2019年9月4日

ぼくは生をも死をも渇望している! ー オクタビオ・パス 



ぼくの内部には大きな傷がひとつあるだけで、

行く者とて誰一人いないうつろな場所で、

窓ひとつない現在であり、ひとつの思念が

帰ってきて、繰り返され、反映し、

それ自身の透明性のなかで見失われ、

ひとつの目で立ちすくまされたひとつの意識、

その眼は明晰さの中に溺れるまで、

おのれ自身を見ているものを見る ──

  (中略)

井戸の中に埋められた視線、

原初からぼくを見てきた視線、

大きな息子の中に一人の若い父親を見る

年老いた母親である少女の視線、

大きな父親のなかに息子である少年を見る

孤独な少女である母親の視線、

生命の底からぼくらを見ており、

死の策略である視線、

── あるいは反対に、それらの視線の中へ落ちることが

真の生命に帰ることではないだろうか、

  (中略)

── 何も起こらず、ただ太陽のまばたきひとつ、

何もなく、かろうじてひとつの身ぶり、

贖罪もなく、時間は引き返しはしないし、

死者たちは永遠におのれの死の中に固定され、

そしてふたたび別の死を死ぬことはできず、

彼らは触れられず、ひとつの表情のまま固定され、

彼らの孤独から、彼らの死から、

彼らは顔を見合わせることもなく、

やむをえずぼくらを見て、
 
  (中略)

── 生命はいつ本当にぼくらのものであったのか、

いつぼくらは本当に存在するのか、

ぼくらは評判がわるくて、

ぼくらには眩暈(めまい)と空虚感(むなしさ)、

鏡に映ったしかめっ面、恐怖と嘔吐しかなくて、

生命は決してぼくらのものではなく、他者のもので、

生命は誰のものでもなくて、ぼくらみんなが、

生命であり ── 他者のための太陽のパンであり、

その他者とはぼくらみんなのことであり ──

ぼくが存在するときぼくは他者であり、ぼくの行為が、

すべての人々の行為であるならば、それらは更に

ぼくのものとなり、

── 存在するためにはぼくは他者でなければならないし、

ぼく自身から脱して、他者の中にぼく自身を探すこと、

ぼくが存在しなければ生存しない他者たちの中に、

ぼくに全存在を与えてくれる他者たちのなかに ──


ぼくではなく、ぼくは存在せず、ぼくらはいつも

ぼくらであり、

生命は他のもので、いつもそこにあり、更に遠くにあり、

きみの彼方に、ぼくの彼方に、いつも地平線にあって、

ぼくらを犠牲(いけにえ)にしぼくらを恍惚とさせる生命、

ぼくらの顔を創造しそれを衰弱させる、

存在への飢餓、 ああ死、 ぼくらのパン、

    (中略)

ぼくはおのれの血が囚われの身で歌うのを聴き

そして海が光のざわめきとともに歌い、

防壁が1枚ずつ崩れ、

すべてのドアが崩れ落ち、

そして太陽がぼくの額を突き破って通り抜け、

ぼくの閉じた瞼をはぎ取り、

ぼくの存在を外皮から取りはずし、

ぼく自身からぼくを引き抜き

この獣の眠りとその石の数世紀からぼくを僕を目覚ませ、

そして太陽の鏡たちの魔法が蘇らせたのだ、

一本の水晶の柳、一本のポプラ、

風がたわめるひとつの背の高い噴水、

根深いが、それでも踊っている一本の樹、

迂回して、絶えずやってくる

一筋の川の道程 ──





オクタビオ・パスの長編詩、『太陽の石』(1957年)より抜粋引用。
2段組みで23ページの長編で、イメージは錯綜し、さながら詩の迷宮を彷徨っているようだが、そこに散りばめられた言葉の数々は喚起力に富み、その中の1~2行だけでも充分に美しい詩句、そして警句足りうる。

これはただ難解なだけの現代詩とは明らかに一線を画している。(実際彼の詩は「難解」ではない)
散文のように、作文のように意味が分からくとも、全文を読んでほしいと思う。
意味を超えて、包み込んでくるものを感じるだろう。
ほんの一言から啓示を受けることもあるだろう。

ちなみに引用したのは、
『続・オクタビオ・パス詩集』真辺博章 訳 土曜美術出版販売 世界現代詩文庫27(1998年)による



 


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