2019年3月12日

「伝言板」


これはわたしがTumblrでフォローしているアメリカのアンチャン、ジェフ(Jeff Pott
のブログ、kvetchlandiaの投稿。わたしは不勉強で石内都(イシウチミヤコ)という写真家を知らなかった。

「伝言板」「掲示板」ってあったなあ。
いつも思うことだけど、古い時代の日本でも、またパリでも、ローマでも、当時のすべての優れた写真家たちは、自分たちが現在生きている生活空間を撮っていた。
この写真が撮られた76年当時は「伝言板」なんて日本中のどの駅にだってあった。一流のセンスとは当たり前のことを対象化することだ。自分が「その中」にいる世界から一歩外側に出てみること、そして当たり前に目の前にあるもののなかに詩を見ることだ。

ひとつだけ ふべんなのは
そのなかにゐると
すべての<もの>が
まだ 思い出にならないことだ
ー吉原幸子「通過Ⅴ」より
そうではない。すぐれた写真家は、その中にいて実時間の中の思い出を視ている。彼ら / 彼女らの作品は、先取りされた過去である。


今は伝言板があったということすら知らない若い世代も多いのだろう。

「20分待った。先に行ってる」ヒロシ
「何処そこで3時まで待ってる」恵子

黒板に白墨でそのように書いて、パンパンと手を払う。チョークの粉を落とすためだ。

先日紹介した細野晴臣の言葉「今の東京に欠けているものは情緒」「どうやら利便性や効率と情緒とは相容れないらしい」

などと言ってはいるものの、おそらく彼だってスマホを持っているだろうし、LINEすらしているかもしれない。情緒がないとか便利であることは味気ないなどと言いながらも押し流されてゆくのが大方の人間だ。

だから、その前に死んでしまうのがいいのだ。自分の美意識が時代のそれとどうしようもなくかけ離れてしまう前に。
「見なくてよかったよ」「知らなくて幸せだった」と言われるために・・・

改めてこの写真を観ると、自分はいま「未来の世界」に、情緒も潤いも詩情もない、街も人の心もカサカサに乾いた「未来」の中にさ迷い混んでしまっているのだと実感し、戦慄する。




Yokosuka Story #58, 1976–77

Apartment #47' 1977-78


わたしが引きこもる理由 〔種村季弘の見た東京〕









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