2018年1月23日

壊れた景色 Ⅲ

移ろいゆく町の姿に嘆息しながらも、「・・・町は変わってゆく。この町を愛しているけれど、わたしは再開発反対などと声高に唱えるつもりはない」と書いていたアマチュア・フォトグラファーがいた。そんな言葉を読むたびに、自分の感性との大きな隔たりを感じずにはいられなかった。

仮にわたしが毎日親しみをもって見ている樹があり、或る日その樹が伐採され無くなっているのを目にしたとき、その時わたしの心は、最早樹のあった時のものとは同じではない。大袈裟ではなく、わたしはその樹と共に、なにかを、魂の一部を喪失したのだ。

あそこにあった木造のアパートが取り壊されていた・・・
駅前の商店街の様子がまるで変わってしまった・・・
「アルベキモノ」が最早なく、「無かったもの」が現れる。
わたしはそれを「町は変わってゆくのだ」と肯い、受け流すことはできない。

ふるさとに入(い)りて先ず心傷むかな
道広くなり
橋もあたらし -啄木

その低劣な文化と極めて低い美意識に因って変わってしまった、また変わり続けることを宿命づけられたこの街の姿、形・・・。あるべきものが消えてゆくこと。「そこ」が最早「そこ」ではなく、「あそこ」は既に「あそこ」から消えていること・・・その心の傷み=「傷」が、終生癒えないこと。
それを「この景色は醜い」というよりも「わたしは苦しんでいる」というべきだとヴェイユは言うのだ。

わたしはこの街に「根」を持つことはない。何故なら「この街」「この国」自体に根というものが存在しないのだから。「根」或いはそれを「錨」と言い換えてもいいだろう。存在を安定させ固定しておくアンカー、錨。錨の名を持つスイスの画家、アルベール・アンカーは、かつて「見なさい、世界は呪われてはいない」といったというけれど、わたしは目まぐるしく転々流転する安らぎのない風景の中を漂いながら、永遠のホームシックに苛まれている。


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