2018年1月26日

弱者の罪・・・

「自分がダメなのは自分のせいであって、それを他人や社会のせいにする人はわたしは嫌いです」と言う人たちがいる。幾らかの優越感と自己満足を伴って。
こういう考え方ほど為政者にとって好都合なものはない。自分たちの無能・怠慢、無為・無策によって、人の一生の行程の至る所に穴ぼこをこしらえておきながら、それに落ちたのは誰のせいでもない、自分が悪いのですという者たちほど、政治家にとって愛おしい存在はないだろう。

以前若者のホームレス救済・支援活動をしているNPOを取材した本を読んだ時に、若いホームレスたちの多くが、こういう状態になったのは自己責任だからと、なかなか援助を受けたがらないという記述があった。その時わたしが感じたのは、痛ましいという気持ちでも、また憐れという感情でもなかった。わたしは彼らのそのような言葉に、なにやら滑稽なものを感じずにはいられなかった。「どこまで人がいいんだろう」と、可笑しくなった。

「人のせいにも社会のせいにもしたくない」ということが、まるで立派な心掛けででもあるかのように思い込んでいる人たち。
もっとひとのせいにしてもいいのに、もっともっと社会や政治のせいにすべきなのに、そうしないことで逆に弱者全体を更に窮地に追いやっていることに気付いていない者たちの罪。

もし「弱者の罪」というものがあるなら。それは「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなわたしのせいなのよ」と卑屈になって見せる人たちの被虐癖=マゾヒズム、そしてその偏狭さによって、本来味方であるはずの者(例えば生活保護費を使ってパチンコで憂さ晴らしをする者)を「恥ずべき存在」呼ばわりして足れりとする愚かしい「利敵」行為に他ならない。

引かれ者よ堂々と小唄を唄へ!


誰か 肯じて坐守して
亡逃するなからん

「誰が座して死を待とう
 逃散して賊となり
 叛徒となるのが当然ではないか」 ー 詩 王安石  意訳 竹中労








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