2018年1月27日

待ち望む終末(或いは厭離穢土)

昨年暮れ、思い立って利用してみようかと考えていた訪問看護も、精神科でおこなっているカウンセリングも、結局立ち消えになってしまった。
こちらのブログにも書いたように、現在の日本に生きていながら、それらを利用することで、どのように「生き易く」なるのか、まるで見当がつかないからだ。

引きこもりを余儀なくされている多くの人たちのように、わたしは「人が怖い」ということはない。けれども「人間嫌い」は年々その度を強めているようだ。人間嫌い。そして生まれ育った街であり、約半世紀を閲して、再度の「健康の祭典」へ向けて着々と「観光穢土」化する東京への嘔気。常に疑似(エセ)東京たらんと努める地方都市への厭気・・・

自分が現在の美意識や感受性、或いは「正気」を保ったまま、この国で生き易くなるということが考えられない。

人々は往々にして、「どのような社会を創るか」という方向にのみ目を向けているが、わたしの夢想は寧ろ「どのようにこの社会が滅びるのか」ということにある。
言い方を換えれば、「創出するために破壊する社会そのもの」が消滅するときである。
わたしが見たいのは、虚飾に満ちたきらびやかな都市の週末の風景ではなく、待ち望んで已まぬ全き終末の光景である。






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