2018年1月3日

本の内側

「古本のなかにさりげなくはさまっている紙切れが好きだ。」と、堀江敏幸は、エッセイの中に書いている。

「映画館や美術館の入場券、裏面に思いがけない広告が刷られている古い新聞の切り抜き、箸袋をやぶって書いたらしい電話番号のメモ、ブルーインクで書かれた流麗な女文字の暑中見舞い、ボールペンで住所に訂正のほどこされた名刺、「上様」とあるなにやら妙に区切りのいい数字がならんだ領収書、皺ひとつない戦前の拾圓札。紙切れの代わりに、何千万年もむかしの琥珀に閉じ込められた虫さながら蚊が平たくつぶれて半透明に乾き、鮮やかな朱が楕円の染み作っていたりするきわものもあった。衝動買いを名目にしながら中身をほとんど確かめず、表紙の感触だけで古本に手を出す悪癖は、じつはそんなふうに黄ばんだ紙の海の漂流物を見つけるためだといっても過言ではない。望んで得られるものでないだけに、頁のあいだからこぼれ落ちた過去の証人は、ときとして書物の中身以上に強い感動をもたらす。」
『回送電車』堀江敏幸 より「耳鳴り」(初出 1996年)

古い本のページを開き、ふとみつけてなによりうれしくなるのは、「押し花」や「押し葉」たちだ。
それは入場券や葉書、名刺や領収書といった「紙きれ」のように、且て「何かの用」を為していたものではなく、純粋にその愛らしさ、美しさを愛でるために拾われ、摘まれて頁の間にしまわれていたものだから。そして本の中に挟まれた花はおおむね小振りなものだ。

花も葉も、当時に比べれば色褪せてしまっているけれど、本が手に取られ、頁が開かれるのを待っていたようなその小さないのちのうつくしさは変わらない。
花や葉は、色褪せているからこそ愛おしいのだ。

「古本の中にはさまって入る紙切れ」といえば、昔銀座の教文館で求めたしおりを思い出す。その栞を長く使いたいためにぶ厚い本を読み始めたこともあった。それはロッソ・フィオレンティーノの「リュートを弾く天使」だった。












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