生きていることの苦しさが、現世に於いて軽減改善されることはないと思えば、心は自ずと、「救い」ということを考えるようになる。しかし天国も地獄も信じておらず、自殺を肯定し、死ねば無に帰すると考えるわたしにとって「救い」とは何か?魂が救われるとはどういうことか?
わたしにとって救いとは、何処に、どのような形で存在するのだろうか?
10数年前、当時のSNSで、アメリカの10代の女性に、あなたはキリスト教も、宗教についても知らなすぎると言われた。その通りだと思った。
そして今のわたしは
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」というエミール・シオランの言葉に深く頷く。
Takeo さん, こんにちは.
返信削除> 10数年前、当時のSNSで、アメリカの10代の女性に、あなたはキリスト教も、宗教についても知らなすぎると言われた。その通りだと思った。
私には, Takeo さんは宗教を知らずとも, 哲学をする者であると思います.
何らかの宗教を信仰する者は, 聖典や教義を通じて, ある種の形而上学的な問いかけ ── 「神とは何ものか」「存在とは何か」 ── に導かれると考えています.
しかし, たとえば私は信仰を持たず, 神を信じていません. 大いなる者への畏怖のようなものはありますが.
よって, 聖典などを通じてそのような形而上学的な思考に染まることができませんでした.
Takeo さんが「なぜ生きるのか」という自らに投げかけ続けてきたような問いを, 私は持たず, 自分で勉強することである程度得ました. 信仰者が子どもの頃から受けてきて, 自然に心に染み込んだ教義を通じて得る哲学的・形而上学的な思考を, 取ってつけたように後から頭で理解しようとしたのです. ですから, 真に身についたものではありません.
宗教に理論的な背景を与えてきたのは哲学, 特に形而上学だと思います. そのために信仰を持つ者は知らずそのような抽象的な思考に馴染みやすいのだと考えています. アメリカの 10 代の女性が「あなたはキリスト教も、宗教についても知らなすぎる」と言ったのはそのような立ち位置からでしょう.
宗教の場合は「神」という答えがあらかじめ絶対のものとして与えられていて, それが「救い」に結び付いていくのではないでしょうか.
ブログを読んでいる限り, Takeo さんはおそらくずっと「なぜ生きるのか」を自分に問い続けてきたのですよね.
その問いかけを私は Takeo さんの生まれついてのもののように受け取っています.
それは聖典でも教義でもなく宗教的ではないけれども, 哲学的な問いかけです.
Takeo さんはそうやって哲学的な道筋を通って救いを求め続けているように見えます. その歩みは極めて注意深く慎重で懐疑的なので, 所謂「啓示」や「悟り」といった信仰の地点には到達しないのです.
その姿勢に「哲学する者」を感じます.
そしてそのような Takeo さんの姿は私にはとても信頼できるものです.
引用されているエミール・シオランの「極限的な対話の形」というものが私にはわかりません. 病の苦しみを見つめ続けることはずっとやってきましたが, それが果たして何者かとの対話なのかどうかは不明です.