2019年3月2日

「まっとうに狂う」ということ


ここに一枚のコピーがある。何かの本のページを母に図書館でコピーしてもらったものだが、誰のなんという本だったか記憶にない。おそらくは矢川澄子の『受胎告知』ではないだろうかと思う。

そこにこのような文章が書かれている。



もひとつ、ついでに打ち明けるならば、このおびえは、ここに語られているような狂った妻、もしくはまっとうに狂気への道を歩むことのできたすこやかな妻たちをまえにしてIの抱く畏れや尻込みとも、奇妙に通じるものをもっている。まっとうに狂うとはおかしないいかたかもしれないが、しかしこの妻たちは、少なくともおのれの生物学的自然に忠実に即していたという意味で、あきらかにIよりは数等健全な野性の持ち主だったともいえよう。それにひきかえ、もともとが半世紀も前から「ほんとの空」さえなかったらしいこの東京で、不自然をさして不自然とも思わずおとなしく調教されつけてきたIのことだ。Iは狂えなかった。これでは狂い出しようがなかったのだ。

安達太良山や奄美の自然との素朴な一体感のもとにはぐくまれてきたこの妻たちは、長じて夫婦という新たな褻の交わりにふみこむことになったときも、同じ人間自然への信頼感にもとづいた大らかな交換図をくりひろげることが可能だったのだろう。少なくとも当初はそうであった。その交歓が何かのはずみに害(そこな)われたとき、妻たちが狂っていったのはむしろ当然の成行であったともいえる。それにひきかえIの方には、幸か不幸かあらゆる人工や作為、倒錯、偽善、総じて不自然なものに対する耐性だけは並外れて具わっていたらしい。疎外に配するに不健全な精神。あたかもマイナスにマイナスをかけ合わせたように、重ね重ねの不自然が相乗しあってうわべの正常をもたらしたのだ。とはいえこのような意味での正気を、いったいだれがだれに向かって誇れるというのか。
(下線Takeo)

ー矢川澄子『受胎告知』より「花と女と」(2002年)


※なお母の記憶によると「安達太良山」(あだたらさん)とは「東京には空がない」といった高村智恵子のふるさとのようだ。








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