2020年10月1日

ありがとう


底彦さんから「無題」という数日前の投稿にコメントを頂いた。加えて、先に底彦さんのブログに残したわたしのコメントについての彼の返信にも併せて、考えることを書いてみようと思う。

いまでも、「緻密で」「洗練された」「端正な」文章を書きたいという欲はあるが、今のわたしにそれは望むべくもない。ただ、頭に浮かんだことを断片的に書きおくという形にしかならないが・・・

底彦さん。例によって、承諾なしの引用を許してください。

この投稿」へのコメント欄で底彦さんは、わたしの言葉を承けて


「もう気力も生への執着も消え果てたのですか? もう一度, 自身の心の奥底に深く目を向けてみてくださることとお願いします.

私はこんな悲しい文章は読みたくありません.

何とか生への隘路を探してくださることを祈っています.

友人より.」

と書いてくれた。

また上記のわたしの「無題」へのメッセージでは

私は Takeo さんに対して非常に身勝手なことを書いています.

Takeo さんの「身辺整理」によって, そのような対話の可能性すらも閉じられてしまうのでしょうか?
私はその対話の通り道を塞いでほしくはありません.

身勝手ではありますが, 一友人の心からの言葉と思ってくだされば幸いです.」


底彦さんは、おそらくは誰よりも、わたしの現在の状況を理解してくれている人だと思う。
「生きられない」ということを。

それでも、自分があなたが必要だから生きてくれと・・・

わたしには「友人」「友」のはっきりした定義はわからないが、「私のために、僕のために、死なないでくれ」というのも、明らかに友情だと思う。それを「身勝手」と呼び、「エゴ」と言ったとしても、やはりこれは友情から発せられた言葉だとわたしは感じている。

人間て、ほんとうに複雑で、一筋縄ではいかないし、整合性など求めようもない。
「身勝手な友情」といった一見矛盾した形容が存在する世界なのだ・・・

事故によって全身麻痺の後遺症を負った男性が不法行為とされている安楽死を、様々な周囲の「手助け」によって成し遂げるまでを描いた、実話に基づいた映画『海を飛ぶ夢』で、彼は、「あなたが好きだから生きてください」という女性の言葉を斥け、「僕を死なせてくれるのが真の友だ!」と。

自殺幇助も真の友情であり愛であるし、「私・僕のために死なないで」というのも、同様に真の友人の言葉なのだ。

そのような複雑な世界にわたしたちは生きている。

底彦さん。先ずなによりも、あなたの言葉に感謝します。


これも数日前、ふたつさんから久しぶりのコメントをもらった、
書かれている内容以前に、紹介してくれた絵や詩以上に、わたしに声を掛けてくれたことで、たとえそれが数時間であっても、わたしの気持ちが明るくなり、晴れやかになったことを彼に伝えておきたい。

シモーヌ・ヴェイユを初めて知ったのは、蒲田の古本屋の店先で彼女の本をパラパラとめくっていた時に出会った短い言葉

「不幸な人たちしてあげられる唯一のことは、彼らに関心を寄せることだ」

正確ではないが、そのような言葉が書かれていて、わたしはこの言葉に強く惹かれた。

わたしが死を選ぶとしたら、その死因はおそらくは「孤独」なのだ。

孤独とは単に「友人がいない」ということに限らない。わたしは「街」という友を喪った。

だから「猫額洞」さんが先日のブログに書かれていた、「地下鉄を降りて階段を上り地上に出ると、街/町が迎えてくれた!」という感慨を共有することはできない。

・・・疲れたので、一旦ここで投稿します。

尚今日どなたかがまた古い投稿を読んでくださいました。無論いつも言っているように、どの投稿が閲覧されたかは表示されますが、「何処の誰が、いつ」ということまではわかりません。

リンクばかりべたべたと、見にくいとは思いますが、現在に続く想いが記されている投稿ですので、一読いただければと思い、ご紹介します。

前半の資料に関する部分よりも、後半の、石原吉郎の言葉、二階堂奥歯の言葉に対するわたしの反応が、何かしら参考になるかもしれないと思います。

或いはこの過去の投稿を読まれたのは他ならぬ底彦さんかもしれませんね。

どなたであるにしても、このような投稿を見つけ出す能力に驚いています。
















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