2020年10月4日

「こころのやまい」について

 
川畑さま。

本日「シナプスの笑い」が到着しました。ゆっくりと拝読させていただきたいと思います。
ただ、最後に書かれていた「投稿募集」に関しては、わたしは投稿はできないなと感じました。
既にわたしのブログの幾つかの記事をご覧くださった川畑さんならお気付きだと思いますが、わたしには「こころのやまいの回復に役立ち」「人に希望を与えるような」文章を、いかなる形式であっても書くことができません。

その一例が川畑さんが読まれた「心の病との闘い 雑誌に」という東京新聞の見出しに対する「違和感」にも表れていると思います。

関連投稿としてリンクを貼った「まっとうに狂う」ということ」で引用したように、高村智恵子や島尾ミホは、心がより自然であるがゆえに、「空のない」東京で、精神のバランスを失ったのではないでしょうか?

わたしは「正常であることが即ち精神の「異常」乃至「失調」を意味する現代社会・・・」という辺見庸の言葉に共感するものです。

「空のない」東京で、「良くなる」「元気になる」ということは、とりもなおさず「空がない」という「不自然さ」に順応することに他ならないとわたしは考えます。逆説的ですが、「空のない東京」で「正気ではない」「正気でいられない」ということが、正に智恵子の「まっとうさ」を証していると思うのです。

そしてわたしもまた、「まっとうに狂った者」のひとりだという自覚を持つのです。
ですから(わたし個人に関して言うならば)少なくともこの東京という場所に於いて、「元気になる」ということは、逆に「不健康になる」ことだとすら思うのです。

もちろんすべてがわたしのようなケースではなく、現実に「心の病」に苦しんでいる多くの人々がいるということもまた事実です。

わたしは「心の病」及びそれとの「闘い」を否定するものではありません。


全ては当人がどう思い、なにを優先させるかだと思います。「空のない町」に順応することで楽になれるのなら私はそれを選ぶ、という選択があってもいいと思います。無理をしてまで「まっとうに狂って」いる必要はありません。

ただわたしは「わたし」として生まれてきた以上、「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」に殉じるつもりなのです。

繰り返しますが決して「元気になる」ことを否定はしません。


なんだか重苦しい文章になってしまいましたね。

わたしの言ったこと、(「孤立と、独特の認識の化け物」としての)わたしの存在、わたしの考えは、ありのままにラグーナ出版の仲間たちと共有し、考えてもらって一向に差し支えありませんが、それはあくまでも、わたしのことばで傷つく者がいないという前提がなければならないと思います。無論この文章も、川畑さんの仲間たちと共有してもらって皆で考える一助になれば幸いです。

いつも気に掛けてくださりありがとうございます。

残りの休日を穏やかに過ごされますように。


追伸

「自明性」ということに関してわたしが思うのは、「心の病」=「治癒すべきもの」という考えが自明のものであるとしたら、それを先ず疑ってみるということでしょうか。
「発熱」「発汗」「寒気」「痛み」等が生体の「自然の反応」であるように、「こころの病」も、それに伴う「症状」もそれ自体を「解熱・鎮痛」的な方法で「治す」ということに、懐疑の目を向けるという考えをわたしは持っています。何故ならまさにそのような「鎮痛・解熱」的な対処こそ、他ならぬ「心の悲鳴」に耳を塞ぐ(或いは心を黙らせる)ことになるのではないかと思うからです。









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