ぼくの内部には大きな傷がひとつあるだけで、
行く者とて誰一人いないうつろな場所で、
窓ひとつない現在であり、ひとつの思念が
帰ってきて、繰り返され、反映し、
それ自身の透明性のなかで見失われ、
ひとつの目で立ちすくまされたひとつの意識、
その眼は明晰さの中に溺れるまで、
おのれ自身を見ているものを見る ──
(中略)
井戸の中に埋められた視線、
原初からぼくを見てきた視線、
大きな息子の中に一人の若い父親を見る
年老いた母親である少女の視線、
大きな父親のなかに息子である少年を見る
孤独な少女である母親の視線、
生命の底からぼくらを見ており、
死の策略である視線、
── あるいは反対に、それらの視線の中へ落ちることが
真の生命に帰ることではないだろうか、
(中略)
── 何も起こらず、ただ太陽のまばたきひとつ、
何もなく、かろうじてひとつの身ぶり、
贖罪もなく、時間は引き返しはしないし、
死者たちは永遠におのれの死の中に固定され、
そしてふたたび別の死を死ぬことはできず、
彼らは触れられず、ひとつの表情のまま固定され、
彼らの孤独から、彼らの死から、
彼らは顔を見合わせることもなく、
やむをえずぼくらを見て、
(中略)
── 生命はいつ本当にぼくらのものであったのか、
いつぼくらは本当に存在するのか、
ぼくらは評判がわるくて、
ぼくらには眩暈(めまい)と空虚感(むなしさ)、
鏡に映ったしかめっ面、恐怖と嘔吐しかなくて、
生命は決してぼくらのものではなく、他者のもので、
生命は誰のものでもなくて、ぼくらみんなが、
生命であり ── 他者のための太陽のパンであり、
その他者とはぼくらみんなのことであり ──
ぼくが存在するときぼくは他者であり、ぼくの行為が、
すべての人々の行為であるならば、それらは更に
ぼくのものとなり、
── 存在するためにはぼくは他者でなければならないし、
ぼく自身から脱して、他者の中にぼく自身を探すこと、
ぼくが存在しなければ生存しない他者たちの中に、
ぼくに全存在を与えてくれる他者たちのなかに ──
ぼくではなく、ぼくは存在せず、ぼくらはいつも
ぼくらであり、
生命は他のもので、いつもそこにあり、更に遠くにあり、
きみの彼方に、ぼくの彼方に、いつも地平線にあって、
ぼくらを犠牲(いけにえ)にしぼくらを恍惚とさせる生命、
ぼくらの顔を創造しそれを衰弱させる、
存在への飢餓、 ああ死、 ぼくらのパン、
(中略)
ぼくはおのれの血が囚われの身で歌うのを聴き
そして海が光のざわめきとともに歌い、
防壁が1枚ずつ崩れ、
すべてのドアが崩れ落ち、
そして太陽がぼくの額を突き破って通り抜け、
ぼくの閉じた瞼をはぎ取り、
ぼくの存在を外皮から取りはずし、
ぼく自身からぼくを引き抜き
この獣の眠りとその石の数世紀からぼくを僕を目覚ませ、
そして太陽の鏡たちの魔法が蘇らせたのだ、
一本の水晶の柳、一本のポプラ、
風がたわめるひとつの背の高い噴水、
根深いが、それでも踊っている一本の樹、
迂回して、絶えずやってくる
一筋の川の道程 ──
◇
オクタビオ・パスの長編詩、『太陽の石』(1957年)より抜粋引用。
2段組みで23ページの長編で、イメージは錯綜し、さながら詩の迷宮を彷徨っているようだが、そこに散りばめられた言葉の数々は喚起力に富み、その中の1~2行だけでも充分に美しい詩句、そして警句足りうる。
これはただ難解なだけの現代詩とは明らかに一線を画している。(実際彼の詩は「難解」ではない)
散文のように、作文のように意味が分からくとも、全文を読んでほしいと思う。
意味を超えて、包み込んでくるものを感じるだろう。
ほんの一言から啓示を受けることもあるだろう。
ちなみに引用したのは、
『続・オクタビオ・パス詩集』真辺博章 訳 土曜美術出版販売 世界現代詩文庫27(1998年)による
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