2020年10月4日

「心の病との闘い」

 
ラグーナ出版を紹介する新聞記事を改めて見直すと、見出しは「心の病との闘い 雑誌に」とある。母とよく、東京新聞の記事の見出しはどこかおかしいと言っているが、「心の病との闘い」という文句を読んで先ずわたしの頭に浮かんだのはクエスチョンマークだった。
これがよくわからないというのは、おそらくわたしが「当事者」ではないからなのだろう。

わたしは常々、自分は狂人であり、「独特の認識の化け物」であると自称公言している。この、わたしの「狂気」もふくめて「わたし」という実存だと考えている。
わたしは「狂人」であり「化け物」ではあるけれども、おそらくは「心の病」ではないのだろう。

生きることが困難なのは(わたしに関していえば)心の病のせいではなく、わたしの感受性、わたしの美意識に由来する。腐臭に満ちた醜悪なものを見せられて嘔吐した場合、その人は病気なのだろうか?

確かに底彦さんなどの場合には「心の病との闘い」という言葉が当てはまるのだろう。
そしておそらくはラグーナ出版で働く人たちも。

繰り返すが、わたしは狂人であり「独自の認識の化け物」という自覚は持っているが、
「闘うべき」「心の病」を持っているという自覚はない。

敢えて戦うべき相手というなら、それは自分の心ではなく、この醜悪な世界=穢土に他ならない。

結局わたしが遂に「良くなるとはどういうことか?」という疑問を払拭できないのも、自分には「治し」たり「治癒」すべき心の病はないという半ば無意識の自覚に因るのだろう。
生きることの苦しさ、ひいてはそれによる自死に至ったとしても、それは「心の病」に起因するものではない。




注)この文章に描かれたふたりの妻とは、高村光太郎の妻智恵子と島尾敏夫の妻ミホのことである。












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