2018年1月6日

不幸としての記号

外に出たくても出られない。そんな状況を誰が思い浮かべることができるだろう。或いは、こうも言えるかもしれない。「行ってみたいと思わせるような場所がない」と・・・

いずれにしても、外に出ることができないという状況によるストレスは、最早閾値にまで達している。たまに医者に行く必要などがあって外出して、このストレスが引き金になって、傷害或いは過失(?)致死のような暴行に及ぶことを怖れている。



「それだけではいかなる苦しみの原因でもないのに、記号(シーニュ)として苦しませる事物がある。何をあらわす記号か。単独で不幸を構成するにはあまりに抽象的なので、稀にしか(あるいはまったく)苦しみを与えないような状況をあらわす記号である。この種の記号は、それ自体が苦痛の原因ではないが、苦しみを引き起こす。
かくて、敗戦とドイツ人兵士の光景。
[・・・・]
かかる記号が頻繁に連日見られるならば、そこには不幸がある。
ふたつの事物の間に、記号(シーニュ)と記号内容(シニフィエ)のきずなが無ければ生じず、あれば生じる苦痛。ところで、この苦痛は肉体的に感知される(涙を流させるまでに)」
シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」

「それだけではいかなる苦しみの原因でもないのに、「記号(シーニュ)」として苦しませる事物・・・」
それはわたしにとっては、人々の持つ携帯用端末である。
「スマートフォン」と呼ばれるその「記号」(シーニュ)の表す「記号内容」(シニフィエ)とは「全体主義」である。

わたしが外に出るとき、路上で、また公園で子供を遊ばせながら、電車を待つ駅のホームで、目的地へ向かう電車やバスの中で、はたまた病院の待合室で、人々はまるで魅入られたように「スマートフォン」という滑稽な名称を持つ携帯端末に顔を近寄せている。

「例外のないこと」が「全体主義」の最も的確な定義であるなら、わたしは「モノ」=記号それ自体ではなく、それが象徴する「誰も彼も」「猫も杓子も」「老いも若きも」「あの人もこの人も」という文化の在り方に嘔気を催し、殺意を掻き立てられるのだ。

わたしにはそれが、人間が生きていく上で、どのように「欠くべからざるもの」であるのかがわからない。またそれが、生物学的な意味での生存に無関係であっても、「文学や芸術」のように「文化として」欠かせないものというのなら、ある特定の「文化様式」に対し、「否」という者が誰一人存在しないということが、なによりも不気味さを感じさせる。

わたしはこの「一つの記号をほとんどすべてが応諾している」という事実を「戦争」のさきがけとして忌避しているのではない。いや、寧ろこのような現状が果てしもなく続く日常よりも、全き破滅をこそ請い願う。
わたしには、均一なものや均質な言動、同一性、類似性に対する生理的な嫌悪があるだけだ。全ての人が一様であること、ひとつの型に嵌められているように見えることに、身の毛のよだつ思いがするのだ・・・

袖すり合うも他生の縁というが、「それ」に憑り付かれた者が、肩をぶつけてきた時に、
我を忘れ、憤怒と憎悪の激情に支配されたわたしが何をするかわからないという怖れを抱く。
たとえ「罪を作った」のが相手であることを承知していても・・・


邦人(くにびと)の顔たへがたく卑(いや)しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ ー 啄木











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