2018年1月15日

断想 「絵はがき」または「本」について・・・

「絵葉書の行き先が君を貫くと、君は自分が誰だか分からなくなる。絵葉書がその宛先から君に、君だけに、呼びかけるまさにその瞬間、絵葉書は、君に届くのではなく、君を分割し、あるいは君を遠ざけ、しばしば君を無視する。」
ー ジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ 』



わたしにはこれは、この言葉は、「本」(= 出版された本一般)について言われていることのように思える。 本はわたしを遠ざけ、屡々わたしを無視しさえする。 ところが絵葉書は、まさに「わたし」に宛てて届けられたもの。 世界中にわたし以外の一切の宛名は記されず、 わたしの実在以外の何者の宛先も持たず、
もちろんそれはわたしのよく知っている「あなた」の手によって書かれている。
わたし以外の誰も読むことがない。

「本」「出版」ーー ' Publish ' すなわち「公に」すること、「公的」なものになること。
語源?シノニムは「パブリック」。すなわち生れた時から「皆のための」もの・・・
それ故時に本はわたしの実存を疎外する。

ある本について大勢が語っているのを聞くと、わたしは自分が「個」(・・・或いは「孤」)として、本との密接で親密な連繋を欠いていることに、そもそも何らの特権的な立場も付与されてはいないことに気付く。
「本」という 'Public Place' の中、バスケットボールのコート内でまごまごしている稚拙なプレーヤーのように。

それはわたしの手元から離れ、彼の手からまた別の者の手に渡り・・・わたしの思考・思惑・感情は、その都度公約数によって分割・約分され、本というボールは微笑みながらわたしの傍らをすり抜け、わたしを無視している。

「本」を含めたあらゆる「公的」なるものは、「私的」なものでないがゆえに、常に「個」に届くのではなく、「個」を分割し、あるいは「個」を遠ざけ、しばしば「個」を無視する・・・







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