2019年3月16日

告白…


● わたしは現代の世界が嫌いだ。同時にわたしは自分自身が大嫌いだ。
世の中を好きになれない自分が嫌いなわけではない。
世の中も、自分も、どちらも嫌いだ。
そんなわたしから見ると、世の中とうまくやっていたり、
自分が好き・・・とはいわずとも、まんざら嫌いではないというような人は理解を超えている。とはいえ、わたしほど愚劣な人間もいないだろうから、下には下がいるという点で、「自分を嫌いではない」ということはできるかもしれない。


● 世界一の金持ちになることと、世界中から、スマホとタブレットの類が消滅することのどちらを選ぶかと訊かれたら、それはあまりに愚かな質問だが、後者以外の答えがあるか?
では世界中から戦争がなくなることと、携帯用端末がなくなること。どちらかが実現可能だといわれたら。これは難しい。子供にガソリンを飲ませて親の目の前で火をつけるようなことと、電車のなかでスマホに見入っている人間が消滅すること・・・
とても答えられない。


そう、まさに人のことよりも、自分の不快嫌悪を最優先してしまうこと。なによりもそこがわたしの最も愚劣なところだ。
地上からスマホがなくなるなら、人が殺されてもいいと考える自分。

けれども敢えて問う。そのような人間=わたしを、「人間ではない!」と糾弾する根拠は何だ、そしてそれができる資格とは何か?あなたは、あなたの「神」を穢されることさえ厭わないといえるのか。
人はそれが誤りであるか否かを問わず、自ら信ずるものを放棄断念した時に死ぬのだ。
わたしが「スマホ」に対し「然り」と肯いたとき時、わたしの魂は実質的に死ぬ。即ちこれは、「ただ一人の死」と、「戦争」による「多数の死」との軽重、或いは「死の数量化」の問題なのだ。

最近「エホバの証人」の輸血拒否のことを考える。
子供が事故に遭った。至急輸血が必要だ。けれども、両親(?)は「教え」によって
子供への輸血=他人の血を注入することを拒む。

切れ切れにしか覚えていないが、このことは当時随分論争の種になったはずだ。
わたしはまだ考えがまとまらないが、「輸血拒否」を絶対的な悪乃至過誤だとは思わない。


改めて思う、人間とは本質的に「過つ存在」である、と。

最後に蛇足になるが、昨日の新聞に、ホーキング博士の生前の言葉として紹介されていた
「このままA.Iが進歩し続けることは、人類の終焉を意味するかもしれない」

人間というものが、決して立ち止まること能わざる存在である以上、滅びるだろう。滅びるべきである。滅びなければならない。


ー追記ー

どのような理屈を付けようと、わたしが自分を嫌いであるという事実は1ミリだって変わりはしないのだが・・・



















13 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんにちは。

    ぼくは、「自己中心的であること」よりも、「自己保身的であること」を、人間の行いの中で最も醜いことだと思います。
    反対に、もっとも美しいと思うのは、「自己犠牲的であること」です。

    それ以前に、すべてにおいて「本質に近づくこと」は美しいことだと思いますし、「本質から離れること」は美しくないと思いますし、「本質を失うこと」は醜いことだと思います。

    一見すると、「自己中心的」と「自己保身的」は似たようなことに思えてしまうんですが、「自己中心的であること」は「自己の本質に向かう方向性」を持っているのに対して、「自己保身的であること」には、「人間の本質から離れる方向性」を持っています。

    だから、ぼくは、「自己中心的であること」を、必ずしも醜いとは思いません。
    そして、Takeoさんを「自己保身的な人」だとは思いませんよ。

    Takeoさんが、ご自身のことを好きになれないということについては、ともかく、少なくとも、ご自身のことを「自己保身的」だとは思っていないんじゃないですか?
    ぼくから見ていると、Takeoさんは、「自己保身」よりも「自己犠牲」の面が強い人に見えますよ。

    と言うか、「現在に対応できない人全般」に言えることですが、自ら進んで「犠牲」に成っているようなところがあるように見える時が多いですね。
    もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが、「社会」や「時代」の「犠牲」に成っているところがあるのは、確かだと思います。

    そして、意識して、そこに向かって行く行為を、ぼくは美しいと思っています。
    決して、醜いとは思いません。

    では、また。




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    1. こんばんは、ふたつさん。

      母は今わたしのために図書館に行き(自分の本もあることはありますが)、薬がなくなったというので、内科にいっています。母はもう何年も前から自転車には乗れません。
      わたしが行けば、半分以下の時間で済むのですが、もう内科も、精神科も、母に行ってもらうことが当たり前のようになっています。
      外に出ることはつらい。そのつらさのために母を使う自分が嫌いです。
      もっと大きく言えば、「生まれてきた罪」を感じています。いや、そのような言い方は韜晦ですね。哲学的な表現でごまかすのは卑怯です。
      要はわたしが箸にも棒にもかからないろくでなしであるという至極単純な事実です。

      まだ生きているのか?といつも思っています。

      >「自己中心的であること」は「自己の本質に向かう方向性」を持っている

      そんな綺麗なことじゃないんです。要はただただ楽をしたいだけなんですよ。

      「自己中心的」と「自己保身的」は正反対の性質ですね。保身のためには自分を犠牲にしてでも、相手に合わせなければならない。強い者には逆らえない。(逆らわない、かな?)とにかく生き延びるためには「期を見るに敏」でなければなりません。

      逆に自己中心的、と言えるかどうかわかりませんが、己の自我(エゴ)に忠実たらんとすれば周囲との摩擦が生じます。そして「合わせよう」としないので、人は遠ざかってゆく。

      もっとも繰り返しますが、わたしの場合はあくまでも「わがまま」「身勝手」ですけどね。

      >ぼくから見ていると、Takeoさんは、「自己保身」よりも「自己犠牲」の面が強い人に見えますよ。

      いやいや、そういうことはありません。確かに「保身」に関心はありませんが、苦労を厭わずに人のために、という人間ではまったく、まったくありません。
      また、意味が違いますが、わたしは自分が「社会の犠牲」になっているとも思いません。

      「社会」や「時代」そして制度の犠牲になっている人はいくらでもいます。

      フランスではデモ隊が暴徒化しているとか。当たり前です。相手は「権力」なんだから力で抵抗するしかないじゃないですか。

      弱い人たちはうつくしい。けれども、フランスと言わずとも、百万人規模で、権力に立ち向かったお隣の国の足もとにも及ばない。

      犠牲になっていることに甘んじていてはダメなのです。

      と、そのようなことを書いたり考えたりすることに疲れています。

      わたしは自分が嫌いです。この時代が嫌いです。そして日本が嫌いです。








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    2. こんばんは。

      『綺麗ごとじゃない』と言うことは、わかりますよ。
      ぼく自身は、けっこうコスッカラク生きてきた方なので、そういうことは、よくわかるつもりです。
      『ただただ、楽をしたいだけ』と言うのもあるでしょうが、実際は、ほとんどの人が(偉人と言われる人であっても)そんな程度だと思います。

      ぼくは、「人間」は「人間未満」だと思っているので、そういう意味では、『楽をしたいだけ』というのも『綺麗ごとじゃない』と言うのも、当然のことだとしか思いません。
      むしろ、「それを認められること」と「それを認めようともしないこと」の差が大きいと思います。

      たとえば、Takeoさんは、自分のことは嫌いでもシオランと言う人のことは嫌いにはならないでしょう?

      ぼくは、こちらで、シオランという人の文章を知りましたが、美しい文章だと思います。
      シオラン自身は、何かの犠牲になろうとしたわけではないのかもしれませんが、ぼくから見ていると、そんなことを感じてしまうわけです。
      だから、美しいと感じるんだと思います。

      ぼくは、すべての時代が嫌いですね。
      「いい時代」はこれからも来ないと思っています。
      それと同じように、すべての人間や、すべての国も好きになれないはずなんですが、やっぱり、好きな人もいますし、嫌いな人もいます。

      要するに、まったくの「いいかげん」です。
      なぜかと言えば、「人間未満」だからです。

      だから、「それを認める人」であれば、それで十分だと思っているわけです。

      では、また。

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    3. こんばんは。

      >『ただただ、楽をしたいだけ』と言うのもあるでしょうが、実際は、ほとんどの人が(偉人と言われる人であっても)そんな程度だと思います。

      「偉人」とか「著名人」と言われる人ほどそうで、名もなき庶民は楽をしたくてもできないというのが現実じゃないでしょうか?

      >「人間」は「人間未満」だと思っている

      なんだかこういう言い回し、以前なら自然に理解できたように思いますが、今は思考力がひどく鈍くなっているのか、「人間」は「人間未満」という言葉にピンと来ません。

      今日デイケアに行ってきました。ほぼ一か月振りです。
      前回の「デイケア」についての記事にも書きましたが、話し合い系のプログラムに参加しても、利用者ー参加者との齟齬、そして開きは大きくなるばかりのような気がしています。
      参加はしていても、もう以前のように「わたしはこう思う」というような自己主張をすることもめっきり無くなりました。

      帰りのエレベータのなかで奥の鏡の前に立つと、そこには太って醜い、どろんとした目をした鈍そうな男の姿がありました。

      エミール・シオランに関しては、言っていることはいちいちもっともだと肯きますが、シオランその人が好きかと訊かれるとそうでも無いようです。

      彼は口を極めて人生を呪いながら、結局それなりの年齢まで生き延びた。
      彼はニーチェの「処女性のようなもの」、あまりに無垢な(ナイーヴ)なところが気に入らないようですが、わたしはニーチェのように狂気に陥ることも、ゴッホのように自殺することも、ワイルドやボードレールやポーのように、貧窮のうちに死ぬこともなかったシオランと言う厭世家を好きになれません。

      何を言おうと、最後まで壊れる、また敗れることのなかった人間をわたしは愛することはできません。

      自分が嫌いだ、自分は嫌な奴だという自覚を持つことが、持たない人間に比べてマシか?自分が嫌いだと公言することが、嫌な奴であり続ける免罪符になるとは思えないのです。

      ところで、最近は考えること、書くことがひどく面倒になって、アートのブログに入り浸っています。

      近況について書くという気力も体力もありません。

      本当に瀬里香さんが酒と煙草に逃げるように、アートに逃げています。

      先日、隣の国立に行きました。一駅電車に乗っただけですが、スマホと戦争とどちらがなくなればいいかという問いには、やはり生涯答えることはできないと思いました。

      つまり人間の醜さの象徴として、「戦争」「虐殺」と「スマホ」「タブレット」とはまったく同等なのです。






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  2. こんにちは、Blueさん。

    Blueさんの困惑とわたしの困惑は同じではないとは思ふのですが、わたしも自分が大嫌いです。子どもの頃からです。ADHDのわたしは何しろ叱られてばかりの子どもでしたし、未だに「自己肯定感」やら「自尊心」やらを育むことができないままで居ます。みづからを、とうとぶことができないわたしを、わたしは嫌いです。

    >下には下がいるという点で、「自分を嫌いではない」ということはできるかもしれない。
    :はい。わたしが一番下なのでわたしの下には誰も居ません。わたしを眺めて相対的に安心してくれる人がいたら「さいわいです」と云えなくもありません。

    >まさに人のことよりも、自分の不快嫌悪を最優先してしまうこと。
    :わたしもさうです。さういう自分を残念に思ひます。これから先も自分はかういう人間でしかいられないのかと思ふと不安になるどころか、もう生きてゐたくないやうな気分になります。

    >地上からスマホがなくなるなら、人が殺されてもいいと考える自分。
    :わたしから、タバコと酒が消えるなら、と考えてしまいます。


    こんにちは、Blueさん。

    Blueさんの困惑とわたしの困惑は同じではないとは思ふのですが、わたしも自分が大嫌いです。子どもの頃からです。ADHDのわたしは何しろ叱られてばかりの子どもでしたし、未だに「自己肯定感」やら「自尊心」やらを育むことができないままで居ます。みづからを、とうとぶことができないわたしを、わたしは嫌いです。

    >下には下がいるという点で、「自分を嫌いではない」ということはできるかもしれない。
    :はい。わたしが一番下なのでわたしの下には誰も居ません。わたしを眺めて相対的に安心してくれる人がいたら「さいわいです」と云えなくもありません。

    >まさに人のことよりも、自分の不快嫌悪を最優先してしまうこと。
    :わたしもさうです。さういう自分を残念に思ひます。これから先も自分はかういう人間でしかいられないのかと思ふと不安になるどころか、もう生きてゐたくないやうな気分になります。

    >地上からスマホがなくなるなら、人が殺されてもいいと考える自分。
    :わたしから、タバコと酒が消えるなら、と考えてしまいます。


    この記事をスマホで読み、スマホからコメントをしてゐます。代わりに最近、滅多にPCの電源を入れないやうになりました。記事をスマホで読み、スマホからコメントをしてゐます。代わりに最近、滅多にPCの電源を入れないやうになりました。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      最初にお聞きしますが、

      >この記事をスマホで読み、スマホからコメントをしてゐます。代わりに最近、滅多にPCの電源を入れないやうになりました。

      この文章にはなにか含みがあるのでしょうか?
      つまり私はあなたが嫌がることをしているんだよと言うアピールであるとか?

      >未だに「自己肯定感」やら「自尊心」やらを育むことができないままで居ます。みづからを、とうとぶことができないわたしを、わたしは嫌いです。

      わたしはもう老い先短い人間ですから、「自尊心」とか「自己肯定感」というものにこだわらなくなりました。「醜く汚い狂人」そういう自分に甘んじています。甘んじる、というよりも、それが「わたし」です。

      それに、自分に自信のある人間がそもそも好きじゃありません。
      人間て、自分を軽蔑しているくらいがちょうどいいんだと思います。

      >自分の不快嫌悪を最優先してしまうこと。

      スマホと戦争と、どちらがなくなればいいか?それにこたえることのできない自分が嫌いではありません。自分にとって「醜いもの」を醜いと言っているだけのこと。

      そして、この発言、考え方について、あれこれ考えたり書いたりすることはひどく面倒くさい。今は「言葉で考える」(=トートロジーですが)ことに興味を失ったのか、単に心身の衰えかわかりませんが、善悪だろうが美醜だろうが、所詮個々人の主観に依拠すること、つまり「趣味の問題」について、あたかもなにか「客観的な正しさ」のようなものがあるかのように、あれこれ書くことがひどく億劫なのです。

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    2. >この文章にはなにか含みがあるのでしょうか?
      :いえ、特に主張はありませんよ。現況をそのまま話しただけです。決して嫌がらせなどではなく、お恥ずかしながらスマホはわたしの「逃亡先」なのです。

      >つまり私はあなたが嫌がることをしているんだよと言うアピールであるとか?
      :いえ、わたしはわざわざ大切な人が嫌がることをしないのですが、醜いものを避けるパワーも無く時代の産物に流されるやうに生きること「しかできません」という告白のつもりでした。

      わたしも駅のホームや電車の中でスマホを触っている人を「気持ち悪い」「忌々しい」と思ひます。歩きながら、自転車を漕ぎながら、点字ブロックを踏みながらスマホを触っている人にはほとほとうんざりしてゐます。それでもわたしがスマホを持ってゐるのはどうしてなのか、一度考へてみたいと思ひます。わたしスマホを持ってゐるのは「必要だから」ではなく、主に、淋しさを紛らわせるためかもしれません。現実逃避するためなのかもしれません。人差し指ひとつで架空の世界とつながってはカラ元気を出してゐるのかもしれません。たぶん、タバコやお酒と同じで、動くアクセサリーのやうなものです。ただの飾りです。わたしは飾りを外して裸になるのが怖いだけです。裸の自分がとても淋しがり屋で醜いから。そいつと目を合わせるのを避けてゐます。


      今は新聞も読まないしテレビも観ないしラジオも聴かないしPCも開きません。無駄な刺激を受けたくないからです。引きこもり状態です。そんな状態で、わたしにとってスマホは手のひらサイズの慰みものです。しかしアル中やニコチン中毒と違って、スマホ中毒になることは無いと思ひます。そもそもわたしは淋しいと云い乍らも無駄な情報と刺激を避けていますので。そっとしておいてもらいたいので。静かにしてゐたいので。

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    3. こんばんは、瀬里香さん。

      酒や煙草さらにはクスリ(コカインでもヘロインでも)そういう中毒に比べて、スマホに逃避するっていうのは、あまり美しくはないですね(苦笑)

      >醜いものを避けるパワーも無く時代の産物に流されるやうに生きること「しかできません」という告白のつもりでした。

      ここら辺、どうしても思考が深くまで降りてゆきません。例えば「その他大勢」は、瀬里香さんのように、「そのようにしか生きられない」或いは
      >流されるやうに生きること「しかできません」というような感覚とともに生きているのでしょうか?ふたつさんじゃないけど、そういう「恥ずかしながら」という感覚のない人に対しては何も言うことはありません。彼らが間違っているというのではなく、所詮別の生き物だということです。

      >わたしスマホを持ってゐるのは「必要だから」ではなく、主に、淋しさを紛らわせるためかもしれません。現実逃避するためなのかもしれません。

      西部邁の言葉を借りれば、それ=IT、テクノロジーが、現代の宗教だからじゃないかと思います。だから「すがる」のではないか、と。

      >たぶん、タバコやお酒と同じで、

      スマホと、酒、煙草を同列に扱ってほしくないですね(苦笑)わたしはヤク中の、アル中の瀬里香さんを抱き締めることはできるけど、スマホ中毒の人は避けたいですね。

      >裸の自分がとても淋しがり屋で醜いから。そいつと目を合わせるのを避けてゐます。

      文学や哲学や芸術って、そういう地点から生み出されるものだと思います。
      醜いこと、サビシイことは恥ずかしいことじゃない。またそこから目をそらすことも恥ずべきことじゃない。しかし、人生をスマホに預けることにはやはり抵抗があります。

      瀬里香さんは今、フェイスブックではどうしているのか知りませんが、kokoさんて、いますよね。昨年3月に新宿のジャズ喫茶に、そして4月に渋谷のBunkamuraにつれて行ってくれた人です。その時撮ってもらった見苦しい老人の写真も知ってますよね(苦笑)
      昨年暮れ、電車に乗れなくなったわたしのために、電車を乗り継いで1時間、ここまで来てくれました。とても親切な人です。最寄り駅のそばのパン屋さんで、2度ほど会いました。(あれ?1度だったかな?)
      とにかく、その後こちらからはもう会いませんか?という連絡をしていません。
      彼女はパンを食べる前に当たり前にスマホで写真を撮ります。
      わたしがトイレから戻ってくるとスマホをいじっていたようです。

      どんなに優しいいい人でも、今の時代、人と付き合うということは「スマホとセット」でなければなりません。わたしは彼女に、「わたしと一緒の時にはスマホを持ちださないでもらいたい」とは言えませんし言うつもりもありません。どこにそんなことを言う資格があるでしょう?「スマホが嫌なら会わなきゃいい」それだけです。

      いつもコメントをありがとう。

      ぶっきらぼうな返事しかできなくてごめんね・・・







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  3. アートは逃げるものではなく求めるものです。

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  4. メプさんへ

    現在このコメント欄は承認制になっていて、公開・非公開はわたしが決めます。
    ですから、わたしだけに読んでほしいということでしたら、その旨を書いてコメントしてくれれば、ここには公開しません。

    返事が聞きたいのか、或いはただ読んでくれればいいのかも書き添えてください。

    公開でやり取りしたい場合にもそのように書いてください。

    といっても現在はこのブログは休業状態ですが・・・

    返信削除
  5. メプさんへ。

    コメント、拝読しました。
    ブログ村がリニューアルにより使いにくくなったこと、そして個人的な気持ちの変化などで、最近は人のブログを訪れることも滅多になくなりました。

    昨年1年間で、少なくない人のブログに出会い、またそのいくつかは突然消えてしまいました。
    「引きこもり歴20年のブログ」ですか。
    ある人は、わたしに「20年間も引きこもっているなんて人生に対する罪であり、罰である」といいました。いかなる資格に於いてか、その人物は「わたしの人生を裁いた」のでした。
    そしてそのような考え方が幅を利かす世の中に、その彼も、わたしも生きています。

    もしわたしがコメントを残したという、引きこもりの彼が、万一、自らこの世界から出て行ったとしても、わたしは悲しくはありません。「やっと楽になれたね」と言いたい気持ちです。

    わたしは元気にアートブログに精を出しているのではありません。
    それはこの世界からの、この現実からの、そして人間たちからの逃亡に他なりません。

    メプさんも、過去、そしてひょっとして今も、幾人かの引きこもり、または心を病んだ人のブログを読み、彼らの心を知っているなら、わたしがメプさんが嘗て出逢った誰にも(良い意味ではなく)似ていないことに気づかれたでしょう。

    失礼なお返事になったかもしれません。

    改めて、コメントをありがとうございました。

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  6. 追記、

    メプさんから頂いたコメントを読んでいると、何かわたしに伝えたいことがあった、けれども、わたしがさしあたりブログを閉鎖するつもりはないと分かったので、言いたいことは言う必要がなくなった・・・わたしの半分呆けた頭にはそのように読めました。

    ブログは、メンバー制にすることはあっても、また今2~3人いる(?)読者がゼロになっても、閉鎖はしません。つまりこれは複数の人が書いていたように、わたしの生きた証しなのです。ですからわたしが死んでも、ブロガーなりグーグルなりが削除しない限りは残します。

    わたしはこちらから、そして「死」は向こうからお互いに歩み寄っている。そして多分、どちらかが回れ右をすることは、もうないように感じています。

    神ですら愛せなかったわたしを抱擁できるのは、ただ「死」だけなのかもしれません。

    良い日曜日を。

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