2019年3月25日

「俳句」と「現実」


駅までに三たび匂ひぬ沈丁花 (変哲)平成十四年(2002年)三月

また今年も沈丁花の匂いを嗅がなかった。もう散ってしまったのだろうか。

イタリアのサイトでこんな写真を見つけた。複数のサイトに同じ写真が載せられていたが、時期も場所も、写真家の名前も見つけられなかった。


今の時代の写真だろうか、それとも、昔の写真だろうか?

チンチンの子のいる路地の残暑かな (変哲)平成十四年(2002年)九月


「現実」とは、何か?

号、「変哲」こと小沢昭一の俳句には「現実」が描かれている。
しかし彼の描く「現実」は、今の時代の現実だろうか?
わたしにはとてもこれらの句が「平成」=21世紀の日本の現実とは思えないのだ。


チンドンの夫婦帰るや夕みぞれ 平成十九年(2007年) 

燕の子しばし見上げて郵便夫 平成十九年(2007年) 

もの思ひ火鉢の灰に差す煙草 平成二十年(2008年)

厠(はばかり)の小さきさわやか朝の窓 平成二十一年(2009年) 

草野球ボール探せば草いきれ 同上

子にまじりガラス屋凧の揚げ上手 平成二十二年(2010年)四月

癇症の女の叩く蒲団かな 平成二十三年(2011年)二月


こういう世界が「今の現実」なら、これが今の外界なら、まだ、生きられる気がする。

今日母が、買い物の帰りにお隣の年配の女性と立ち話をして、その人が、天井に吊るす蛍光灯が壊れてしまったので買いに行ったら、今どきは電気を点けるひもがぶら下がっているものはなく(?)みなリモコン操作になってしまっているのだといわれたらしい。年寄り同士の立ち話なので、正確では無いかもしれないが、だらりとひものぶら下がった裸電球がそぞろ懐かしく思える。
今の現実、今の世界は、やはりどうしても性に合わない。どうしても好きになれない。


何度も書いたことだが、種村季弘没後、急速に醜悪になっていった東京。
「種村さん、見なくてよかったよ。」と作家、建築デザイナーの松山巖は嘆息した。
「(今のこの現実を)見なくてよかったよ・・・」蓋し名言である。

  落花生もむ指で打つブログかな 平成二十一年(2009年) 変哲

これが詠まれて十年が過ぎた。そして「見ない方がいい」「見たくもない」世界に、「現実」の中に、何故かわたしはまだ残っている・・・ブログを書くため?

「一冊の本は、延期された自殺である・・・」ー エミール・シオラン


〔『俳句で綴る変哲半世紀』小沢昭一(2013年)より〕



















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