2019年9月15日


9月に入って、「群れ」という投稿を最後に、PV0か1の日が続いています。
これはまったく現在のわたしの体調及び精神状態(の悪化)と軌を一にしています。
今、わたしは本気で「認知症」ではないかと疑い始めています。でなければ「分裂病」か。

他者と話が、或いは気持ちが噛み合わない。それもまったく噛み合わないということは、差し当たり、(すでに複数の人格障害及び広汎性発達障害という(一応の)診断は受けていますので)これまでになかった症状の発症ということが考えられます。

幸いデイケアに通っている精神科病院で、「認知症外来」をやっているので、問い合わせだけでもしてみたいと思っています。


ブログについても、最早メンバー制などという段階ではなく、ブログを書き続けること自体の意味を見失いつつあります。つまりわたしの文章が誰かしらの心に届いているのか?
いや。「心に届く」などという段階以前に、そもそも文章としての体裁を成しているのか?ひょっとして、真夜中に「おはようございます!」と本気で言っているようなことを、毎日このブログに書き続けているのではないかという不安が強くあります。

パソコンに向かっている時間も日ごとに短くなっています。

その分寝ている時間がまた増えるわけです。

デイケアについても、プログラムに参加する度に、他の参加者との見えない溝が広がってゆくのが感じられます。彼らはみな「今の状態を改善したい」「少しでも良くなりたい」という気持ちで参加しているように思えて仕方がありません。── もし今この文章を読んで、「当たり前じゃないか」と思われたなら、わたしがデイケアに参加する意味は何でしょう?
「良くなりたいなどと思っていない」、とは言いませんが、何度も繰り返すように、
「改善」「快癒」の意味がまったくわからないのです。

例えば、月曜日から金曜日まで毎日5時間、コンビニでバイトすれば、月に200万円といわれても、お断りします。わたしには「老後」も「親亡き後」もないのですから、今現在、最低限の衣食住に困っていなければ、金などいくらあっても使い途が無いのです。唯一の使い途と言えば「寄付」でしょうか。

欲しいものも、食べたいものも、やりたいことも、行きたいところもないのです。
今、ここに、なんとか生存している。それだけで精一杯なのです。
わたしにとって、「治癒」或いは「よくなる」ということは、現在の生からの解放以外にないのです。













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