2018年1月28日

文化としての騒音 壊れた景色 Ⅳ

東京メトロ、地下鉄日比谷線のダイヤの一部で、明日、1月29日月曜日から車内にBGMを流すというニュースを知り、且て中島義道が「日本の文化としての騒音」と書いていたことを思いだした。彼の『うるさい日本のわたし』(正・続)は、共感と反発、相半ばする気持ちで読んだが、「日本では騒音を文化と見做している」という主張には100%共感する。

流れる音楽の種類が何であっても、そもそも個人々々の「趣味の領域」に属するはずの「美」や「快適さ」を、一様に親切ごかしでお仕着せるという発想が、いかにも邪蛮(ジャパン)的で、そこには、差し引いてゆくこと、控えめであること、抑制することではなく、上乗せすること、付け加えることを良しとする粗野で幼稚な美意識が露呈している。

現代日本人の耳目は「何もない空間や時間」というものに堪えられなくなっているのかもしれない。その目は不断に文字や画像を読み取らずにはおらず、耳は無音の状態に居たたまれない。

「水」や「空気」は、本来「無味無臭」である。けれども、それは決して「無味乾燥」ではない。「水」や「空気」の持つ「味」や「匂い」「うま味」に無感覚な者は、「何もない空間」の滋味というものを解し得ないのではないか。

「水にちょっと甘みを付けましょう」「空気に少しよい香りを乗せましょう」それと同様の倒錯した美意識が、今回の電車内でのクラシック・ヒーリング・ミュージックのBGM採用に通底しているように思われてならない。
日々の風景にどのような色付け、味付けをトッピングするかは個人の裁量に委ねられるべきであって、他人の容喙すべき事柄ではない。

ありふれた日常に逍遥し、世界の小さな断欠を観察する者にとって、或いは人気のまばらな車中の夢想者にとって、その妨げとなる「ノイズ」は、「ダダンダダン、ダダンダダン」という、単調であるがゆえに心地よく反復するリズムを体内に刻み込む列車の走行音ではなく、両側に一列に並ばせて口をこじ開け、飴玉をしゃぶらせるように、無理強いに聴かされる、まともな三半規管を持つ者にとっては堪え難い騒音でしかない「ショパン」であり「ドビュッシー」である。

「聴かされる」音楽は、いらない。











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