その幅が際限ないほどに広い』という条件が加味されるということに成ります。
だから、実質上、ほとんど「個」に属することにはなります。
でも、それでも、やはり、「芸術」における「いい」はありますし、「普遍性」もあります。
つまり、「いい」について話をすることは出来るということです。
それは「いい」を共有することでもあります。
「自分のいい」と「他人のいい」が違っていても、それについて話すことはできますし、共有することもできます。
少なくとも、それは可能なことなのです。
でなければ、「芸術」という分野はもう存在していないはずですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に、底彦さんがおっしゃっている、『自分の絵を人に見せることがはばかられる』ということです。
お気持ちは、よくわかります。
でも、見せることが「喜び」でもあるという気持ちがあるのであれば、たぶん、そちらが、底彦さんの「本心」だと思いますよ。
「見せたくない人」は初めから見せませんし、その人の絵を、なんとしてでも見たいといってくれる人は、まず居ませんから、見せなければいいだけです。
あまりいい考え方とは言えませんが、人が誰かの絵を見たいという時は、その人の絵を馬鹿にしたい時ぐらいなのです。
(有名な人の絵は別です)
『どうせ、たいして上手くないだろうから、見てやろうじゃないか』ということですね。
だから、人に見せることは、ある意味で価値があります。
その人の反応を見れば、大体どういう人なのかがわかりますから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まったくまとまりがありませんが、それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除最初にお詫びしておきたいのは、頂いた2つ(?)のメッセージを10とすると、現在のわたしには、(現在の)と、限定できるのかどうかも怪しいですが、
おそらく3くらいのお返事しかお返しすることができません。
読んでいて、わたしには理解が及ばない部分が多かったのです。
ですから返信の質だけではなく、分量もそれに比例して、極めて簡単なものになってしまうと思います。
頂いたメッセージが理解できないということは、純粋に、「書かれていることがわからない」ということもありますが、ここ最近のわたしは、それこそ、「認知症外来」受診を考えているくらい「理解力」に問題があると感じています。理解力、そして、「自己同一性の崩壊」とでもいうのでしょうか。これまでもあった「自分とは何者なのか?」という迷いの度合いが目に言えて色濃くなってきている。先日ちょっと書いたように、「真夜中におはようございます!」と言っている自分にまるで気づいていないのではないか?というような疑いです。
以上のことから、まともな「返信」と呼べるものではないということを、あらかじめご容赦ください。
◇
>『いわれがあれば、認めるしかないのか?』という点が吟味されていません。
>実を言うと、吟味する必要があるのは「いわれがあるかどうか」ではなく、「悪意があるかどうか」だと思います。
(ここで言う「悪意」というのは「悪に対する自覚」ですね)
Takeoさんは、「Takeoさんが責められるいわれ=彼らの正当性」を否定することが出来ないかもしれませんが、「自分の中の悪意」については、どうでしょう?
「自分の中の悪意」はもちろんあります。よく「わたしはそんなに出来のいい人間じゃない」という言い方をしますが、それどころか、わたしは出来の悪い方の人間ですから、「悪意」は当然持っています。
そうなると、双方に「悪意がある」のなら、「おあいこ」ということになります。
>その「懐疑」というのが、ぼくが言っている「生きることの持っている根源的な不安」に由来していると思うわけです。
つまり、「生誕の災厄」ですね。
わたしに向けられた「悪意」なり「批判」を否定しきれないことを、人間存在の「原罪」のような誰にでも当てはまる普遍的なものに還元してしまってもいいものだろうか、という疑問があります。わたしが彼/彼女の言葉を跳ね返すことができないのは、もっと単純に、わたしが「2+2=5」と言っていることに対して、向こうが「2+2=4」である。と言ってることと同じなのではないでしょうか?
単純に向こうが「正しいこと」を言っているだけではないか?そう思えるのです。
もちろん「正しさ」といっても、「2+2=?」といった、誰にでもわかるような単純なものではありません。
ただ、わたしには、八月末に某ブログのコメント欄で、ある女性がわたしを冷静に批判した言葉に対して、深く傷ついているとともに、「彼女の言い分には一分の隙もない」とも感じているのです。つまり俗な言い方をすれば、あまりに身も蓋もない真実を言われて立つ瀬がない、という感じなのです。
わたしの心が未だに血を滴らせ、折に触れて、その言葉=「言葉によるわたしの正確な解剖」を思い出しては呻き声を上げているのが、その言葉の正当性を何よりも裏付けていると思うのです。
まったく事実無根であるという気持ちがどこかにあれば、これほどまでに、彼女の言葉に苦しめられることはないはずではないでしょうか?
「悪意を持って真実を語った」という場合。重視すべきは「悪意があること」でしょうか?それとも、「言ったことが真実である」ことでしょうか?
わたしにはその判断はつきかねます。
繰り返しになりますが、不完全で、死すべき存在である人間の根源的な不安と、わたし個人への批判に対する反応を同一の次元で語れるのだろうか、という思いが残ります。
「悪意のこもった真実」ということに関して、例えば、医師が患者に向かって、「あなたこりゃもう手遅れだよ。助からないね。もう長くないよ」ということ。
これは病の進行具合としては、末期に来ているかもしれないという「真実」と、それに加えて、まったく患者の気持ちを顧みることのない物言いという「医者としての倫理」の問題を孕みます。わたしも昔から「医療者の心無い言葉」には随分と傷ついてきました。有志が出版した、医師たちのとても信じられないような暴言を集めた小冊子も持っています。
それはまさにプリーモが、「人間がいかに非人間的な存在であるかを何度も見てきた」という言葉に重なります。
底彦さんの言葉ではありませんが、このことに関してはわたしの思考はここで行き止まりです。
そしてある人たちにとっては「私の言葉で傷ついた?それが私と何の関係があるのですか?」ということになるということです。
一つ目のコメントについてはわたしが今言えるのはこの程度です。
わたしには「傷」がある。苦しみがある。言った方には「真実」がある「正当性」がある。そしてその「正しさ」はわたし自身認めざるを得ない。
僅かに残る冷静さの中で読み返してみると、かなりいびつな考え方のように見えますが、その「歪さ」こそが、いまのわたしの心の在り方を、言外に物語っているのだと思います。
二つ目のコメントについて。
削除これも上記と同じ言い訳をしてから始めます。
◇
わたしにはふたつさんの主張される「藝術の断片」と「藝術の中心」というものがよくわからないのです。
乏しい知識から推測すると、ふたつさんの主張は、「藝術の中心」という主張は、藝術が藝術であるためには、それなりの知識と、労力と、努力と、ある種の求道的精神が必須であるというように聞こえるのです。これはおそらく「古典派的」芸術観でしょうか?ご存知のように、プラトンは、われわれ個々人から離れたところに、絶対的な「真・全・美」が存在するという「イデア」=「理想形」というものを想定しました。ですから、個々の作品は、その絶対的・客観的な「イデア」にどれだけ近づいているかで、その価値が量られます。
ふと「マエストロ」という言葉が思い浮かびました。多分「親方」というような意味ではないかと思います。なんとなくふたつさんの言われる芸術論は、藝術というよりも、「職人芸」に近いのかなと思いました。つまり「マエストロ」の作ったものが本物なのです。弟子たちは、できる限り「マエストロ」のように作ることから始めなければなりません。
わたしは「アーツ・アンド・クラフツ」運動や、日本の「民芸」というものが藝術ではないとは思わないのです。厳密には、それを作るのは芸術家(アーティスト)ではなく「職人」(アルチザン)ですけれども。
それに対して、ふたつさんの批判の対象になるのは、マルセル・デュシャンの「Found Object」「見出された物」のようなものなのかな?
つまり「男性用便器」を逆さまに展示して「泉」というタイトルをつける。
そこには労力も、精神性もありません。なぜならそれは「作られたもの」ではなく「見出されたもの」なのですから。
わたしは根が不真面目なものですから、ダダやシュールレアリストたちの作品でも、
現代芸術でも、なにかしら訴えてくるものがあれば面白いと思えるのです。
一方で、藝術になにがしか高貴な精神性を求めるというふたつさんの主張にも共鳴するのです。
以前書いたことですが、草野新平の詩に「冬眠」という作品があります。
「●」
これだけです。
わたしはこれを、「詩」でいいと思っています。
いろんな解釈=見方ができるでしょう?
◇
前回「美と藝術」「個別性と普遍性」で話したことを忘れてしまいました。
ただ、個人的には、美でも藝術でも、全く無規定であって構わないと思っています。
言い方を換えれば、何を美と感じようが全面的に個人の領分だ。という考えです。
わたしは村上隆のアートなど、言葉の品来の意味で、ゴミでしかないと思いますが、それを好きな人がいてもわたしに実害が無ければ、見なければいいという程度のものでしかありません。
ガイドや枠組みを必要とするのは、それが無いと自分にとって何が美であり何がアートであるか分からない人たちのものだと思っています。
>「芸術の外郭」も「芸術の中心」も、規定されていないということがあるために、なにを「美味い=いい」と言っていいのか、誰にも分らないし、誰にも言えないというのが現状なのです。
そうでしょうか?わたしにはわたしの「美ーおいしい」があり、ふたつさんにはふたつさんの「いい」があります。それは他人の趣味とはかかわりのない、個人的な「趣味の問題」です。
>でも、その「権利」、守られているでしょうか?
ど素人が「好き」といったことと、大先生が『いいんじゃないの?これなんか、どうよ』といったのは、雲泥の差がありますよね。
多分わたしとふたつさんの決定的な差は、実作者であるか、単なるアート好きであるかの違いだと思います。われわれ素人は、それを売らなければならないという必要がありませんから、好き勝手にあれがいいこれはダメと言えるのですが、これは出版会でも芸能界でも同じでしょうが、それが商品になるかならないかという要素を加えると、芸術に対する接し方も、見方も大きく違ってくると思います。
如何にして売るかだけではなく、そもそも芸術の存立から問い直さなければならないからです。
ふたつさんの主張を一人の製作者としての言葉として読めば、そこに一本一貫した筋道が通っていることがよくわかります。
こんばんは。
削除まず、最初の話ですが、Takeoさんの主張に依れば、世の中に「正しいこと」があるということに成りますが、そういうものは、あるとしても人間には把握できないと思います。
もし、そうならば、その「正しさ」を根拠にして、人に対して「悪意」を向けることが「正当」であることはあり得ません。
逆に言えば、その「正当性」を主張できる人は、「世界の真理」を知っているということに成りますが、それはあり得ないでしょう。
だから、Takeoさんのおっしゃる、
『「悪意を持って真実を語った」という場合。重視すべきは「悪意があること」でしょうか?それとも、「言ったことが真実である」ことでしょうか?』
これに対する、ぼくの意見は、『「悪意があること」の方がはるかに大きい』ですね。
なぜなら、「その誰かが言う真実」は「ニセモノ」に違いないからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次の、「芸術」についての話は、たぶん、ぼくの説明が不行き届きで、伝わっていませんが、それ以上は、ぼくの文章力では伝えるのが難しいので、またの機会にしようかなと思います。
今の時点で、言えることがあるとすれば、上のぼくのコメントを正反対の意味だと思って、読んでみてください』ということですね。
「芸術」の話は、どうしても難しくなります。
本当は、そんなはずがないんですが、そういう状況を創り出してしまったのが、「芸術の20世紀」です。
もしも、Takeoさんが、『「芸術」って難しく考えた方が面白いんだよね』と思っていないのであれば、それがぼくの言いたかったことです。
では、また。
追伸
削除ぼくが言った「ど素人」は、「ぼく自身」を想定した言葉です。
ぼくは、常に「創作者」と「鑑賞者」と「批評者」を対等に考えています。
こんばんは、ふたつさん。
削除わたしが今かんがえていること、最新の投稿でなんとか伝えようと試みたことは、
人と人との繋がり、コミュニケーションに於ける「非・言語的領域」についてです。
ここで言えば、ふたつさんは、わたしが理解していない、理解できないことに対しても、意を尽くして説明しようとしてくれています。
それに比べて、知的なレベルでの理解など何ほどのものでしょう?
何よりも大切なのは心遣いではないでしょうか?
そしてわたしにはふたつさんの芸術論は理解が困難ですが、心遣いはちゃんと受け取っています。
このブログはなによりもそういう繋がりを大事にしたいと思っています。
ここはアカデミーではないのだし、知識をひけらかす場所ではない。
優しい人がいる。それだけでもう水準は達しているのではないでしょうか?
わたしの誠意はやはり自分に対して誠実であること。
わたしにとっての真実はふたつさんの真実でともJunkoさんの真実とも、底彦さんの真実とも違うけれども、わたしにとっての真実を伝えること。そしてみなさんが話している相手がどういう人間であるかを知ってもらうこと。その愚かしさ、頑なさ、弱さ、醜さをさらけ出すことだと思っています。
本当はもっと底彦さんが励まされるような、Junkoさんの言われた、「闇の香り」を届けられるような物を作りたい。そしてなによりも自分が納得のいくものを書きたい。
それが読んでくださっている人たちへわたしができる唯一のことだと思います。
わたしはきわめて不作法で、不器用で、そして怠惰な人間です。
もっとマシな人間になりたいと思います。
話がそれましたが、いまのわたしの気持ちをお伝えしたいと思いました。
ー追伸ー
削除何を言いたいかと言えば、心を深く蝕まれたものには真っ当な議論は通じにくいということ。けれども、ものがわからなくなった人間でも、人のぬくもり、やさしさは通じるのだということです。これはわたしの祈り(希望・願望)でもあります。
もう少しだけ追加させてください。
削除愚痴です。
弱音です。
無視してくださいね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ぼくは、自分の絵を売るための活動はしていません。
個展:なし
受賞:なし
学歴:なし
評価:なし
販売実績:なし
つまり「実績0」。
それどころか、人に絵を見てもらう機会もほとんどありません。
ぼくが自分の絵を、直に見てもらったことがある人というのは、6人で、そのうち一人は装飾美術の仕事で知り合った方ですが、ほかの5人は、美術とは無縁の方たちで、しかも、その5人の内訳は、たまたま自分がかかっていた歯医者さんや、いま借りている家の不動産屋さんや、たまたま家に修繕に入ってくれた大工さんだったりというような、相手の方たちからすれば「押し売り?」と取られかねない人たちです。
『こちらが持っていきますから、絵を見てもらえないですか?』と言って、断られたことも一度や二度ではありません。
こんな状況でも、『絵を売るために描いている』と、人から言われてしまいます。
いや、Takeoさんのことではないです。
今までに何度も言われています。
それとは、まったく反対に、『それで、売れてるの?』『ところで、賞とか取ったことあるの?』『なぁんだ、趣味でやってるのね』『あなたはよくても、奥さんが大変でしょう』
これらもよく言われます。
いったい、どうすれば、いいんでしょう?
こんばんは。
削除そうでしたか。わたしはふたつさんが、絵を描いてそれを売って収入を得ている人だと勘違いしていました。
>『それで、売れてるの?』『ところで、賞とか取ったことあるの?』『なぁんだ、趣味でやってるのね』『あなたはよくても、奥さんが大変でしょう』
以上の言葉は全くわたしの理解を超えているので、何と言っていいのか分からないというのが本音です。
>『それで、売れてるの? :売れてなきゃマズいですか?
>『ところで、賞とか取ったことあるの?』:賞を取ってなければいけませんか?
>『なぁんだ、趣味でやってるのね』:絵を描くことには変わりはありませんが?
>『あなたはよくても、奥さんが大変でしょう』:大きなお世話です。
『なぁんだ、趣味でやってるのね』カフカは生涯銀行員でした。
ハーマン・メルヴィルも勤め人でした。
藝術だけでは生活できない偉大な芸術家は他にもいるはずです。
つまり「売れていないこと」「賞をもらったことがないこと」「それだけで生活を賄える収入が無いこと(または完全に趣味としてやっていること)」のどこに問題があるのか?ということがわたしにはわからならないのです。
ご覧になったかもしれませんが、往年のフランス映画に『モンパルナスの灯』というジャック・ベッケル監督の名作があります。肺病に侵されながら、この冬を越せるかどうかもわからないモジリアニは、真冬のカフェへ絵を売りに行きます。みな素描ですが、カフェで談笑している人たちに、それを見せて歩く。でも誰も目もくれない。
パリの30年代です。結局一枚も絵が売れずに憔悴して家路をたどるモジリアニは、道に倒れて、帰らぬ人になりました。
この映画は完全な実話ではありませんが、無名な貧乏画家の絵などに一顧も与えないパリのスノッブたち。自分の画に命を懸けている一人の画家の姿。
ゴッホもそうですが、わたしは勝手に真の芸術家ってこういうものだという思い込みがあります。
>『こちらが持っていきますから、絵を見てもらえないですか?』
この言葉を読んで、わたしはモジリアニを思い出しました。
これがふたつさんの抱えている悩みであり現実生活での困難であれば、わたしは何のお力にもなれないし、なんのアドバイスも出来ませんが、ここに書かれているふたつさんの現実をそのまま受け入れます。つまり「イエス」です。
お話を聞かせて頂きありがとうございました。
こんばんは。
返信削除単なる愚痴に対して、こんなふうに、肯定していただけるだけで、もう十分です。
ところで、Takeoさんだと聞きやすいので、ついでに、お聞きしたいんですが、どうして、ぼくが絵を売ってお金を稼いでいると思ったんですか?
ブログを始めてから、特に、これらしい誤解をときどき感じることがあるんですが、ぼくは、一度も、そういうことを書いたこともないし、匂わせたこともないし、プロフィールにも一番初めに貼ってある文章にも、はっきりと『なんの実績もありません』『妻の収入に頼ってやっとの思いで制作にこぎつけました』と、かなりしつこいぐらいに書いてあるのに、どうして、そう思う人が居るのかが、まったくわからないんですよね。
これは、ぼくの「芸術の20世紀喪失宣言」という文章についても、同じで、どうも「古典回帰」という方向で解釈する人が多いみたいなんですが、自分では、そういうことを一切書いていないつもりなんで、どうして、そういう風に見えてしまうのか、いくら考えても、一向に分からないんです。
(タイトルのせいなんでしょうか?)
どんなに、適当な答えでも構いませんので、気軽にお答えいただければ、うれしいです。
どうか、助けると思って、お願いいたします。
それでは。
追伸:昔、グループ展にはお誘いいただいたことがありますが、全部断っていたので、もう、誰からも誘われなくなりました。
でも、個展を開くには、お金がないので、ぼくは、もう、自分の絵を人に見てもらうには、街中の人目につくところに放置することぐらいしか思いつかなくなりました。
(少しだけど、本気)
なんのために、描いているんでしょうか?ぼくは。
こんばんは。
削除>どうして、ぼくが絵を売ってお金を稼いでいると思ったんですか?
確かにそのようなことを仰ったことはありませんが、芸術や美に関してのふたつさんの文章を読んでいると、なんとなく、鑑賞者というより、制作者の意見という感じがするのです。わたしは「美」や「醜」について考えたり書いたりしていますが、それはあくまでも観念的な次元での話に過ぎません。もちろん絵を描かない詩人や哲学者が美について、または芸術について語ることは珍しいことではありませんが、ふたつさんの主張には、もっと現場にいる人独特の良くも悪くも強い「信念」のようなものを感じるのです。
やはりわたしの場合は、芸術についてやり取りをしている中で、「行間から感じ取った」のでしょう。でもわたしが感じ取った、この人は実際にモノをつくる人だ、という直感はそれほど的外れではないと思っています。
「古典回帰」については、やはりふたつさんの言葉の端々から、芸術に於ける精神性の重要さや、「美」という「中心」が必要であるという主張から、「どんなものでもアートと言えばいえる」という現代のアートの在り方へのプロテスト「〇〇に還れ!」という主張を感じるからです。
この〇〇にどのような言葉が入れられるのかはわたしにはわかりませんが。
街中で、絵を並べて売るのもいいんじゃありませんか?
全然問題ないと思います。いろんな条件が満たされていれば、わたしも手伝いたいくらいです。そしてわたしなら、多分やるでしょうね。
一枚も売れなくても、誰かの眼に触れた、ひとりでも足を止めてくれた人がいた。
手に取って眺めてくれた人がいた。それだけでもやる価値はあると思います。
現実にお手伝いはできませんが、わたしが隣にいると思ってください。
何のために描くのか?
わたしがこれを書いているのも、誰かと気持ちを共有できるかもしれないという希望があり、そしてなによりも書くことが好きで止められないからです。
有名無名を問わず、このような疑問に突き当たらない人の書くものはやはり薄ぺらいと思います。特に近現代の芸術に於いては。
応援しています。
こんにちは。
返信削除とにもかくにも、『応援しています。』という言葉を言われたのは、誰からに限らず、はじめてです。
(妻を除いて)
『ありがとう』
としか言えませんね。
だから、もう一度言います。
『ありがとう』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、ぼくは絵を売り買いするということ自体を否定的に考えています。
だから、「街中の人目につく所に放置する」といったのは、本当に置いてくるということですね。
つまり、不法投棄です。
でも、ぼくは多作ではないので、そんなことをしたら、すぐに絵がなくなってしまうので、なかなかできません。
『もしかしたら、拾ってくれる人が居るかも?』
『絵の裏に連絡先を貼っておいて、連絡を待つ』
『街の都市伝説のように「あそこに、なんか変な絵が置いてあるよ」と言い伝えに成る』
こんなイメージですね。
やって見たいです。
ストリート・アートは落書きですから、他人の領分を犯しているでしょう?
それに、簡単には消せないじゃないですか?
あれは、ある意味で「アリ」だとは思いますけど、ある意味では「ダメ」だとも思っているんですよね。
(バンクシーなんかも、「現状に一石を投じた」という意味での評価はしています)
『「芸術」は素晴らしいことなんだから、他人の領分を犯してもいいんだ』という主張に成ってはいけないような気がしています。
でも、置いてあるだけだったら、簡単に捨てることもできるし、持って帰ることもできる。
そういうのがやって見たいと思っていたりしますね。
あと、「街で絵を並べて見てもらう」ということは、実際に本気で考えたことがあるんですが、ぼくは、かなり絵を描くのが遅いので、それをやってしまうと、絵を描く時間が取れなくなってしまいますし、ぼくの場合は、妻があっての「芸術」なので、妻の負担を減らすために出来る限りは家事をやるようにしていますので(主に「平日の料理」に限られてしまいますが)、どうしても、時間が足りなくなってしまいます。
どう頑張っても、絵を描ける時間は一日に4~5時間くらい、その他の時間で家事をすると、ほとんど昼の時間は終わってしまうんですね。
インターネットは昼と夜に一回づつ見ることが多いですが、主に夜です。
今は、ブログの新しい記事を書いていないので、こちらに長めのコメントを書くことが出来る状態です。
それでも、「街で絵を並べて見てもらう」という考えは、捨てていなくて、例えば、曜日を決めて、その日だけはそれに徹するというようなことですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「絵を売ること」には否定的だといいましたが、これは「自分のこと」に限ったことでもなくて、「芸術全般」に対しての考えです。
「20世紀以降の芸術」は、「自己表現」だと思いますから、「芸術作品」というのは、「その人」なんですね。
だから、それを売り買いするということは、「人身売買」のようなところがあって、たとえ、「自分」であっても売ってはいけないし、一度売られた「人の魂」は売られ続け、買われ続けて、結果的には、亡霊のようにさまよい続けることに成ると思っているので、それはしないほうがいいような気がしているわけです。
ぼくの理想としては、「芸術福祉」という制度があって、「芸術者」は、それを商売にしなくても、生きていけるように成るという考え方ですね。
まぁ、出来るわけないですけどね。
理想ですから。
その次が、「レンタル制」です。
現在でも、「有名な作品」は実際に売り買いされることよりも、「美術展」などのたびに「レンタル」される機会の方が遥かに多いわけですが、それを「無名な作品」にまで広げていければいいんじゃないかなと思っています。
そして、「芸術作品」においては、「それを所有するという感覚」自体をやめて、管理する人だけを決めて、その管理者が「レンタル制」を仕切っていくという感覚で行けたらいいと思っています。
そして、なおかつ、その「レンタル制」において、「レンタル証明書」のようなものを発行して、いつどのような状況で、「その作品がレンタルされたかという事実」を記録していくんですね。
そして、その記録に基づいて、「借りた人」に何らかの「鑑賞者としての評価」やある程度の「利益還元」が行われていくという制度に成ります。
こういうことをやっていくと、「創作者」と「鑑賞者」と「批評者」の段差が少なく成っていくだろうと思っています。
でも、
『お前みたいなクズ野郎が、なにエラそうなこと言ってんだ!バカ野郎』
『はい、どうも、すいません』
ということです。
それでは、また。
こんばんは。
削除街角に持ち主もなくひっそりと置かれた一枚の絵。いいじゃないですか。
>『もしかしたら、拾ってくれる人が居るかも?』
『絵の裏に連絡先を貼っておいて、連絡を待つ』
『街の都市伝説のように「あそこに、なんか変な絵が置いてあるよ」と言い伝えに成る』
こんなイメージですね。
やって見たいです。
3番目はともかく、1と2はないこととは言えませんからやってみたらいいと思います。裏に住所が書いてあると、落とし物だと勘違いされる可能性があるので、「お気に召したらお持ちください」ということを示しておいた方がいいですね。
ストリート・アートも、描かれたものと場所によりけりですね。
しかしわたしにとっては、「街の美化運動」とかいう「ポイ捨て禁止」などの張り紙は、下手くそなストリート・アート以上に目障りです。「町の浄化」という発想が嫌いなんです。
>それでも、「街で絵を並べて見てもらう」という考えは、捨てていなくて、例えば、曜日を決めて、その日だけはそれに徹するというようなことですね。
それでいいと思いますよ。曜日を決めていれば、そのうちに顔見知りも出来るかもしれませんし。
こちらもぜひトライしてみてください。
芸術作品を金に換えるということは難しい問題ですが。
この作品には金を払ってもいいと思ってくれる人に売ることは、必ずしも、「魂を売る」ことにはならないと思います。しかし貧しさは芸術家の必須条件のように思っています。「芸術の在り方」については今後も話題になることでしょう。
作品を展示できる場所がもっと多く、また多様に存在すればいいんですけどね。
行きつけの喫茶店に飾ってもらうとか、古本屋とか。地元の区民センターの一室などを展示場として安く借りられるとか。
鑑賞の履歴が残るということには抵抗があります。わたしも今年図書館でどんな本を借りたんだっけなと知りたくなることがありますが、図書館が、わたしの貸し出し履歴を保存しているということは絶対に認められません。
それと同じことがアートにも当てはまります。すべてのアートが公序良俗にかなったものばかりでは話になりませんからね。「反・社会的」なものも当然アートです。アートの鑑賞は、誰の干渉からも自由であるべきです。無論利益からも。
「表現の不自由展」に何回足を運んでいる」なんて記録は真っ平ごめんです。
それで目をつけられることも、それで、リベラルの仲間だと見做されることも御免です。
芸術の鑑賞は完全に個人の自由であるべきだと思っています。
金を払って観る芸術はあっても、金をもらってまで見たい芸術などありませんし、
アートに接したことで、作者から喜ばれることはうれしいですが、「褒められる」なんて真っ平ごめんです。
こんばんは。
返信削除ご意見いただき、ありがとうございます。
なるほどと思いました。
「レンタル」に関しては、「創作者」や「批評者」と「鑑賞者」」を対等にしたいという思いが強く、マイナス面があることは、考えませんでした。
言われてみて、確かにそういう面もあるなと思いました。
「鑑賞者」の「鑑賞眼」を純粋に評価できる方法があればいいんですけど、なかなか、難しいです。
ご意見は、参考にさせてもらいます。
ありがとうございました。
それから、「芸術の売買」については、最初に「創作者」が売るだけの段階では、「創作者」と購入者の両者に「金」とは無関係の理解が成立していれば「問題はないと思いますが、問題なのは、二次的に売買されてしまうことなんです。
ぼくは、『この絵は絶対に売らないよ』と言った人にだけ自分の絵を差し上げたことがありますが、もしも、その人が、本当に金に困ったときには、売ってほしいなと思って、その絵を差し上げました。
(問題は売れないことなんですけどね。そこは無視した話です)
でも、その後、その絵が二次的に売られた場合は、誰が買うかわからなくなってしまいますから、それで、けっきょく、「金」の代価にされて行ってしまうわけですね。
これを防ぐには、「芸術」を「福祉」の対象にするか、「レンタル制」にするかしか、今のところは思いつきません。
ただし、これは、どちらにしても、「芸術」に関する「自由」や「個人性」や「多様性」が、完全に近い形で確保されているという前提での話ですね。
気が遠くなります。
それでは、また。
こんばんは。
削除>「鑑賞者」の「鑑賞眼」を純粋に評価できる方法があればいいんですけど、なかなか、難しいです。
これはどういうことでしょうか?芸術の鑑賞、或いは絵を楽しむことへの「評価」とはなんでしょう?
わたしは先ほども言ったように、誰にも評価・査定などされたくはありません。
ふたつさんは芸術の見方に正しい見方とか間違った見方など、その他どんなことでも評価の「規準」になるものがあるとお考えなのでしょうか?
それから「芸術福祉」というのも、一体その対象となる規準はどこに存在するのでしょう?わたしは芸術というものは決して公権力と手を繋いではいけないと考えています。だから紫綬褒章のようなものを嫌うのです。「おくに」に公式に「褒めてもらった」時点で、作品も作者も堕落すると考えるからです。
生活保護は金が無くて暮らせないことが唯一の規準です。つまり誰であろうともらう権利があります。
一方で、福祉の対象となる芸術ならない芸術の線引きはどこで行われるのでしょうか?
子供の画を持って行って、「この子天才なんです」と言われて、誰が否定できるのでしょうか?
生活保護を貰った芸術家というのは理解できるし認められるけれども、芸術が福祉の対象になるというようなことは考えも及びません。
こんにちは。
返信削除これもまた、伝わらなかたたみたいですね。
でも、それはTkeoさんの側の問題だとは思いません。
この話が、だれにも伝わったことはありませんから
意外かもしれませんが、まったく常識的な人から、すごくアヴァンギャルドな考え方の人まで、ほぼ同じ反応が返ってきます。
ぼくが、今言えるのは、この話が、今の時点で、Takeoさんが感じたこととは、まったく逆のことだということですね。
言葉で説明できることは、必ず誤解に到達します。
その「誤解」を共有できるならば、いいのかもしれませんが、それは無理なのかもしれません。
では、また。
返信削除Ciao Takeoさん、ふたつさん
お二人の心地良げにテニスのボールをやり取りするような対話に割り込ませていただきます。
私は「芸術福祉」をその昔のパトロンの存在と重ね合わせます。
ヨーロッパにも、そして日本にも自分が認めた芸術家を養って、その作品制作を促していた人たち(しばしば貴族やら、お金持ちの人たちでしたが)がいましたよね
例えば、私は株は嫌いですが、この人。と言う人が、これは、と興味を惹かれる企画を持っていたら、それに投資してみたいと言う気持ちがあります。
パトロンという制度もその裏に投資という意味合いはあったかもしれませんが、むしろ自分が発掘した人間を育てたい、どれだけ、どのように育つか見てみたいと言う欲求の方が強かったのではないかと思います。
そういう意味で、福祉という名前には添いませんが、そういう制度があってもいいなあと思います。つまり誰かの成長に手を貸す。みたいな。
ちなみに私は街角でよく絵を買います。
バスク地方を旅行中も買いました。
その彼とは未だに付き合っています。
彼の絵を買ったのは、とにかくいいなあと思ったからです。
とにかくその絵に心惹かれ、この絵を自分の暮らしにとり入れたいなぁと思ったからです。
彼が有名になって値が上がったりしたら愉快だな、とも思いましたが、でもそれはあくまでもおまけのイマジネーションの思考であって、私が惹かれるなにかを感じることが一番、そしてわずかではあっても、彼のアーティストとしての評価をこうして形にでき、そしてこうして関わってその成長の一環を見守れたら面白いなと思うのです。
ローマには小さなアトリエも結構ありますし、この国の人はむしろ著名なものを避ける所に彼らの審美眼を見出すような、そんな人たちも少なくないので、私もローマのある、ある小さなアトリエで小さなブロンズの像を買いました。
裸の女性が一人で壁をよじ登っている像です。
なんか自分みたいだなあと思ったのです。笑
誰がなんと言おうが、他者の評価の興味はありません
大事なのは私が好きか興味がないかであって、
私が好きだから買うのです。
話は変わりますが、ローマのアウグスト皇帝広場に私が知っているだけでも30年、(私がイタリアに来て31年ですから、私が初めてローマに暮らし始めた時からいますから31年以上ですね)そこでストリートアートをやっている人がいます。
多分芸術をビジネスと考えたら、なんの値段もつけられないのでしょうが、とにかく愉快なのです。
彼は、彼の作品は売っていませんが、ある日私が彼の作品の側に置いてあった箱にお金を入れたら、(彼は物乞いではありません) なんせ私は彼のアートという名の思考が、そして彼の存在も含め大好きなのです。
その時彼はそこにはいなかったのですが、どこからともなく現れて、私の前でサラサラと一枚の絵をマジックで画用紙に描いてくれました。これもまた私の大事なコレクションの一つです。
自分の作品を紹介する場所はどこでもいいのではないかと思います。
もしかしたら、それは私がその作品を評価するにあたり、どこで見たか、道端か有名な画廊か、そう言う事の影響を全く感じないからかもしれませんが、、。
元々評判がいいからとか、人気があるからとかで、そのものに興味を持ったり、買ったりしたことがないのです。
どんなに有名な評価の高い作品でも、その前に立ったとき何も語りかけてこないものもたくさんあります。
つまり美意識って人それぞれで、それに値段をつけられるかどうか?私はつけられないと思っています。でもそれが投資やらビジネス、もしくは自分の美意識をきちんと認識しリスペクトしていない人はいわゆる専門家と言う他者の評価が必要なのかも知れませんが、私にとってはそんなものは邪魔でしかありません。
そうですね
絵が道端に置いてあって、どうぞと書かれていたら喜んで持って帰るかもしれません
私は古いものが好きなので、家にある鏡とか、タンスとか人様がゴミ置場に放り出してあったものを拾うことも少なくないので、心惹かれる絵でもあったら大喜びで持って帰るでしょう
ふたつさんの絵も見てみたいなぁと思います。
話がお二人の論点からずれてしまったかもしれませんが、ふと私の意見を述べたくなりました。
こんばんは、Junkoさん。
削除例えば、「映画」は、自主制作で撮れる場合もありますが、我々が一般に映画と呼んでいるのは、そういうものではなく、もっと大規模なものですよね。どんなに素晴らしい脚本を書いても、それを映画にしてみようという資金主とプロデューサーが必要です。まぁハリウッド映画などは桁違いですが、ほとんどの映画製作には、プロデューサーの力が不可欠です。しかし、映画がそのようにしか作れないものである以上それは全く問題にはなりません。
パトロンと聞いて先ず思い出すのは、メディチ家、ロレンツォ・ディ・メディチでしょうか?あとはワーグナーのパトロンだったルードヴィッヒ2世?
ルネサンス頃のパトロンには、単に自分の権勢を誇るために肖像画を書かせたり、大聖堂を作らせたりといった人たちもいたのでしょうが、いつの時代にも芸術を解する芸術家の庇護者というのもいたのです。
わたしは金のある者が、どのような動機にせよ、芸術家の支援をすることは全く問題はないと思います。
基本的にJunkoさんの意見と同じです。意見だけではなく、好きな作品を買う(拾う(笑))ことも同じでしょう。ただ、どれほど好きでも買える値段ではないというのも当然ありますよね。それは本物だけじゃなくて、画集や写真集でも同じです。つまりどんなに好きでも、こちらの経済事情、或いは住環境の制約によって、欲しくても手が出ないということはあります。
それはわたしが犬や猫を飼えない住まいに住んでいることと似ています。
絵や本や、花のある生活は理想ですが、わたし個人の現実ではなかなかそうはいかないようです。
しかし所有することよりも大事なのは、Junkoさんが書かれているように、様々な形での「出逢い」ではないでしょうか。作品との出会い。場所との出会い。そして作者との触れ合い。作品を介して気持ちが通い合うことではないかと思うのです。
この頃はあまり頭がハッキリしませんが、意見はいつでも歓迎します。
コメントをありがとうございました。
TakeoさんJunkoさん、こんばんは。
返信削除ぼくの「たわごと」に反応してくれたJunkoさんに感謝いたします。
ただ、ここで、ぼくが言った「芸術福祉」というのは、「パトロン」ともかなり違います。
(かつての「パトロン」の代替的な要素はあります)
また、Takeoさんが、感じたことが間違いだというつもりはありませんが、「権力に対する迎合」とは正反対です。
これは、この話が、あまりにも長くなってしまうために、「上っ面」だけを書いてしまった、ぼくの説明不足もあると思います。
(といっても、長々と説明してもわかってもらったことはないですが)
だから、ここでも、あえて詳しくは説明しませんが、とにかく、現状の「芸術の市場」という考え方をまったく根底から否定したうえでの話になります。
つまり、「芸術作品」を売買すること自体を禁止するということが前提です。
ということは、どういうことかというと、「芸術の創作者」は、すべて貧乏に成るということが前提です。
どんなにすばらしい創作者も、どんなに稚拙な創作者も、みな一律に、無収入であることを前提とします。
その上で、例えば「生活保護」の受給額よりも低い金額の「芸術者保護」が与えられるというような話になります。
つまり、「芸術者であること」は、「ソンなこと」に成るわけです。
考え方にもよりますが、世の中で一番低い位置に立つことに成るかもしれません。
その上、さらに、ぼくなりに考えたいろいろな条件が付加されて、さらに、厳しくなるといってもいいくらいなのです。
もちろん、そういう条件を拒否して「商業的な芸術者」を選択することも許されますが、そちらを一度でも選択した者が、その後「芸術者保護」を受ける場合には、さらに低い条件に成るという感じです。
『芸術者であるという判定は、誰がどうやって下すのか?』
その判定こそが、この「芸術福祉」を選択する者であることなのです。
たぶん、これを選択する人は、ほとんど居なく成ると思います。
でも、ぼくにとっての「芸術」とはこんなものなのです。
だから、ぼくは、こんな制度があれば、喜んで選択します。
それ以前に、そんな場所に住んでみたいと思うわけです。
「レンタル制」についても、大体こんな感じで、決して、そこでの「評価」を「正しい評価」ということにするといった話ではありません。
どちらも、今の「芸術市場」を破壊して解放するという発想から考えたことです。
『実現できるかどうか?』
『実現したときには、ほかの問題が出てくるんじゃないか?』
無責任な言い方に成ってしまいますが、ほとんど考えていません。
それを言いだしたら、こういうことは考えられません。
第一、ぼくに、そんな力があるわけありませんから、もしも、こういうことをやる人が出てくればいいなという話です。
『実現~云々』については、その人が考えてくれたらいいと思います。
こんなだから、ぼくの絵は、絶対に売れませんし、有名になることもありませんし、誰からも、相手にされることはありません。
もしかしたら、Junkoさんも、ぼくの絵が街角に放置されているのを見かけたときには、『この絵は家におきたくない』と思うかも知れません。
だから、たぶん、「ぼくの絵が嫌いな人」が一人増えるだけだとは思いますが、あまりにも、人に見てもらう機会がないので、一応、ぼくのブログのURLを貼っておきます。
(そこに、ぼくの作品のホーム・ページへのリンクがあります)
『嫌いです!』という反応でもいいと思うくらいに、誰からも相手にされてませんから。
決して、嫌われたくて、絵を描いているわけではありませんし、嫌がらせでブログを書いているわけではありませんし、誰かの権利を妨害したくて「芸術福祉」のようなことを言っているわけでもありませんし、「芸術」を何らかの「型」にはめようと思って、「芸術の20世紀喪失宣言」などということをやっているわけでもありません。
まして、目立ちたいとか、売れたいとか、変わったことをやって他人の注目を集めようとか、そんなことだったら、もっとマシなことをやってます。
ぼくは、これらを、すべて「普通のこと」としてやっているつもりなんです。
でも、「普通のこと」とは思われずに、『目立ちたいから、人の嫌がるようなことをわざとやっている』と思われてしまいます。
だから、誰からも、相手にされたことがありません。
なぜなら、現在、最も嫌われるのは「普通のこと」だからです。
だから、ぼくは、Takeoさんにしても、Junkoさんにしても、底彦さんにしても、瀬里香さんにしても、みな「普通の人」だと思っていますし、だからこそ、「現在」との折り合いが悪くなってしまうのだろうと思っています。
そして、皆さんと知り合えたことは、うれしく思っていますが、最近に成って、インターネットから、もう少し距離を取ろうかなと思うようになってきています。
ここでも、Takeoさんの記事を無視して、自分勝手な意見ばかりを長々と書くように成ってしまって、本当に失礼な奴だなと思い始めていて、それで話が伝わりにくく成るんだと思っています。
そういうのも、インターネットという媒体が持っている性質によるところが大きいと感じています。
また、自分の意見ばかり言って、長くなってしまいましたね。
でも、これでもきっとつたわらないでしょう。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除先ず以前から言っているように、ここは単にそこに書かれている記事に関するコメントに限定せず、「どんなことでも」意見を言い合える場所にしたいと考えています。そして読者同士のやり取りも望むところです。
もちろんそれは、このブログが、一般公開であろうと、実際にはメンバー制と変わらないという暗黙の共通認識があるからですが・・・
ですからふたつさんがここでなにを主張しようと、(わたしは4人の良識、そしてわたしとの大本での価値観の共通性を疑っていませんので)自由です。
ですから、そのことについてはどうか気になさらないでください。
ふたつさんが意見を言うことと、わたしがそれを理解できないこととはまた別のことです。
そして理解できないイコール認められないでもありません。(無論一般的にはそのようなケースの方が多いのですが)
ふたつさんの主張に関しては正直よくわからない部分も少なくありませんが、要するに「芸術作品」と「金」を切り離すということであるなら、わたしはどちらかというと、賛成の側に近いでしょう。
今のわたしに言えることはこのくらいでしょうか。
今のわたしには、言わずにはおれないという衝動も含め、ふたつさんに限らず、人の心の細かい機微を察する状況にありません。
もっとやさしく、もっと寛容になりたいと思いながら、なかなか壁を破ることができません。
その点をご理解いただいて、ふたつさんにも、そしてJunkoさん、底彦さんにも、これからもよろしくお願いします。
https://3870vtni.wixsite.com/mysite-1/gallery-3
削除わたしはこのコーナーの絵が一番良かったと思います。
海外のギャラリーのサイトも結構見てきましたが、
充分通用すると思いますよ。いやお世辞ではなく。
もっと積極的に発表すべきだと思います。
追伸
削除気に入った作品をこのブログで何点か紹介してもいいでしょうか?
ふたつさんの作品
返信削除https://3870vtni.wixsite.com/mysite-1/gallery-1
https://3870vtni.wixsite.com/mysite-1/gallery
https://3870vtni.wixsite.com/mysite-1/gallery-1
こんばんは。
返信削除まず、『コメントは自由に』ということ、ありがたいと思っていますし、そのTakeoさんの気持ちは理解しているつもりです。
それから、ぼくは、Takeoさんに対して敵意のような感情を持ったことはありませんし、どんな返信が返ってきたとしても、自分がもう少しうまく伝えることが出来れば、おそらく、Takeoさんには、理解してもらえたんだろうと思いますから、その辺のところに、事実上の壁は無いんです。
ただ、ぼくが、インターネットから離れたいと思っているのは、Takeoさんには、今更言うまでもないかもしれませんが、、インターネット自体に対する拒否感から来ているものです。
ただでさえ、インターネットを利用せずに生活することが困難な状況を、こんなにも増やされてしまっている現状の中で、どんどんパソコンの画面と向き合っている時間が増えていきますから、そこのところをなんとかしたいと思っています。
もちろん、このブログは、ぼくにとって、唯一のネット上の居場所だと思っていますし、それは、自分のブログ以上だと思っているくらいですから、当面、ここを見なくなるということは無いと思っていますし、コメントも入れさせてもらいたいと思っています。
しかし、ぼくの自分勝手極まりない意見を、ここでブチマケテしまっていないか?という疑問は捨てきれませんし、それでいて、言った言葉に対して責任を持てるほどには、十分な説明が出来ないというぼく自身のジレンマもあり、もう少し、整理した内容でコメントできたらという気持ちがあります。
(これは、他の方に対することでも同じ気持ちがあります。やや無責任なことを言い過ぎているような・・・)
もしかしたら、それは、Takeoさんから見たら、やや物足りないコメントに成ってしまうのかもしれませんが、その辺が、ぼくの限度でもあり、こういった媒体の持つ限度なのかなとも思います。
そんなことで、これからも、そしてこちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで、ぼくの絵について、ぼくは、てっきり、Takeoさんにはあまり気に入ってもらえないのかと思っていましたよ。
(というか、誰にも気に入られる気がしない)
もし、本当にお世辞でなければ、喜んでいただけて良かったと思います。
もちろん、このブログで、ご紹介いただけることは大変光栄に思います。
というか、ぼくは、絵でも文章でも、著作権を主張するつもりは、ほとんど無いんです。
だから、誰でも、どんな形でも勝手に使ってもらって構わないと思っています。
現在、「著作権」が守っているのは、「売れている人の権利」だけで、「売れている人の権利」が守られることによって、「売れていない人たちの権利」がはく奪されていく、というのが現状ではないかと思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もしよかったら、どの絵がいいと思ってくれたのか、ご意見をうかがえると嬉しいです。
では、また。
こんにちは, Takeo さん, ふたつさん, Junko さん.
返信削除皆さんのやり取りを読んで, 思ったことを短くまとめてみます.
ふたつさんの「芸術の中心」の話は大変興味深く感じました.
それがきっかけで, 『芸術の20世紀 喪失宣言』を少しづつ読んでいます. 今の私は文章を理解するのに時間がかかってしまうのでまだ半分ほどしか読めていませんが, それでもいろいろ頷ける箇所がたくさんあります. 興味が出てきたので読み進めようと思っています.
感じたことは, ふたつさんの中には, ふたつさんにとっての価値とでもいうべきものが確かにて存在している, もしくは見えているということです.
はっきりとそれを指摘することは私にはできないのですが, それはふたつさん自身の芸術への情熱あるいは探究から発しているように思いました.
そのふたつさんの価値へと向かう道筋の中で, 「芸術の中心」の (再) 構築や創作者の生活に関する思索が生まれているのではないですか.
私は芸術家がその作品や才能による金銭的報酬と関わって, もしかしたら商業システムの中に組み込まれて生きていくことを否定はできない者です. 画廊や展示会, オークションと言ったものを金にまみれた汚い世界だからと切り捨てることもできません. 何処であれ「汚い」のは当たり前であり, その中で生き延びていくのだと外部者の無責任な立場からやや極端に考えていた時期もありました (現在では少し考えが変わっています).
ふたつさんの文章, 特にその中で語られている芸術者の生活に関する文章を読んで, 現代における詩人を思い浮かべました.
詩だけで生活している詩人は世界でも極めて少ないと思います. 詩の世界市場などと言ってもどれほどの規模があるのか (音楽市場とそれに含まれる歌詞のマーケットは巨大でしょうが, ここではそれは含めないことにします).
生業を他に持って, 余った時間に詩を書いている詩人がほとんどなのではないですか?
そして芸術者, 特に創作者が詩人のように生きることは, 正しくふたつさんが日々行われていることではないでしょうか (もしふたつさんの本意ではなかったらごめんなさい).
ふたつさんの絵を初めて拝見しましたが, あのような精緻で繊細な絵が生まれる背後には, ふたつさんが上で書いておられる
> どう頑張っても、絵を描ける時間は一日に4~5時間くらい、その他の時間で家事をすると、ほとんど昼の時間は終わってしまうんですね。
といった生活と無縁ではないのではと思います. 私は
> きっと きみは さみしいんだね
>
> だから こんなに かがやいている せかいのなかで
> ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね
>
> それとも もしかして
> ほんとは とっても うれしいのかい
という「詩のような題」を持つ絵と言葉がとても好きです (抜粋ですみません).
もしかしたら私は, ふたつさんのブログや絵において, 「芸術者」の生をいつの間にか「心の病を抱えた者」の生に重ね合わせて読み, 見てしまっているのかも知れません.
-=-=-=-
Junko さんが
> 彼の絵を買ったのは、とにかくいいなあと思ったからです。
> とにかくその絵に心惹かれ、この絵を自分の暮らしにとり入れたいなぁと思ったからです。
と書いていますが共感できます. 絵のある暮らしは豊かだと思います. 私は 10 年ちょっと前にある絵の複製を買って部屋に置いています. 部屋の中に絵があって, 日常的に目に入って, 時にはゆっくり見たりするというのはいいものです.
街角に絵があるというのも素敵なことだと思います. イタリアだからなのですか?
残念なことに, 東京にはほとんどそのような風景がありません. フリーマーケットなどに行けば見ることができるのかも知れませんが.
-=-=-=-
Takeo さんが元々の文章で書いた
> わたしを傷つける者は常に正しい。わたしの「傷」がそれを証ししている・・・
という言葉が気に掛かっていました. ふたつさんが書かれた
> つまり、『いわれがあれば、認めるしかないのか?』という点が吟味されていません。
という意見に私も同感です. 私自身も自分を責める思いが湧いてきたときには, 「絶対的に私が駄目だ」という思考に支配されてしまいますが, Takeo さんのように強く書くことまではできません. 書く力が出ないのです.
Takeo さんはこのような強い否定の言葉を冷徹に文章にすることができる, それほどまでに強く自分を否定する ── Takeo さん自身による批判すら受け付けないほどに ── のはなぜでしょう? それは Takeo さんにとっての宿痾のようなものなのでしょうか.
Takeo さんは「美には哀しみが伴っていなければならない」といったことを書かれていましたね. しかし, 上の言葉は「哀しみ」どころではなく「憤怒」のようです. Takeo さんが綴る詩のようなブログは, そこまで自身を否定しなければ成立しないものですか.
幾らかでも穏やかになる瞬間があることを願っています.
最後になりますが, ふたつさんの
> 最後に、底彦さんがおっしゃっている、『自分の絵を人に見せることがはばかられる』ということです。
>
> お気持ちは、よくわかります。
> でも、見せることが「喜び」でもあるという気持ちがあるのであれば、たぶん、そちらが、底彦さんの「本心」だと思いますよ。
という文章に励まさたことを伝えておきます. 自分を否定するばかりの思いから逃れるきっかけになりそうな気もします. 他人に言ってもらうのは自分に言い聞かせるのとは全く異なるのですね. ありがとうございます.
私もふたつさんを応援させてください.
こんばんは、底彦さん。
削除今日も暑いですね。
ちょっと脇に逸れるかもしれませんが、わたしはDVDなどの特典映像をあまり見ません。つまり作品はそれ自体で、完全に完結しているものであってほしい、その周縁の「概念的な説明」(監督や出演した俳優による)も、「ウラ話」にも、ましてメイキングにも興味がりません。せいぜい見るとしたら、日本版・本国版の予告編やスチル写真のギャラリーくらいでしょうか。
ですから、わたしは「敢えて」気に入った作品=ふたつさんの絵に限らずにまつわる情報を意図的に遮断しています。これはあくまでもわたし個人の話ですが、作品の背後の情報や意図、そして価値観を知ることによって、作品を純粋な目で見ることができなくなることをなによりも怖れるのです。
アンドレ・ブルトンは、「目は常に未開の状態で存在する」と言っています。
わたしは「未開の状態」で作品と向き合いたいのです。
◇
わたしも1番上の絵とそして一番下の絵が特に好きです。
絵と詩が一体になっているというのは非常に実験的ですね。
確かに相互に補完し合うという場合もあるでしょうし、その逆もあると思います。
絵とは波長が合うけれど、添えられた・・・というか一体である「詩」とはどうしても波長が合わないというリスクもあると思います。しかしそれがふたつさんの「作品」なのですから、上記のような側面があるにしても、わたしは彼の作品を尊重します。いい絵ですよね。最後の絵に使われている詩も好きです。一番上の作品も。
底彦さんのプロフィールに貼られている絵も、わたしは好きです。文章を通じて知り得た底彦さんの内面の混沌を見ます。といって、疾風怒濤という感じではなく、静けさも感じます。
小さい画面ですが、心に伝わってくるものを備えています。
◇
>わたしを傷つける者は常に正しい。わたしの「傷」がそれを証ししている・・・
この言葉に関しては今は考えが違っています。それは底彦さんのブログにあったあの言葉によって、と言えるかもしれません。
確かに「憤怒」です。しかし、この言葉を土台に書いた底彦さんへの最初のコメントを完全に撤回したように、今では、
「 わたしを傷つける者は常に正しい。わたしの「傷」がそれを証ししている・・・」
という言葉も撤回したい気持ちです。
あの三行がわたしの目を覚まさせてくれました。
別に急にわたしの人格が豹変したわけではありません。
様々な詩や文章に触れている内に、あまりにも安っぽく自分の魂を傷つけてはいないかと思うようになったのです。
ふたつさんの
「いわれがあれば、認めるしかないのか?」という言葉も、わたしが彼に言わせた言葉ですが、そしてふたつさんの心遣いには感謝しますが、愚鈍なわたしは今頃になってやっと気が付いたのです。「いわれなどないのだ」と。
「正当性も論理の整合性すらもなかったのだ」と。
それこそJunkoさんの言葉を借りれば「幽霊の正体見たり・・・」という感じです。
底彦さんの言われたように、自己否定はわたしの宿痾です。しかしそれは「生誕の災厄」というように、すべての人間の生がそもそも「宿痾」であるともいえると思うのです。(極めて仏教的な考え方かもしれませんが)
底彦さんのブログに残された三行の真意はともかく、あの言葉、あの端的な言葉が、わたしにとっての「奇貨」となったと言えるでしょう。
ふたつさんによって励まされ、あの三行によって、顔を叩かれて目を覚ましたと言った感じでしょうか。
いうまでもなく、わたしの本質は残念ながら変わらないでしょう。ただ、関わり合うことが自分を穢し、時間の浪費しか意味しない者たちの言葉に最早煩わされている時間はないという「事実」に気付いたということでしょうか。
わざわざコメントをありがとうございました。どうか穏やかな宵を過ごすことができますように。
Takeoさん、底彦さん、こんばんは。
削除そして、体調の優れない中、ぼくの絵や文章についての感想を書きこんでくれた、底彦さんへのお礼が遅れたことをお詫びいたします。
(自分なりの考えを、まとめてから書きたかったので)
本当に、どうもありがとうございました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まず、はじめに、「芸術の20世紀喪失宣言」を読んでくれていると聞いて、ぼくとしては、単純にとてもうれしいと思いました。
あれは、『通して読んでくれた人なんて、ほとんど居ないんじゃないかなぁ?』と思っているくらいです。
(まぁ、書いてあることが「あんな感じ」ですからね)
あの文章は、わかりにくいところもあると思いますし、どちらかといえば、「決めつけ的な口調」で書かれていますから、抵抗があると思いますが、あれは、もともと、「自分への戒め」として書いた文章で、人が読んでくれることは想定していなかったので、そんな風に成ってしまいました。
要するに、自分を叱咤激励しないとやっていられなくなるだろうという考えで、あれを書いたわけです。
しかも、あの時点で、文章なんかほとんど書いたことがなかったので、文体も変だと思います。
(今でも、そういうところは多々ありますが)
そういったところを、【「芸術の20世紀喪失宣言」の説明】というカテゴリにある補足の記事で、ある程度補っているつもりです。
(「かえって、わかりにくく成っている説」あり)
それぞれの記事に対応した説明をしていますので、そちらと並行して、お読みに成ることをおススメいたします。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、これもまた、わかりにくい話になってしまうかも知れませんが、「芸術の中心」とか「自分の中心」と言うことについてですが、実を言えば、ぼくの中に、「固定的な価値」としての「中心というもの」があるというわけではないんです。
つまり、「価値が失われた中での価値」とか「中心を失った時代の中心」というようなことです。
Takeoさんも、再三指摘されているように、芸術や、表現において、「価値」を固定したり、誰かが決めつけたりするということには、ほとんど意味がありません。
昔は、「芸術」=「技術」に近いところもありましたし、「技術」=「価値」といってもよかったのかもしれませんが、少なくとも、現在、そういう考え方をすることは、意味がないだけでなく、ある意味で危険なことだともいえます。
「芸術と国家」や、「芸術と権力」や、「芸術とカネ」が結びついてしまう可能性が高くなりますし、そこまでいかないとしても、「芸術の自由さ」は失われることに成るでしょう。
(この点はTakeoさんの言うとおりだと思っています)
だから、そういう考え方は、持っていませんし、どちらかといえば、「価値」を固定的に見ないという考え方は、ぼくなどが言うまでもなく、ある程度の共通認識として成り立っていることだと思っています。
(あまり実践は、されてはいませんが)
ぼくが言っている「中心」とは、「芸術を芸術足らしめているもの」ではなく、「そういうモノが『どこかにはあるハズ』という意識」です。
『何でも芸術であり得る』という現在の状況の中で、「芸術」と「芸術でないもの」を分ける線を引くことは不可能です。
これまで、『それは、一人一人の人の中で線を引けばいいことだ』と言ってきました。
それ自体は、間違いとは言えません。
しかし、その結果として、「立場の強い者の意向」だけが、まかり通ることに成ってしまっています。
たとえば、有力な批評家の意見を誰も無視できませんし、無視すれば、芸術の世界には居られなくなります。
ところが、その批評家も、「バカ売れした創作者」のことだけは、常に持ち上げるようなことしか言わなくなってしまっています。
そこで、いくら平等だといわれても、個人の意見が完全に無視されて、権威のある者の意見だけがマスコミ的な拡散力をもって爆発的に広まって行ってしまう以上、意味がないのです。
『誰でも、あなたが好きなものを好きと言っていいんですよ』
とは言っていても、実は、それは『言うだけなら、勝手にどうぞ』というような、個人軽視、無名人排除ということを前提にした、「お題目」に成ってしまっているわけです。
結果的には、ほとんどの人が、有名な作品しか見ませんし、そういう機会しか与えられませんし、それ以前に、「無名な作家」なんてどこにいるのか見つけること自体が、もはや不可能に近い状態です。
(誰でもよければ、どこにでもいますが、好きな作家を見つけるのはかなり難しい状況でしょうね)
実際、無名な人の個展にいってみればわかりますが、「何の気なしに入ってきた冷やかし」は、まだいいとしても、一番多いパターンは「知り合いが集まって車座に成っている状態」で、真剣に作品を見に来ている人は、やはり少ないといわざるを得ません。
少なくとも、有名作家の展覧会との間のギャップはかなりのモノだと思います。
そんな中で、全員の人が、『あなたの好きなものを好きだといっていいんですよ』と言われれば、ますます「売れているもの」と「売れていないもの」の落差が広がる一方なんです。
だからと言って、いまさら「芸術に与えられた自由」を再度、アカデミズムの時代のように、規定し拘束するということは出来ませんし、そちらにも、また意味はありません。
そこで、ぼくは、『芸術の中心はどこかにはきっとあるハズ』ということを、設定しようといっているんです。
「芸術の外側」に線を引くことは出来ないという前提であっても、それでも「芸術の中心」だけは、必ずどこかにはあるはずです。
もしも、「外郭」と「中心」が両方とも無いとすれば、「芸術」はもはや存在していないはずです。
しかし、もしも「芸術という概念」が存在しているのであれば、必ず「その中心」だけは、存在するはずです。
ものがあれば、必ず「そのものの中心」があります。
それは「本質」といってもいいと思います。
ただ、それを規定したり特定したりすることが出来ないということです。
だから、結果的には「芸術の規準」は「個人」に依存することに成ります。
結果は、同じなんです。
ただし、その過程が違うことで、簡単に『何でもあり』ということが出来なくなります。
つまり、実際には『何でもあり』なんですが、それを言うことに意味がなくなるということです。
今は、『何でもあり』を、いかに面白く、いかに奇をてらって、いかに世間受けする形で提示できるか?ということで「芸術の価値」=「市場価値」が決定され、そこから漏れたものには、一切権利が与えられないという状況に成ってしまっています。
つまり、「市場価値の高いもの」こそが「芸術の価値」であるということに成ってしまっているわけです。
そして、ごく普通の鑑賞者には、『それをありがたがって、見て居りゃいいんだ、お前たちは』という「ご神託」だけが与えられて、そのほかの情報は、ほとんど与えられないという状態です。
確かに、それでも、底辺で創作を続ける人は、それなりに居ます。
そういう人の作品を、愛して、見続ける人も居ます。
しかし、実際には、そこでも、また、「生き残り」が展開されているわけで、「その位置なりの要領の良さ」や、「その位置なりの技術的達成度」や、「その位置なりの奇をてらったもの」が、やっぱり、生き残っていくわけです。
そして、最終的には、「もっとも非利益的な創作者」が真っ先に振り落とされていくという、仕組みが出来上がってしまうというわけです。
これは、底彦さんの言った「ぼく(ふたつ)の中の価値」というのが、間違いだということではありません。
ただ、「その価値」が「規定される価値」ではないということですね。
それでも、その「規定されない価値」を無責任に、権威の手に渡すことだけは許したくないという意味では、ぼくに「その規定されない価値の在り処」がハッキリと見えているといってもいいと思います。
それは『ある!』と言い切ることに他ならないわけですから。
それで、人から馬鹿にされたり嫌われたりしても、それを、言い続ければいいだけですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と、こんなことを言うだけでも、こんなに話が長く成ってしまいます。
これが、ぼくが「芸術の20世紀」を喪失しようと思った一番の理由です。
つまり、糸がこんがらがったときには、そこを一回切って、つなぎ直すしかないと思ったわけですね。
たぶん、もう、誰にもほどけません。
本当は、一本一本の糸を丹念にほどいていけたら、それが一番いいんですけどね。
ほどいているうちに、また、別の所が絡まってしまいますから、無理だと思ったわけです。
次に続く。。。
続きです。
削除~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
それから、ぼくの生活を読み取ってくれたことはとてもうれしかったですね。
ぼくは、アトリエ自体もアトリエで使う道具類なども、かなりのところまで自作しています。
「おプロな方たち」からすれば、採算が取れないことかもしれませんが、ぼくにとっては、そういうことにも「作品」と同じくらいの意味があります。
そういうところを見る人が少ないのは、ちょっと寂しいことだと思います。
これは、Takeoさんが言っている「作品の情報を遮断すること」とは、必ずしも対立しないと思っています。
(そちらには、賛成です)
それから、底彦さんご自身の創作活動についてですが、ぼくも、こんな状況なので、言えた義理でもありませんが、「見せたくない」という気持ちと「見せたい」という気持ちがある時には、「見せたい」の方が本当だと思います。
世間は悪意に満ちているものですが、「絵」や「音楽」を愛する人は、その「悪意ある人たち」の中にすらたくさんいます。
「底彦さんの絵」を見ているときだけでも、「その人の悪意」が、少しだけ薄らいでいるというのは、「夢」ではないし、「絵に描いた餅」でもありません。
それは、「事実」です。
だから、誰にも変えられませんし、否定もできません。
捻じ曲げることは出来るかもしれませんが、それは、その人が疲れるだけですから、意味がありません。
結果的には、「底彦さんの絵」は、きっと、その人の中にも「ナニカ」を残すことに成ります。
それが「事実」です。
誰にも、消せません。
それが「意味」というものですから。
それは、「底彦さんが作り出した意味」で、そこにしかありません。
だから、消すことは出来ないんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上、長く成りましたが、本当にありがとうございました。
では、また。