2020年10月24日

関係性の障害と治癒

 
「治療者は患者にとって、さしあたってはまず、自己を侵害し、自己の自由を制約する他者の代表者とみなされる。
このいわば倒錯した治療構造を助長しているのが、精神病は ── 自殺を重大な例外として ── 原則としては放置しても死に至らない、したがって患者という個別的な有機体だけを視野に入れる場合には、治療の必然性が成立しないという事実である。個体の死への方向性を示さない「疾患」について、医学はどのようにしてみずからの基本構造を維持できるだろうか。
 (略)
精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にないという構造の中では、治療の対象となるべき病苦の座を患者個人の有機体器官の病変に置く自然科学的医学のパラダイムは、たちまちその有効性を失う。それにかわって、患者が家族の一員であり、学校や職場の一員であり、結局は社会の一員であるという仕方で、逃れ難く自他関係の網の目に取り込まれている構造そのものが、精神科治療の、そしてそこから派生する臨床精神医学の研究の本来的な関心事となる。
 

人間を含むあらゆる生物は、種の保存と個体の生存のために、絶えず環境との間に必要な関係を維持し続けている。その場合、生物の側の内部事情も環境の側の外部事情も、それぞれ刻々に変化し続けているのだから、両者の関係もけっして安定した恒常的なものではありえない。関係は常に致命的な断絶の危機にさらされている。生物はそのつどこの危機を乗り越えて新たな関係を再建するという仕方でこの関係を維持しなければ、生を保全することができない。生物が種全体としても個体ごとにも生きつづけているということは、要するに環境との関係が保たれているということ、関係が存続しているということである。生物の存在の意味が生存ということに集約される以上、生物の行動の支配する究極の意志は、環境との境界面に於ける関係の維持に向けられている。

ー木村敏『分裂病の詩と真実』第2章「関係としての自己」3「自己と他者」及び  4「自他関係の生命論的構造」(初出1995年)より


エリクソンが「精神疾患とは関係性の障害である」というように、そしてここで、木村敏が指摘しているように、わたしに関して言うならば「精神科治療を必要とする理由が患者自身の内部にない」ということがあてはまる。
木村敏の言葉を借りれば、「環境」は「わたし」という個体とも、また、種としての「ヒト」とも全く無関係に、自己目的的に勝手に変容を続けている。
しかし、わたしの視界に入ってくる「種としての人類」は個体としてのわたしの環境との軋轢・葛藤をよそに、やすやすと、環境の変化に即応しているように見える。
だとすれば、環境の変化に容易に適応できる者たち(=種)と「わたし」という個体との共通項とはいったいどこにあるのだろうか。
人間(乃至生物)は常に自己を取り巻く環境とともに生きる存在である。では、ひとたび損なわれ、喪われた(不可逆的な外部環境との)関係性の修復とはどのような形で可能なのだろう。


ー追記ー

ここで木村敏が言っている「環境」とは、例えば「地球の温暖化・寒冷化」そして今回のような「世界規模の感染症の流行」のような、主に、生物の「生体」に危機を及ぼす「環境の変化」である。
けれども、わたしは「街の景観」「社会構造の変化」といった「心理面に影響を及ぼす環境」をも含めて、広義の「環境」と言っている。人間が身体と精神を持つ存在である以上、「環境」との関係性に於いて、その「心理的側面」を無視することはできない・・・











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