2019年3月13日

困惑…


たとえばわたしが今日はじめて精神科を受診する。問診票を渡される。
「どのようなことで受診をされましたか?」という欄でペンが止まる。
何を書いたらいいのかわからない。
その部分を空欄のまま提出する。看護師は怪訝な顔をするが、「とにかく先生とお話しください」

診察室に入って、目の前の精神科医に訊かれる「どうされましたか?」「どのようなことでお困りですか?」
「あ・・・」言葉が出てこない。

わたしはなにかに困っているような気がする。けれどもいったいなにに困っているのか、或いは何も困っていないのか、それがわからない。

「困る」というのは、あることをしなければならないのに、それがうまくいかない。あるいは、こういうことをしたいが、なかなか思うようにならない。というようなことではないだろうか。(たとえば「就職」、たとえば「結婚」、たとえば「友達を作ること」、そしてたとえば「健康になること」「社会復帰」・・・etc)だとすれば、そもそも(上記のような)「しなければならないこと」「したいとおもうこと」「目指す状態」が無い場合には、「そこ」にたどり着けずに「困る」ということがあり得るだろうか?

「元気になって自由に外に出られるようになりたいのになかなか良くならない」
元気になって外に出たいと思っていない場合にはなにも困ることはないはず。

「自分が人間かどうかわからない」
「人間」でないとなにか不都合でも?

「現代社会に適応できない」
適応したいと思っているのか?

「ひとと話が通じない」
本当に通じ合いたいと思っているのか?そもそも「通じる」と思うのか?

いったいわたしはなにかに困っているのか?だとしたら、なにに困っているのかを教えてくれるのは誰か?

仮になににも困っていないとしたら、そうだとしたら、何故こうまで生きていることがたいへんなのだろう?
なぜこんなに疲れているのだろう?
なぜ自殺のことを考えない日はないのだろう?
なぜひたすら「楽になりたい」と思い続けているのだろう・・・












2 件のコメント:

  1. こんにちは、Blueさん。

    わたしも特別「何に困ってゐる」というわけでもありません。住むところもあるし着るものもあるし食べるものもあるし、以前のような衝動性もないし、怒りもないし悲しみもないし苦しみもないし絶望感もありません。
    少し困ってゐるのは睡眠薬無しでは眠れないことぐらい。少し苦しいのは過食症の発作がたびたび起きることぐらいかな。だからと云ってそれで死ぬわけではないのだけど。

    わたしの場合、どちらかと云うと「何もしてゐない」ことに対する「罪悪感」や「焦燥感」や「不安」や「淋しさ」をいつも感じてゐて、それらを感じることに、わりと疲れてしまいます。特に「不安」がやっかいなのですが、その不安は具体的ではなく、漠然としたものです。老いる不安だとか死ぬ不安だとか、これから先の自分がどう生きるのかまるで分からない不安だとか、こんな低賃金の仕事をしてゐて老後の資金を蓄えられるのかとか、これからも今の低賃金の会社でずっと働くのかとか、この低賃金で離婚して大丈夫なのかとか、そもそも会社が潰れないだろうかとか、親が死んだら誰がわたしの世話をするのかとか。

    佛教では四苦八苦と云って、生まれるのも病気になるのも老いるのも死ぬのも全て苦しい。生きてゐるだけで苦しい。死ぬのも不安だし死んだあと地獄に落ちるのも不安。わたしはちっとも丁寧に生きてゐないので、地獄に落ちるのぢゃないかと不安なんですよ。不安というのは、それがあるだけで疲れてしまいます。

    でも不安と云うのがワルモノだとは思ひません。治療によって取り除くべきものだとも思ひません。むしろこんな不安定でアンバランスで狂った世界で生きてゐて安心していられる人がいたら、その人こそ狂っていると思ひます。

    わたしはよく精神科の診察で「混乱してゐます」だとか「苛々します」だとか「淋しいです」「発作が苦しいです」「死んだように生きてゐます」「命を削って生きてゐます」、そんな風に訴えます。わたしが何かしゃべると、Dr.は次の言葉を引っ張り出すような問いかけをしてくれます。それでもわたしは途切れ途切れにしか話せないことが殆どです。

    「何に困ってゐるのですか」と訊かれたら、「生きてゐる実感が薄いことに困ってゐます」と答えると思ひます。わたしが飲んでいる薬は躁鬱の波を穏やかにする薬や気分を安定させる薬が主ですが、薬のせいもあり、感情に蓋をされてゐる気分になることがあります。絶望もしないけれど楽しいこともひとつもないという。生きてゐる実感が淡いという「淋しさ」をときどき感じます。でも淋しさもワルモノだとは思ひません。もっと不安になってもっと淋しくなって、わたしが何かをしたくなるのを待っていればよいのかなあと、そんな気がしてゐます。

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    1. こんばんは、瀬里香さん。

      >「何もしてゐない」ことに対する「罪悪感」や「焦燥感」や「不安」や「淋しさ」をいつも感じてゐて、それらを感じることに、わりと疲れてしまいます。

      何もしていないことないじゃないですか。仕事をして給料をもらっているだけでもたいへんな能力です。だってわたしには真似できないから。

      たいていの人は会社と家との往復の毎日じゃないのかな?
      瀬里香さんは希望としては、なにがしたいの?

      わたしなんかネットやる以外本当になんにもしてないよ。
      最近は本も読めないし、映画を観る気にもなれないし。

      瀬里香さんの「不安」は漠然としているというよりも、先行きの不安といった感じですね。

      生・老・病・死、これはみな「生」から発するものですね。
      この不安は、将来に対しる不安とは別のようですね。

      >むしろこんな不安定でアンバランスで狂った世界で生きてゐて安心していられる人がいたら、その人こそ狂っていると思ひます。

      うん。でもわたしは自分がマトモだとは思っていないし思えないな。やっぱりわたしは狂ってると思うし、yy8さんじゃないけど、脳に欠陥・障害があるんだと思います。

      今のこの世の中でまともでいられる人は「狂ってる」とは思わないけど、わたしとはまるで違う存在ですね。

      「生きている実感」か。そんなもの嘗て感じたことがあっただろうか?
      わたしに一番近い情動・感情は「喜怒哀楽」のどれでもなく、「恨み」怨み、嫌悪、そしてなによりも厭世観だと思います。

      ただ一つだけ言えることは、内面が空虚だから、音楽や絵や、言葉の流れ込む場所があるのだと思います。

      「満たされている」という感覚は怖いですね。

      淋しさがあるからそれを埋めようという感情が生まれるんじゃないかな。

      ピント外れの返事でごめんなさい。

      コメントをどうもありがとう。


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