2020年10月23日

負が背負う唯一性

 川畑さんとのやり取りをブログに用いることについて、川畑さんは、自分にとって貴重な体験をインターネットという「匿名の海」に投ずる事はできないと仰った。
その気持ちは非常によくわかる。

そのような極個的な関係に踏み込まなくとも、他者性を語る方法はあるはずです。

というわたしの返答に対して、

極個的な関係の「極個」という言葉にハッとさせられました。
そして、私がなぜ固有名にこだわるのか、他者性の文脈で分かりました。
それは、固有名は取り替えがきかない、ということです。
すなわち、私の「メール仲間」(という言葉)は取り替えがきくけれど、
「武雄」は取り替えがきかないということです。
他者性を前提にしたとき、この取り替えのきかなさ(極個性)が倫理の土台に必要、と考えました。

一般に健常者と対比して、障害者は欠損、不良品、無価値、無用という評価を与えられる傾向にある。けれども、欠損を抱える者、壊れてしまった者にこそ、その欠損ゆえに、「唯一性」ー「極個」性が備わっているという逆説が成り立つ。

すなわち
「健康でノーマルな人間はつまるところ、「群れ」に過ぎない」
ーアントン・チェホフ






 

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