2020年10月3日

これから

自分自身がいよいよ行きづまりの段階に来ているということが、新しい年を迎えての切実な感想である。同時に、僕が僕自身の絶望的な状態に対して、まがりなりにもこのようなはっきりした認識を持ったということが、辛うじて救いでもある。
何かが変わらなければならぬ(そしてそれは一切が変わることなのだが)という感じが今ほど切実なことはない。
生活態度を改めるとか、酒をやめるとか、煙草をやめるとかいう問題ではない。自分自身が存在としてまったく破れ去っているいること、その破れのまっただなかから「僕を救ってください」という声を、全身をもって叫ぶこと。そのことを除いて、僕が存在し得る契機はもはやなにひとつのこっていない。
ー石原吉郎、1961年1月11日のノートより

「「僕を救ってください」という声を、全身をもって叫ぶこと。そのことを除いて、僕が存在し得る契機はもはやなにひとつのこっていない。」

けれども、「救うー救われる」とはどういうことを意味するのだろうか。そして人は真の意味で人を救うことが可能な存在なのだろうか。

わたしは誰かに「救い」を求めることができるだろうか?
ゼニカネの問題、或いは身体的な病であればそれも可能かもしれない。しかし人が人の魂を救うという時、それはどのような方法で?


繰り返し「来年の夏にはここで母と暮らすことはできない」と言ってきた。けれども事態はそんな悠長なことを言うことを許さないほど切迫している。
既にわたしの精神はここに弟が毎日来る事が耐えられない状態になっている。そして弟の安息が「ここ」と「母の傍」にしかないことも承知している。

近いうちに、母が行ってみたいと言っていた「五日市」に一緒に行こうと考えている。
最初はそこで、わたしは残り、母だけが帰るという話だったが、鹿児島のラグーナ出版が、わたしのブログに関心を示してくれた。「コロナで移動は難しいでしょうが、鹿児島にいらした時には是非声を掛けてください、その時は温かくお迎えします。」と言ってくれた。

母も鹿児島に行けばいいと言う。ラグーナ出版で仕事をさせてもらうとかいう話ではなく、あなたの書いたものに関心を示してくれた人と、1・2時間なりとも話をするだけでもいいじゃないかと。

最早わたしには五日市からでも、桧原村からでも、また鹿児島からであっても、帰る場所はない。この世界にまだわたしという存在に、わたしの文章に興味を持ってくれる人がいるなら、その人に会うのも暫しの猶予だ。「死」という、おそらくは「救い」までの。

ここにいて物を壊したり母に暴力を振るう前に消えなければならない。

わたしのことだから全く未定ではあるが、母と一緒に五日市に行ったあとに鹿児島に行くという予定だ。無論あきる野市から鹿児島まで一直線に行くわけではない。途中わたしの喪われた故郷でもある大森あたりのホテルにでも一泊して。

ラグーナ出版は鹿児島市の中心部にあるので、わたしはもっともっと「何もないところ」=自然の懐深くを求めて奥へ行くか、他県へ移動するか。まるでわからない。途中で「新たな居場所」が見つかるとは思えない。最後の仕事を終わるまでに力尽きてしまったのではどうしようもないので、あまりあちこちへはいけない。実質的には金を持ったホームレスのようなものだ。
もちろんここに帰ってきてはいけないとは誰も言ってはいないが、弟のいる場所にともにいることは最早わたしの精神が耐えられない。

わたしの唯一の通信手段はこのパソコンだけ。だからどこかでマンガ喫茶のようなところでも利用しない限り、ブログはもとよりメールのやり取りも不可能になる。

そしていったん九州まで行けばおそらくはもう二度と東京に戻ってくることはないだろう。
物見遊山に行くのではないのだから。

あまり間を置いて寒くなると身動きが取れなくなる可能性も出てくる。けれどもこの家に最早安息はない。破壊衝動は日増しに高まっている。せめて五日市か桧原村で鹿児島行きの英気を養うことができればと思うが、途中で力尽きるかもしれない。けれども、警察に保護されて、「ここ」に戻されるのは御免だ。







 

 

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