2019年9月26日

日向のヒューモリスト


もう10年以上も前から繰り返し愛読しているブログを、また眺めていたら、中に「日向のヒューモリスト」という言葉を見つけた。ブログの筆者である女性が、知り合いのミュージシャン(?)を評して言った言葉。

いい言葉だなと思った。

わたしはここのみなが認めるように、「闇」の人だ。

真っ平ごめんと 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
いやだいやです お天道様よ
日蔭育ちの 泣きどころ
明るすぎます おいらには

と、「傷だらけの人生」をテーマソングにしているような、「影」を好む人間だ。

けれども、「日向」とか「陽だまり」というのは、「日の当たる場所」とはいえ、
夏の太陽やヒマワリといったイメージとはだいぶかけ離れている。
夏の照りつける太陽のような容赦のなさ、強烈さがない。
だからこそ、お年寄りや病人、老いた猫などが「ひなたぼっこ」をするのだ。

そして、ユーモアというのもまた、日向や陽だまりに似ている。

人間の知的・情緒的活動の中で、最も高度なものが「ユーモアのセンス」だと思っている。

殆どの日本人同様、わたしにはユーモアのセンスが決定的に欠けている。

プリーモ・レーヴィも、石原吉郎も、エミール・シオランも、シモーヌ・ヴェイユも、ユーモアとは程遠い。ドロローサもオーファンも、実際に会ったことがないので、確かなことは言えないが、少なくとも彼女たちの描く絵を観ている限り、「日向のヒューモリスト」というイメージではない。

じゃあどのような人が「日向のヒューモリスト」と言えるのか?

何とか名前を挙げられるのは、尾崎放哉、正岡子規、芥川龍之介、遥かに時代を遡って、良寛、一茶、
今の人と言われると、既に故人だが、加藤和彦。日本人ではこのくらいしか思いつかない。

「ユーモア」の定義もわたしにはよくわからない。これも辛うじて言えることは、
サービス精神旺盛な人、つまり人を喜ばせることが好きな人、知性のある人、
優しい人、思慮深い人、包容力のある人、自己犠牲を厭わない人、稚気を持った人・・・

わたし自身到底日向にも、ヒューモリストにもなれない。
「秋霜烈日」に対して、それは「春風駘蕩」という言葉が似合うから。
かといって、オポチュニスト(日和見)でもオプティミスト(楽観主義)でもない。

考えれば考えるほど「日向のヒューモリスト」とはどのような人を言うのか分からなくなる。ただ、そのような人は、芸術家や作家、そしてマスコミに出るような職業の人の中に探すよりも、案外名もない庶民の中に多く隠れて(埋もれて?)いるのかもしれない。







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