このところ、何にも熱心に取り組むことができない。
先日の投稿に書いたように、今、わたしの目はほんとうに見えているのか、或いは盲
いているのかすら、わからない。今年になってからほとんど本を読んでいない。
昨年から、見える方の目が白内障で、楽に本を読むことが出来なくなり、今年4月の手術以降も、「読まない習慣」がついてしまったのか、或いはもっと別の理由かはわからないが、定期的に図書館にリクエストした本を母に借りに行ってもらっては、返却期限になったらまったく一ページも読まないまま返すということを繰り返している。
白内障の手術が失敗したわけではない。しかし目が良くなったという実感がまるでない。無論20代前半の時の緑内障で損なわれた視力・視野が回復することはない。けれども少なくとも、昨年からの白内障は「良くなった」はずだ。それでも本を読む気になれない。映画を観る気になれない。パソコンの画面は、現在は普通に見ることが出来ている。このように文章も書ける。けれども、本が読めないうちは、映画が観られないうちは、ほんとうに「目が見えている」という実感が掴めることはないだろう。
またひとつ、「目が見える(見えている)とはどういうことか?」という形而上学的な疑問が加わったわけだ・・・
◇
今日届いた『シナプスの笑い』にラグーナ出版の書籍目録が同封されていて、中に、『勇気をくれた言葉たち』という一冊があった。本の紹介には 「全国の精神障害体験者から寄せられた、精神病の絶望から救ってくれた言葉を収録。一言で孤独や絶望から救われてゆく体験者の姿は、病を問わす、人生に迷い傷ついた人の心も癒してくれる。人生を変える言葉の力を感じよう」とある。
いつか機会があれば読んでみたい。
けれどもわたしは所謂「明けない夜はない」「止まない雨はない」といった言葉には少しも心を動かされない。「前方」「未来」「希望」といったものにどうしても反発を感じてしまう。
過去にわたしの人生を変えた言葉などあっただろうかと振り返ってみても、何ひとつ思いつかない。
つまり不特定多数に向けられた言葉、本の中の言葉や映画のセリフ、歌詞などに、知的な次元で、感心し啓発され、刺激を受けることはあっても、それらによって勇気づけられるということは、わたしに関してはないようだ。
言い方を変えれば、わたしが励まされるのは所謂「名言」や「前向きで希望を語った言葉」ではなく、他ならぬこのわたしに向かって放たれた言葉によってなのだ。
わたしはこのブログにあまりにもコメントがないので、先日紹介したブログの筆者に、どうすれば「コメント」をもらえるブログが書けるかと、本気で訊こうと思っていた。それほどまでにわたしの書いていることは無意味なのか、やはり「化け物」の言葉は通じないのか・・・と。
そんなことを考えていたところに、前回のコメントから久しぶりにふたつさんからコメントが届いた。
冒頭に書かれていたのは
わたしにはこの言葉の意味がよくわからない。
先日頂いた画とそれに添えられた「詩のようなタイトル」、それから「差別」に関しての記述は、わたしの「差別主義者に抗す」という投稿ごと削除した旨、10月4日の「ふたつさんへ」という投稿の冒頭でお伝えしている。(それはわたしの投稿に頂いたコメントなので、投稿そのものを削除すれば、そこに寄せられたコメントも一緒に消されることになる。だからわたしは新たに「ふたつさんへ」という投稿をした。)
それ以降は誰からもひとつのコメントもない。つまりブロガーによると、今日のふたつさんのコメントの前に最後にもらったコメントが、わたしが削除した「差別主義者に抗す」に頂いた2件のコメントだ。
◇
わたしはよく母にここの文章を読んでもらっている。そしてまるで反応がないことをボヤくと、母は、こういう極めて個人的な文章に何か言葉をかけるってことはマア難しいでしょうね、と。
わたしにはていめいさんのような名文は書けない。そして母の指摘するように、極めて個人的な言葉しか発することができない・・・
昔日は知らず、現在のこのブログには無用・・・という以上に有害なものとおもわれますのでコメント欄を閉じます。
今のわたしにはたまさかコメントを頂いても、その言わんとしていることを正しく読み取る能力が失われているからです。
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