最近のコメントで、「逃避」という言葉をよく使っていることに気づいた。
ある人は、アルコールやたばこ、そして「スマホ」にさえ「逃避」しているといい、
わたしはアートに、音楽に、逃避先を見出している、と・・・
「逃避」することが「生きていること」「生きること」と同じ意味になっている。
「生きること」とは「生からの逃避」であるというパラドクスがそこにある。
「現実」を生きる。仮に、生きるということは逃避することではなく、「現実の中で」現実を生きることだというのなら、「彼ら」のいう「現実」とは何か?
そここそが「生きる場所」であるという「現実」(Real World)とはいかなるところか?
けれども、「逃げる」ことでしか「生きられない」人間もいる。
同時に、ほんとうに「逃げること」とは、本当の「逃げ場所」とは、「生の内側」には無いのではないのか、という思いもある。真に逃げるとは、とりもなおさず「生からの逃避」即ち「死」ではないのか。
「現実逃避」という。けれども、現実とは畢竟自分自身、血と肉を持った自分の身体に他ならない。世界の果てまで逃げて行こうと、生きているということは、腹が減るということであり、爪や髪が伸びるということであり、何もしなくても垢がたまるということであり、暑さ寒さが堪(こた)えるということだ。生きている限り「腹が減る」ー「食わなきゃならない」ー「食い物を調達しなければならない」という「現実中の現実」からは決して逃れることはできない。
◇
「今から二十年ほど前、長く摂食障害を患う五十代の女性が腎不全を来し、透析が必要になった。ところが彼女は希死念慮が強く「死にたいから嫌」。長いつきあいの精神科医が勧めても承諾しない。親族にも連絡が付かず、病状は悪化していった。
そして彼女の命を奪ったのは、突然の心疾患。彼女の命が続いていたら、私たちはどんな決断をしたのだろう。
私を含め、関わった医療者は、あくまでも透析をする方向で考えた。
当時は、「命を延ばすばかりが医療ではない」との批判が高まり、蘇生をしない死が増えつつあった時期。それでも、透析をすれば年の単位で生きられる可能性が高い。何もせずに死なせるのは忍びなかった。
「彼女は死にたいのではなく、絶望しているのです」と言い切った主治医を、私は今も尊敬している。それはパターナリズムと裏表に違いない。それでも、医療者は生きたい人を死なせる可能性を、絶対に排除しなければいけない。
三十年この仕事(精神科看護師)をしてきて、批判されない医療はないと思うようになった。選別が進む世の中。「安易に死なせた」と言われるよりも「生かし過ぎだ」と批判されるくらいがちょうどよいのではないか。」
これは以前にも『親子だから』という元のタイトルを使って書いたことのある、東京新聞に週一回、『本音のコラム』欄に執筆している精神科看護師宮子あずささんの、三月十八日付の記事、「人工透析の思い出」の引用である。
「透析をすれば年の単位で生きられる可能性が高い。何もせずに死なせるのは忍びなかった。」という周囲の声のなかで、「彼女は死にたいのではなく、絶望しているのです」と言い切った主治医を尊敬しているという。それはまさに「パターナリズム」と正反対のスタンスだが、宮子氏は続けて「それでも、医療者は生きたい人を死なせる可能性を、絶対に排除しなければいけない。」ここにひとつのパターナリズム的な陥穽が潜んでいるように思う。
「生きたい人を死なせてはいけない」つまりパターナリズムに毒された人たちは、「彼女は本当は、心の底では生きたいんだ」ということができる。「死にたいと繰り返す彼女の希死念慮こそ、正に「病気」が生み出したものであって、われわれは、それをこそ「治癒」すべきだ」と・・・
わたしは宮子氏とは全く逆の立場から、もっともっと早急に「安楽死」「自殺幇助」の方向に、つまり「生」ではなく、「死」へのバリアフリー・・・その道筋を整えるべきだと思っている。
以前Q&Aサイトで、「あなたが大金持ちで、不治の病にかかったときに、ブラック・ジャックとドクター・キリコ、どちらに自分の身を任せますか?」と問うたことがある。
無論わたしの答えはキリコだ。
精神科の看護師・・・宮子氏の考えは、わたしには、安易で、かつあまりに時代に逆行しているように思えて仕方がない。
「死に至る病とは絶望である」医療者の・・・いや多くの人たちはこのように考えているのではないだろうか ── しかし人間という実存が、生きることに、世界に、人間に絶望する。果たしてそれが「病い」だろうか。
いわゆるパターナリズム(=価値観の押しつけ(乃至強制)主義)は、中島義道のいうように日本のお家芸だが、医療におけるパターナリズムは、時として、病いと同等か、或いはそれ以上に悪質である。
不悉
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