2019年3月8日

苛立ちと腹立ちと憎しみと孤独と寂しさと諦めのなかできれぎれに思うこと…


● わたしにとって「死」とは、最早「人間ではなくなる」ということである。尤も、わたしがこれまで、そして今現在も、「人間性」とか「人柄」の良し悪し、といった次元ではなく、そもそも地球上のいち生物としての「人間」であるのかは、誰も証明はできないし、またその確率は極めて低いのだが・・・

● 仮に「天国」のようなものがあったとして、そこでも引き続きニンゲンでいなければならないとしたら、そこは既にして「地獄」である。

●「幸福は罪ではない」と詩人吉原幸子は書いた。この言葉は、わたしに黒澤明の『天国と地獄』を思い起こさせる。
「幸福は罪ではない」とすれば「不幸は罪」か・・・

● 言葉の誤用について ──「幸福」というものはない。それは「幸運」である。「不幸」というものはない。それは「不運」である。

● わたしとあなたとの「相違」ではない。「対立」である。

● もとよりわたしは狂っている。では借問する。
「狂っていない」人間とはいかなる存在か?
狂っていることの最大の特徴は「他を傷つけること」ではないか。
器官としての脳の専門医であってさえ完全はあり得ない。ましてや目で見ることのできない「こころ」を扱う医師であればなおさら迷い、過つのに、「~だとすれば、あなたは脳に欠陥があると思う」といえること。
「引きこもりは人生に対する罪であり、また罰である」と他者の人生、他者の苦痛を高みから断罪すること。──「狂っていること」の目安は「私は間違ってはいない」=「私は正しい」と信じて疑わないことではないのか?狂気とは、人間は過つ存在であるということを、無知ゆえか、思い上がりゆえかは知らぬが、度々失念する、という質(たち)の良くない健忘性ではないのか。自分に自信のあることと、己は無謬であるという錯誤とは全く違う。自信を持つことと自己懐疑は背馳しない。というよりも、そもそも自己への懐疑の伴わない自信など、所詮は単なる自惚れか嗤うべき「勘違い」に過ぎない。

もとよりわたしは過つ。またしばしば「断定的な物言い」をする。けれども本質的に自分は「誤った」或いは「間違った」存在、'Misfit' ではなく’Miss'であると信じている。
わたしにまだ人間としての残滓があるとすれば、そしてわたしをA.Iや、他の人間と分かつものは、「わたしは愚者であり、誰よりも多く過つ者である」ということを知っていることかもしれない・・・

● 長田弘は宮沢賢治の「烏の北斗七星」という童話からの一文を紹介している。
敵の死骸を葬る烏の兵士の星への祈りである。

「ああ、(……)どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように。そのためならば、わたくしのからだなどはなんべん引き裂かれてもかまいません」

わたしはこう言う

「ああ、憎むことのできる敵を殺し、何べんも引き裂くことのできる世の中であれば・・・」

長田は同じ本『なつかしい時間』の別の章でウェールズの詩人R.S.トマス (1913-2000)の詩を引用している。





「残念なことに(Sorry)」

親愛なる両親へ。
あなたがたがこの変わりばえのしない町に、
私を生んだことを咎めようとは思いません。
その気持ちは正しかったのですから。
今通り過ぎる町の通りには、
まだ、明るい日の光が残っています。

締め金で骨を締め付けられたわけではありません。
あなたがたは、充分な食べ物をおしみませんでした。
この私が丈夫に育つように、と。
背ののびた私を折り曲げたのは、
心の重み(Mind's Weight)です。

あなたがたが悪かったのではありません。
遠くへ飛んで行ったきりになるはずのものが、
確かな弓から、確かな的へ向かって
放たれた矢が、逆に戻ってきてしまったのです。
まっすぐなはずの矢が、曲がって撓んでしまっています。
あなた方の時代にはなかった、さまざまな疑問のせいで・・・















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