美(うる)はしきもの見し人は
はや死の手にぞわたされつ、
世のいそしみにかなわねば。
されど死を見てふるうべし
美はしきもの見し人は。『トリスタン』アウグスト・フォン・プラーテン(1796 - 1835) 生田春月訳
ジョン・アトキンソン・グリムショウ、英国ヴィクトリア朝の画家。(1836 - 1893)
完璧な夜がかつてあった・・・
◇
プラーテンの詩はもともとドイツ語で書かれたものだが、春月の訳は文語文で意味が通じにくいところがあるので、英語ではどのように訳されているのか調べてみた。
Who looked at the beauty with eyes,
Is already given to death,
Will not be good for any service on earth,
And yet he will quake before death,
Who looked at the beauty with eyes.
美をその目で見た者は、
既に死の手に渡っている。
この地上のいかなる活動にも適さず、
しかもなお(彼は)死を前に震えおののく
美をその目で見た者は。
◇
もとよりわたしはいつの時代に生きようとも何の役にも立つことはないが、
美しいものを見てしまったばかりに、「アリウベキ世界」を観てしまったがために、
「現にアル」世界にどうしても馴染むことが出来ずにいる。
◇
「家にあれば筍(け)に盛る飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは、行旅の情をうたったばかりではない。われわれは常に「ありたい」ものの代わりに「ありうる」ものと妥協するのである。
学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取ってみれば、椎の葉はいつも椎の葉である。
椎の葉の、椎の葉たるを嘆ずるのは椎の葉の筍たるを主張するよりも遥かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少なくとも生涯同一の嘆を繰り返すのに倦まないのは滑稽であるとともに不道徳(過度)である。実際また偉大なる厭世主義者は渋面ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディさえ、時には青ざめた薔薇の花に寂しいほほえみを浮かべている・・・
芥川龍之介『侏儒の言葉』より
けれどもこう書いたその人は、遂に美に殉じたのではなかったか?
椎の葉の椎の葉たるを一笑し去ること能わざる者ではなかったか?
美はしきもの見し人として、夙に死に供された魂ではなかったのか?
実用の世界に於いて、筍が椎の葉であっても、「不便を忍ぶ」ことはできただろう。
けれども美が醜によって駆逐された世界で、まして醜の美たるを主張する世界に於いて、尚それを一笑に附すことは彼にも為しえなかったはずである・・・
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