2020年10月3日

朝の心境

 
今日は頼んで母に弟のところに行ってもらった。
けれどもこうして誰もいない家で目を覚ましても、なんにもすることがないとあらためて周囲を見回す。数年前までは弟の来ない日があって、その日は母もわたしもなんとなく活き活きとした、すがすがしい感じだったが、いまはただただ索漠、そして寂漠・・・
今日来ないといっても明日の今頃にはまた弟はここにいる。

先程主治医に、このような事情で、急を要するので、先生のところに行くことができない、多分もうお目にかかることはないでしょうとお別れの電話をした。

主治医の立場として「ああそうですか。じゃあお元気で、お気をつけて」とは言えない。
そういう状況であるなら「入院」という選択肢はどうですかと訊かれた。
入院ということは考えても見なかったし、正直なんのために?という疑問が拭えない。
主治医としては第一義的に、「金を持ったホームレス」という状況は避けなければならないと考えたのだろう。考えてみます、と答えたが、よくわからない。

入院して、ではいつなら、何処へ退院できるのか?
入院して退院して・・・戻ってくるのは「今この時点」ではないのか?

初めは弟の煙草の臭いがイヤだっただけなのが、全体的な症状の悪化とともに、
「煙草の臭い」ではなく、弟自身を怖がるようになった。

入院するということはどういうことなのだろう?
入院することで、わたしのなにが、どう変わるのだろう?

一方、現実に宿泊費用があったとしても、金が尽きるまで、宿から宿へと文字通りまったく何のあてもなく、土地勘も、知識もなく「放浪」するというのも確かに無理のようだ。
あてのない一人旅ではない。自宅から逃げ出すのだ。
旅を楽しむという余裕が生まれるだろうか?帰る場所はないのだ。

しかし今は弟にも、母にも、何の悪感情もない。弟だって好きで生きているわけではなく、更に言えば望んで生まれてきたわけではない。そして母はわたしたち二人に対して、最後まで「母となった責任」を果たすつもりでいる。「親という存在はほんとうに無力だ、とつぶやきながら。

太宰治がエッセイで引用しているシラーの詩。自分には最早地上にいる場所はないと天に苦情を言う詩人に対して、神は、「わたしの隣が空いている」と答えた。




「残念なことに(Sorry)」

親愛なる両親へ。
あなたがたがこの変わりばえのしない町に、
私を生んだことを咎めようとは思いません。
その気持ちは正しかったのですから。
今通り過ぎる町の通りには、
まだ、明るい日の光が残っています。

締め金で骨を締め付けられたわけではありません。
あなたがたは、充分な食べ物をおしみませんでした。
この私が丈夫に育つように、と。
背ののびた私を折り曲げたのは、
心の重み(Mind's Weight)です。

あなたがたが悪かったのではありません。
遠くへ飛んで行ったきりになるはずのものが、
確かな弓から、確かな的へ向かって
放たれた矢が、逆に戻ってきてしまったのです。
まっすぐなはずの矢が、曲がって撓んでしまっています。
あなた方の時代にはなかった、さまざまな疑問のせいで・・・


R.S.トマス (1913-2000)
長田弘『なつかしい時間』(2013年)より















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